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    漢詩百選

【唐詩七】  杜甫  李白  楊巨源 高駢 元稹 許渾 劉長卿 劉方平 王績  

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(杜甫)

(兵車行) (羌村三) (八陣図) (促織) (旅夜書懐)



兵车行 bīng chē xíng   (唐) 杜甫    

车辚辚 马萧萧 行人弓箭各在腰   chē lín lín mǎ xiāo xiāo xíng rén gōng jiàn gè zài yāo
妻子耶娘走相送 尘埃不见咸阳桥   qī zi yē niáng zǒu xiāng sòng chén āi bú jiàn xián yáng qiáo
牵衣顿足阑道哭 哭声直上干云霄   qiān yī dùn zú lán dào kū kū shēng zhí shàng gàn yún xiāo
道旁过者问行人 行人但云点行频   dào páng guò zhě wèn xíng rén xíng rén dàn yún diǎn háng pín
或从十五北防河 便至四十西营田   huò cóng shí wǔ běi fáng hé biàn zhì sì shí xī yíng tián
去时里正与裹头 归来头白还戍边   qù shí lǐ zhèng yǔ guǒ tóu guī lái tóu bái huán shù biān
边庭流血成海水 武皇开边意未已   biān tíng liú xuè chéng hǎi shuǐ wǔ huáng kāi biān yì wèi yǐ
君不闻汉家山东二百州 千邨万落生荆杞   jūn bù wén hàn jiā shān dōng èr bǎi zhōu qiān cūn wàn luò shēng jīng qǐ
纵有健妇把锄犁 禾生陇亩无东西   zòng yǒu jiàn fù bǎ chú lí hé shēng lǒng mǔ wú dōng xī
况复秦兵耐苦战 被驱不异犬与鸡   kuàng fù qín bīng nài kǔ zhàn bèi qū bú yì quǎn yǔ jī
长者虽有问 役夫敢申恨   zhǎng zhě suī yǒu wèn yì fū gǎn shēn hèn
且如今年冬 未休关西卒   qiě rú jīn nián dōng wèi xiū guān xī zú
县官急索租 租税从何出   xiàn guān jí suǒ zū zū shuì cóng hé chū
信知生男恶 反是生女好   xìn zhī shēng nán è fǎn shì shēng nǚ hǎo
生女犹得嫁比邻 生男埋没随百草   shēng nǚ yóu dé jià bǐ lín shēng nán mái mò suí bǎi cǎo
君不见青海头 古来白骨无人收   jūn bú jiàn qīng hǎi tóu gǔ lái bái gǔ wú rén shōu
新鬼烦冤旧鬼哭 天阴雨湿声啾啾   xīn guǐ fán yuān jiù guǐ kū tiān yīn yǔ shī shēng jiū jiū



【注 釈】

兵車行(へいしゃかう)

車(くるま)轔轔(りんりん) 馬(うま)蕭蕭(せうせう)
行人(かうじん)の弓箭(きゅうせん) 各(おのおの)腰に在り
耶嬢(やぢゃう)妻子(さいし)走りて相送る
塵埃(ぢんあい)に見えず 咸陽橋(かんやうけう)
衣(ころも)を牽(ひ)き足を頓(とん)し 道を攔(さへぎ)りて哭(こく)す
哭声(こくせい)直(ただ)ちに上(あが)りて 雲霄(うんせう)を干(をか)す

道旁(だうばう)過(す)ぐる者 行人(かうじん)に問ふ
行人(かうじん)但(た)だ云ふ「点行(てんかう)頻(しき)りなり」と
或(あるい)は十五より 北のかた 河(か)を防ぎ
便(すなは)ち四十に至るも西のかた 田(でん)を営(えい)す
去(さ)る時 里正(りせい) 与(ため)に頭(とう)を裹(つつ)み
帰り来たれば頭(とう)白くして還(ま)た辺(へん)を戍(まも)る
辺庭(へんてい)の流血(りうけつ) 海水(かいすい)を成すも
武皇(ぶくわう) 辺(へん)を開く意 未だ已(や)まず
君聞かずや 漢家(かんか)山東(さんとう)の二百州(にひゃくしう)
千村(せんそん)万落(ばんらく) 荊杞(けいき)を生ずるを

縦(たと)ひ健婦(けんぷ)の鋤犁(じより)を把(と)る有りとも
禾(くわ)は隴畝(ろうほ)に生(しゃう)じて東西無し
況(いは)んや復た秦兵(しんへい)苦戦に耐(た)ふとて
駆(か)らるること犬(けん)と鶏(けい)とに異ならず
長者(ちょうしゃ)問ふ有りと雖(いへど)も
役夫(えきふ)敢(あ)へて恨みを申(の)べんや
且つ今年(こんねん)の冬の如きは
未だ関西(くわんさい)の卒(そつ)を休(や)めざるに
県官(けんくわん)急(きふ)に租(そ)を索(もと)む
租税(そぜい)何(いづ)くより出でん

信(まこと)に知る 男(だん)を生むは悪しく
反(かへ)りて是れ 女(ぢょ)を生むは好(よ)きを
女(ぢょ)を生まば 猶(な)ほ比鄰(ひりん)に嫁するを得(う)るも
男(だん)を生まば 埋沒(まいぼつ)して百草(ひゃくさう)に随(したが)はん
君見ずや 青海(せいかい)の頭(ほとり)
古来 白骨(はくこつ)人の収(をさ)むる無く
新鬼(しんき)は煩冤(はんゑん)し 旧鬼(きゅうき)は哭(こく)し
天(てん)陰(くも)り雨湿(うるほ)ふとき 声啾啾(しうしう)たるを


【口語訳】

轍(わだち)の音は轟(とどろ)して 馬の歩みは徐(しづ)かなり
征(ゆ)く人 弓をたばさみて 別れを惜しむ妻や子の
走り来たりて ひしめけば 立ち舞ふ 路(みち)の砂ぼこり 
咸陽橋(かんやうけう)も見えわかず
袖にすがりて足摺りし  むせび泣く声 天に満つ

ゆきずり人の尋ぬれば  答えていわく 大君(おほきみ)の 
役(えだち)の文(ふみ)の しきりにいたる
われ十五にして 北の方 黄河の岸に年経つつ 
四十路(よそぢ)転じて 西の方  田(でん)に屯(とん)して放たれず
十五を祝(ほ)ぎて 村長(むらおさ)の 冠(かむり)かづけし  栄(は)えの日も
遠く昔とかけ去りて 頭に霜をかづく今 狩り出だされて辺(へき)に在り

異郷(いきゃう)に流せしつはものの 血潮(ちしほ)は海と化すれども
なんぞ うたてし 大君(おほきみ)の 凶(まが)しき夢はなほさめず
聞かずや漢家(かんか)二百州 村ことごとく寂(さび)はてて
荊(いばら)ぞ道を  埋(うづ)みける

よしや健婦(けんぷ)の鋤(すき)とりて 耕すとても西東
田畑はうねの分(わか)ちなし
ましてや鋼(かた)き わが兵の 物にし耐(た)ゆる性(さが)なれば
犬馬のごとく使(つかわ)れて 心やさしくまれまれに
長上(めうへ)の者の問ふ時も 黙(もく)して喞(かこ)つ者ぞなき

とりわきて 今年の冬は西の関(せき) 役(えだち)は なほも 休(や)まずして
つかさびと 税の取り立てすさまじく 男手なしの農家ゆえ 
いづこより税の出したるか 奈何(いかん)ともなし難し

かかる世なれば われ知りぬ 男を生むは身の滅び 女を生むはせめて好(よ)し
女を生めば嫁ぐ幸あり 男を生めば明日は野ざらし 草と枯れゆく

見ずや君 青海(せいかい)の 遙(はる)けきほとり
ねんごろに収むる人のあらざれば 白骨(はくこつ)の 地にみだれ
ゆくへなく迷へる魂(こん)は 身もだへつ 恨(うら)みつ 哭(な)きつ
雨の日ぞ いとどおどろしき哀咽(あいえつ)の 啾啾(しうしう)たるを聞くのみ



【兵车行】 bīng chē xíng     兵車の行(うた)兵と戦車の歌。「行」は歌の意。

752年、杜甫41歳の作。当時、唐王朝の国境はしばしば異民族におびやかされ、
これを制圧するたびにたびたび遠征が行われた。

そのたびに農民は兵士として徴兵され、見送る家族や子供らの泣き叫ぶ声が野を打った。
この詩はこのような状況に基づいて書かれたものである。


【车辚辚 马萧萧】 車(くるま)轔轔(りんりん)、馬(うま)蕭蕭(せうせう)。
戦車の音がりんりんと轟き、馬がもの静かにいななく。

【辚辚】 lín lín      車が転がる音。
【萧萧】 xiāo xiāo      馬の静かにいななく声。

【行人弓箭各在腰】 行人(かうじん)の弓箭(きゅうせん)各(おのおの)腰に在り。
出征する兵士はそれぞれ弓矢を腰につけている。

【行人】 xíng rén      出征兵士。
【弓箭】 gōng jiàn      弓矢。

【妻子耶娘走相送】 耶嬢(やぢゃう)妻子(さいし)走りて相送る。
父母や妻子は走りながら出征する兵士たちを見送る。

【耶娘】 yē niáng      父と母。

【尘埃不见咸阳桥】 塵埃(ぢんあい)に見えず、咸陽橋(かんやうけう)。
その土煙で咸陽橋も見えない。

【咸阳桥】 xián yáng qiáo      長安の渭水にかけられた橋。
長安から出征する兵士たちの家族はここまで見送りを許された。

【牵衣顿足阑道哭】 衣を牽(ひ)き、足を頓(とん)し、道を攔(さへぎ)りて哭(こく)す。
見送る人は兵士の衣を引き、足をじたばたさせ、道をさえぎって泣く。

【顿足】 dùn zú      地団太を踏む。

【哭声直上干云霄】 哭声(こくせい)直(ただ)ちに上(あが)りて、雲霄(うんせう)を干(をか)す。
その泣き声がまっすぐに立ち上り雲に達する。

【云霄】 yún xiāo      雲と青空。

【道旁过者问行人】 道旁(だうばう)過(す)ぐる者、行人(かうじん)に問ふ。
道端を通り過ぎる者(杜甫)が道を行く兵士に聞く。

【行人但云点行頻】 行人(かうじん)但(た)だ云ふ「点行(てんかう)頻(しき)りなり」と。
行く兵士はただ「徴兵がたびたび行われているのです」と応える。
「点」は名簿に印をつけることで、「行」は兵士に行かせること。このことから徴兵の意味。

【点行】 diǎn xíng      徴兵。

【或从十五北防河】 或(あるい)は十五より、北のかた、河(か)を防ぎ。
ある者は十五歳にして北に送られ、北方黄河を防衛する。

【防河】 fáng hé      黄河で防戦する。

【便至四十西营田】 便(すなは)ち四十に至るも西のかた、田(でん)を営(えい)す。
そのまま四十歳になった今は、西に送られ屯田兵として出征する。

【营田】 yíng tián      屯田兵となる。

【去时里正与裹头】 去(さ)る時、里正(りせい)与(ため)に頭(とう)を裹(つつ)み。
出発に際しては村長が成人のはちまきをしてくれた。
「裹头」は、頭を黒い布で包むこと。当時は十五歳になると成人してこの儀式を行った。

【里正】 lǐ zhèng      長老。村長。
【裹头】 guǒ tóu      元服すること。

【归来头白还戍边】 帰り来たれば頭白くして還(ま)た辺を戍(まも)る。
帰ってきたときには頭は真っ白で、また国境に送られる。

【戍边】 shù biān      辺境を防衛する。

【边庭流血成海水】 辺庭(へんてい)の流血(りうけつ)、海水(かいすい)を成すも。
国境では戦いで流された血が海水のようにあふれている。

【边庭】 biān tíng     国境近い場所。

【武皇开边意未已】 武皇(ぶくわう)辺(へん)を開く意、未だ已(や)まず。
皇帝の国境を拡大する考えはまだ止まらない。

【武皇】 wǔ huáng      漢の武帝(暗に玄宗皇帝)

【君不闻汉家山东二百州】 君聞かずや、漢家(かんか)山東(さんとう)の二百州(にひゃくしう)。
聞いていないか、いや聞いているだろう。漢の山東地方の二百州では。

【汉家】 hàn jiā      漢王朝(暗に唐王朝)
【山东】 shān dōng      華山の東側の地域で中原地方。

【千邨万落生荆杞】 千村(せんそん)万落(ばんらく)荊杞(けいき)を生ずるを。
どの村もどの里も、荊(いばら)や枸杞(くこ)のような雑草ばかりが生い茂っている。

【荆杞】 jīng qǐ      荊(いばら)と枸杞(くこ)

【纵有健妇把锄犁】 縦(たと)ひ、健婦(けんぷ)の鋤犁(じより)を把(と)る有りとも。
たとえけなげな婦人が鋤(すき)をとって耕したとしても。

【健妇】 jiàn fù      けなげな妻。
【锄犁】 chú lí      すきとくわ。

【禾生陇亩无东西】 禾(くわ)は隴畝(ろうほ)に生(しゃう)じて東西無し。
穀物が田畑に生えても、秩序も何もない。

【禾】 hé      稲
【陇亩】 lǒng mǔ      うねとあぜ。

【况复秦兵耐苦战】 況(いは)んや復た秦兵(しんへい)苦戦に耐(た)ふとて。
その上、兵士たちは苦しい戦いにもに耐えるというので。

【秦兵】 qín bīng      長安付近の兵士。
【况复】 kuàng fù      そのうえ。かつまた。

【被驱不异犬与鸡】 駆(か)らるること犬(けん)と鶏(けい)とに異ならず。
どんどん駆り立てられるのは犬や鶏と変わらない。

【长者虽有问】 長者(ちょうしゃ)問ふ有りと雖(いへど)も。
あなたがお尋ねになっても。

【长者】 zhǎng zhě      年長者(杜甫)

【役夫敢申恨】 役夫(えきふ)敢(あ)へて恨みを申(の)べんや。
私はうらむ心を十分に言い尽くせましょうか。

【役夫】 yì fū      出征兵士。

【且如今年冬】 且つ今年(こんねん)の冬の如きは。            
 さしあたって今年の冬のように。

【未休关西卒】 未だ関西(くわんさい)の卒(そつ)を休(や)めざるに。
函谷関の西の地方の徴兵を中止にしない。

【关西】 guān xī      函谷関の西。

【租税从何出】 租税(そぜい)何(いづ)くより出でん。
租税なんていったいどこから出るのか。

【信知生男恶】 信(まこと)に知る、男(だん)を生むは悪しく。
男を産むのは悪いことであり。

【反是生女好】 反(かへ)りて是れ、女(ぢょ)を生むは好(よ)きを。
反対に女を産むことのほうがよい。

【生女犹得嫁比邻】 女(ぢょ)を生まば、猶(な)ほ比鄰(ひりん)に嫁するを得(う)るも。
女ならまだとなり近所に嫁にやることもできる。

【比邻】 bǐ lín      近所。隣り。

【生男埋没随百草】 男(だん)を生まば、埋沒(まいぼつ)して百草(ひゃくさう)に随(したが)はん。
男は、戦死して、雑草の茂みに倒れて埋もれてしまうだけだ。

【君不见青海头】 君見ずや、青海(せいかい)の頭(ほとり)。
あの青海のあたりでは。

【青海头】 qīng hǎi tóu      青海省東部の湖のほとり。

【古来白骨无人收】 古来、白骨(はくこつ)人の収(をさ)むる無く。
昔から白骨を片付ける人もなく。

【新鬼烦冤旧鬼哭】 新鬼(しんき)は煩冤(はんゑん)し、旧鬼(きゅうき)は哭(こく)し。
新しく死んだ者の魂はもだえうらみ、古く死んだ者の魂は嘆き叫ぶ。

【新鬼】 xīn guǐ      死んだ人の幽霊。
【烦冤】 fán yuān      もだえ悩む。
【旧鬼】 jiù guǐ      昔死んだ人の幽霊。

【天阴雨湿声啾啾】  天(てん)陰(くも)り、雨湿(うるほ)ふとき、声啾啾(しうしう)たるを。
天が曇り、雨で湿っぽくなったときに、むせび泣いているのを。

【啾啾】 jiū jiū       亡霊がむせび泣く様子。




羌村三首之三 qiāng cūn   (唐) 杜甫    

群鸡正乱叫 客至鸡斗争 qún jī zhèng luàn jiào kè zhì jī dòu zhēng
驱鸡上树木 始闻叩柴荆 qū jī shàng shù mù shǐ wén kòu chái jīng
父老四五人 问我久远行 fù lǎo sì wǔ rén wèn wǒ jiǔ yuǎn xíng
手中各有携 倾榼浊复清 shǒu zhōng gè yǒu xié qīng kè zhuó fù qīng
莫辞酒味薄 黍地无人耕 mò cí jiǔ wèi bó shǔ dì wú rén gēng
兵戈既未息 儿童尽东征 bīng gē jì wèi xī ér tóng jìn dōng zhēng
请为父老歌 艰难愧深情 qǐng wèi fù lǎo gē jiān nán kuì shēn qíng
歌罢仰天叹 四座泪纵横 gē bà yǎng tiān tàn sì zuò lèi zòng héng




【注 釈】

羌村(きょうそん)其の三

群鶏(ぐんけい)正(まさ)に乱れ叫ぶ 客(かく)至るとき  鶏(にわとり)闘争(とうさう)す
鶏(にわとり)を駆(か)りて 樹木(じゅもく)に上(のぼ)らしめ 始めて柴荊(さいけい)を扣(たた)くを聞く

父老(ふろう)四五人(よたりいつたり)我が久しく遠行(ゑんかう)せしを問う
手中(しゅちゅう)各々(おのおの)携(たずさ)うる有り 
榼(こう)を傾(かたむ)くれば 濁(だく)復(ま)た清(せい)

辞(じ)する莫(なか)れ 酒味(しゅみ)の薄きを 黍地(しょち)人の耕(たがや)す無し
兵革(へいかく)既に未(いま)だ息(や)まず 児童(じどう)尽(ことごと)く東征(とうせい)す

請(こ)う 父老(ふろう)の為に歌わん 艱難(かんなん)深情(しんじゃう)に愧(は)ず
歌(うた)罷(や)みて 天を仰ぎて嘆(たん)ずれば 四座(しざ)涙(なみだ)縦横(じゅうおう)たり


【口語訳】

にわとりの 鳴きさわぐとき おとづるる 人のありける
にわとりを 樹に追いやらい 柴の戸の おとないを聞く

里翁(さとおきな)四人(よたり)五人(いつたり)
わが遠き 旅はいかにと たずさえ来し 手づくりの酒
にごるあり 澄めるもありき

酒の味 うすきは忍べ 黍(きび)畑 耕す者 あらざれば
たたかいは いまだやまず 男(を)の子らは 征(ゆ)きて帰らず

おんみらの ために歌わむ かかる世の 深き情けを
歌おわり 天を仰げば われとひと 涙のしとど


【羌村】 qiāng cūn     羌村(きょうそん)陝西省延安にある妻子の疎開先

三首連作の第三首。757年、杜甫45歳の作。第一首は、安史の乱で幽閉されていた杜甫が、
長安を脱出し、妻子の許に辿り着いた日の悲喜こもごもの情景。
第二首は、子供たちの姿と杜甫の心情。第三首は、村人の来訪を詠う。

【父老】 fù lǎo     村の長老
【榼】 kè     酒を入れる器
【黍地】 shǔ dì     キビ畑




八阵图  bā zhèn tú  (唐) 杜甫    

功盖三分国 gōng gài sān fēn guó
名成八阵图 míng chéng bā zhèn tú
江流石不转 jiāng liú shí bù zhuàn
遗恨失吞吴 yí hèn shī tūn wú



【注 釈】

八陣(はちぢん)の図(づ)

功(こう)は盖(おほ)ふ 三分(さんぶん)の国(くに)
名(な)は成(な)す 八陣(はちぢん)の図(づ)
江(かう)流れて 石(いし)転(てん)ぜず
遺恨(ゐこん)なり 呉を呑(の)むを失(しっ)す


【口語訳】

その功(こう)は 三国(さんごく)の世(よ)に並びなく 
その名(な)は 八陣(はちぢん)の図(づ)によりて高し
長江(ちゃうかう)の急流(きふりう)だに 石を転ぜざる
惜(を)しむらくは 呉を呑むを 得(え)ざりしことなり


【八阵图】 bā zhèn tú  諸葛孔明が石を積みかさねて作った陣形を指す

766年、杜甫が重慶を訪れたときの作。崇拝する諸葛孔明が作ったという八陣図の古跡がその近くにあった。
本作は、孔明にあれほどの功績がありながら、ついに蜀は呉を併呑しえなかったことを惜しんで詠ったもの。

【功盖】 gōng gài  功績が世に並びない
【三分国】 sān fēn guó  三国時代
【石不转】 shí bù zhuàn  八陣に置かれた石はびくともしない
【吞吴】 tūn wú  呉の国を併呑する




促织 cù zhī  (唐)  杜甫    

促织甚微细 cù zhī shèn wēi xì
哀音何动人 āi yīn hé dòng rén
草根吟不稳 cǎo gēn yín bù wěn
床下意相亲 chuáng xià yì xiāng qīn
久客得无泪 jiǔ kè dé wú lèi
故妻难及晨 gù qī nán jí chén
悲丝与急管 bēi sī yǔ jí guǎn
感激异天真 gǎn jī yì tiān zhēn




【注 釈】

促織(そくしょく)
               
促織(そくしょく)甚だ微細にして 哀音(あいおん)何ぞ人を動かす
草根(さうこん)に  吟ずること 穩やかならず
床下(しゃうか)に 意(い)相親しむ 

久客(きうかく)涙 無きを得んや 故妻(こさい)晨(あした)に及び難し
悲絲(ひし)と急管(きふくわん)と 感激 天真(てんしん)に異なる


【口語訳】

こほろぎの声(ね)は 小さきなれど しみじみと 心に響く
草の根で せわしく鳴くも 寝床(ふしど)にくれば 心なぐさむ

旅人(たびと)の身(み)には ひとしおつらく やもめの身(み)には 夜も越せず
琴を弾けども 笛を吹けども この胸をうつ 声(ね)には及ばぬ


【促织】 cù zhī      コオロギ。寒くなるから機織りを急げとなく虫の意。

コオロギを詠じ、旅居の身を嘆く。もの哀しげな鳴き声が、旅の愁いを一層つのらせる。

【久客】 jiǔ kè      長い間旅にある人
【故妻】 gù qī      夫に先立たれた妻
【难及晨】 nán jí chén       一人で夜を明かすのがつらい
【悲丝】 bēi sī      悲しい琴の調べ
【急管】 jí guǎn      せわしない笛の音
【异天真】 yì tiān zhēn      コオロギの天性には及ばない




旅夜书怀   (唐) 杜甫    

细草微风岸 xì cǎo wēi fēng àn
危樯独夜舟 wēi qiáng dú yè zhōu
星垂平野阔 xīng chuí píng yě kuò
月涌大江流 yuè yǒng dà jiāng liú
名岂文章着 míng qǐ wén zhāng zhě
官应老病休 guān yìng lǎo bìng xiū
飘飘何所似 piāo piāo hé suǒ sì
天地一沙鸥 tiān dì yì shā ōu




【注 釈】 

旅夜(りょや)懐(おもひ)を書(しる)す

細草(さいさう) 微風(びふう)の岸
危檣(きしゃう) 独夜(どくや)の舟
星 垂れて 平野 闊(ひろ)く
月 湧(わ)きて 大江(たいかう) 流(なが)る
名は 豈(あに)文章(ぶんしゃう)もて 著(あらは)れんや
官は 応(まさ)に 老病(らうへい)にて 休(や)むべし
飄飄(へうへう)として 何の似る所ぞ
天地の 一(いち)沙鴎(さおう)


【口語訳】

岸の小草に風そよぎ われ今 川にひとり浮く
星またたきて野は広く 月を浮かべて水はゆく
文(ふみ)の林にまじはれど さこそ挙(あ)がらじ 世の聞(きこ)え
病に仕官しりぞきて よるべなきや 老いが身は 
飛ぶかと見えて 州(す)に憩ふ 砂の鷗(かもめ)に さも似たり


【危樯】 wēi qiáng     高い帆柱
【岂文章着】 qǐ wén zhāng zhě     文章によって名を著わすことができようか
【沙鸥】 shā ōu     かもめ

765年、杜甫53歳、家族を連れて生活のため各地を流浪していた時の作。詩人としての自分は、
未だ世に知られず、さらに病により官職も失ってしまったという、自らの不遇を嘆いて詠う。



杜甫 dù fǔ (とほ)  (712~770年)
盛唐の詩人。字は子美(しび)河南省鄭州(ていしゅう)の人。
科挙に及第せず、長安で憂苦するうちに安禄山の乱に遭遇し賊軍に捕らわれる。

脱出後、仕官したが、左遷されたため官を捨て、以後家族を連れて各地を放浪し、湖南で病没。享年五十九才。
国を憂い、民の苦しみを詠じた多数の名詩を残し、後世「詩聖」と称される。
著作に詩集「杜工部(とこうぶ)集」(二十巻)




(李白)

(蜀道難) (洛城聞笛) (烏棲曲) (蘇台覧古) (越中覧古)   (聴蜀僧濬弾琴)   (訪戴天山道士)


蜀道难  shǔ dào nán   (唐)  李白    

噫吁嚱危乎高哉 蜀道之难难于上青天   yī xū xī wēi hū gāo zāi shǔ dào zhī nán nán yú shàng qīng tiān
蚕丛及鱼凫 开国何茫然   cán cóng jí yú fú kāi guó hé máng rán
尔来四万八千岁 不与秦塞通人烟   ěr lái sì wàn bā qiān suì bù yǔ qín sài tōng rén yān
西当太白有鸟道 可以横绝峨眉巓   xī dāng tài bái yǒu niǎo dào kě yǐ héng jué é méi diān
地崩山摧壮士死 然后天梯石栈相钩连   dì bēng shān cuī zhuàng shì sǐ rán hòu tiān tī shí zhàn xiāng gōu lián
上有六龙回日之高标 下有冲波逆折之回川   shàng yǒu liù lóng huí rì zhī gāo biāo xià yǒu chòng bō nì zhé zhī huí chuān
黄鹤之飞尚不得过 猿猱欲度愁攀援   huáng hè zhī fēi shàng bù dé guò yuán náo yù dù chóu pān yuán
青泥何盘盘 百步九折萦岩峦   qīng ní hé pán pán bǎi bù jiǔ zhé yíng yán luán
扪参历井仰胁息 以手抚膺坐长叹   mén shēn lì jǐng yǎng xié xī yǐ shǒu fǔ yīng zuò cháng tàn
问君西游何时还 畏途巉岩不可攀   wèn jūn xī yóu hé shí huán wèi tú chán yán bù kě pān
但见悲鸟号古木 雄飞雌从绕林间   dàn jiàn bēi niǎo hào gǔ mù xióng fēi cí cóng rào lín jiān
又闻子规啼夜月 愁空山   yòu wén zǐ guī tí yè yuè chóu kòng shān
蜀道之难难于上青天 使人听此凋朱颜   shǔ dào zhī nán nán yú shàng qīng tiān shǐ rén tīng cǐ diāo zhū yán
连峰去天不盈尺 枯松倒挂倚绝壁   lián fēng qù tiān bù yíng chǐ kū sōng dào guà yǐ jué bì
飞湍瀑流争喧豗 砯崖转石万壑雷   fēi tuān pù liú zhēng xuān huī pīng yá zhuàn shí wàn hè léi
其险也如此 嗟尔远道之人胡为乎来哉   qí xiǎn yě rú cǐ jiè ěr yuǎn dào zhī rén hú wèi hū lái zāi
剑阁峥嵘而崔嵬 一夫当关   jiàn gé zhēng róng ér cuī wéi yì fū dāng guān
万夫莫开 所守或匪亲   wàn fū mò kāi suǒ shǒu huò fěi qīn
化为狼与豺 朝避猛虎   huà wéi láng yǔ chái cháo bì měng hǔ
夕避长蛇 磨牙吮血   xī bì cháng shé mó yá shǔn xuè
杀人如麻 锦城虽云乐   shā rén rú má jǐn chéng suī yún lè
不如早还家 蜀道之难难于上青天   bù rú zǎo huán jiā shǔ dào zhī nán nán yú shàng qīng tiān
侧身西望长咨嗟   cè shēn xī wàng cháng zī jiè



【注 釈】

蜀道難(しょくだうなん)

噫吁戲(ああ) 危ふきかな高い哉
蜀道の難(かた)きこと青天に上るよりも難(かた)し
蚕叢(さんそう)と魚鳧(ぎょふ)と
開国(かいこく)何ぞ茫然(ばうぜん)たる

爾來(じらい)四万八千歳
秦塞(しんさい)と人煙(じんえん)を通ぜず
西のかた太白(たいはく)に当(あ)たりて鳥道(てうだう)有り
以(もつ)て峨眉(がび)の頂(いただき)を橫絶(おうぜつ)す可(べ)し
地崩れ山摧(くだ)けて壮士(さうし)死す
然る後 天梯(てんてい)石棧(せきさん)相(あ)ひ鉤連(こうれん)す

上(かみ)には六竜回日(りくりゅうかいじつ)の高標(かうへう)有り
下(しも)には衝波逆折(しょうはぎゃくせつ)の回川(くわいせん)有り
黄鶴(くわうかく)の飛ぶこと 尚(なほ)過ぐるを得ず
猿猱(えんだう)度(わた)らんと欲して 攀援(はんゑん)を愁(うれ)ふ

青泥(せいでい)何ぞ盤盤(ばんばん)たる
百歩九折(ひゃっぽきゅうせつ)巖巒(がんらん)を縈(めぐ)る
參(しん)を捫(さぐ)り井(せい)を歷(へ)て 仰(あふ)いで脅息(けふそく)し
手を以(もつ)て膺(むね)を撫(ぶ)して 坐(そぞろ)に長嘆(ちゃうたん)す

君に問う 西遊(せいいう)して何(いづ)れの時にか還(かへ)ると
畏途(ゐと)の巉巖(ざんがん)攀(よ)づ可(べ)からず
但(た)だ見る 悲鳥(ひてう)古木(こぼく)に号(さけ)び
雄(ゆう)は飛び 雌(し)は従ひて 林間を遶(めぐ)る
又(また)聞く 子規(しき)夜月(やげつ)に啼いて空山(くうざん)に愁(うれ)ふるを
蜀道の難(かた)きは 青天に上るよりも難(かた)し
人をして 此を聞けば朱顔(しゅがん)を凋(しぼ)ましむ

連峰(れんほう)天を去ること尺(せき)に盈(み)たず
枯松(こしょう)倒(さか)しまに掛(かか)りて 絕壁(ぜっぺき)に倚(よ)る
飛湍(ひたん)瀑流(ばくりう) 喧豗(けんくわい)を争い
崖(がけ)を砯(う)ち石を転じて 萬壑(ばんがく)雷(とどろ)く
其の嶮(けん)なるや此(かく)の若(ごと)し

嗟(ああ)爾(なんぢ)遠道(えんだう)の人 胡為(なんす)れぞ来れる哉(や)
剣閣(けんかく)崢嶸(さうくわう)として崔嵬(さいくわい)たり
一夫 関(くわん)に当れば 万夫(ばんふ)も開く莫(な)し
守る所 或(ある)いは親(しん)に匪(あら)ずんば
化(くわ)して為らん 狼(らう)と豺(さい)とに

朝(あした)に猛虎(まうこ)を避け 夕(ゆうべ)に長蛇(ちゃうだ)を避く
牙(きば)を磨(と)ぎ血を吮(す)い 人を殺すこと麻(ま)の如し
錦城(きんじゃう)は云(ここ)に楽しと雖(いへど)も
早く家に還(かへ)るに如かず
蜀道の難(かた)きは 青天に上るよりも難(かた)し
身を側(そば)だて西望(せいばう)して 長く咨嗟(しさ)す


【口語訳】

険(けは)しかり 蜀に入る道 其の畏(おそ)るべき険路(けんろ)越(こ)ゆるは 青天に上るよりも難(かた)し

蜀を開きし古代の王は 其の面目(めんもく)茫然(ばうぜん)として明らかならず  
爾来(じらい)四万八千年 山の彼方なる秦の地と 絶えて往来(わうらい)為さざりき

西の方 太白山に至りては 僅かに鳥のみ通い得る険しき道ありて
其の高きこと 峨眉(がび)の嶺(みね)をも 凌(しの)ぎて越(こ)ゆる程なり

秦の恵王(けいわう)の時に及びて 地崩れ山摧(くだ)けて 五人の壮士(さうし)死し 
而(しか)して後  山際(やまぎは)に 天に上る梯子(はしご)の如き桟道(さんだう)を作り 
漸(ことごと)く一綫(いっせん)の狭き路を通ずるを得たり

更に其の険を詳(つまびらか)にせば 上(うへ)には日輪(にちりん)さへも迂回せしむる高き峰あり
下には屈曲せる激流の川あり 其の険峻の極み 黄鶴(くわうかく)さへも 尚(な)ほ過ぐるを得ず 
猿(ましら)さへも亦(ま)た 攀(はん)ずる能(あた)わずして 之を愁ひ嘆く

殊(こと)に名高き青泥(せいでい)の嶺(みね)は 婉婉(えんえん)と蟠(わだかま)りて  
其の広大険阻なること 百歩に九度も屈折して岩壁(いはかべ)を繞(めぐ)りたる

されば天上の星をさぐりながら登り 気を屛(しりぞ)けて呼吸(こきふ)し
手にて胸なでおろし嘆息するばかり

いま君 西方の蜀の地に遊べば 果たして 何れの時に再び還(かへ)るべき 
峻険たる山路(やまぢ) 危うく峙(そばだ)てる巖(いわほ)は 攀(はん)ずべきにあらずや

只(た)だ見る 悲しく啼く鳥の 雌雄相(あ)ひ呼びて 古木(こぼく)に号(さけ)び 林間を繞(めぐ)るを
又(ま)た聞く 人なき山に 杜鵑(ほととぎす)月に向かひて 愁ひ啼くを

かくの如く蜀の道は 険峻にして天に上るよりも難(かた)く 
人をしてこれを聞きて朱顔(しゅがん)を凋(しぼ)ましむるに足る  

まさに連峰(れんほう)天に近きこと一尺にも盈(み)たず
枯松(こしょう)は倒(さか)しまに掛(かか)りて絶壁に倚(よ)り
瀑布(ばくふ)は争ひて鳴り 懸崖(けんぐわい)を撃ち 石を動かしては雷(いかづち)のはためくが如し

かくの如き険阻の地に 遠方(ゑんはう)の人 何故(なにゆゑ)にはるばるたどり来たるや
剣閣(けんかく)は険しく高く 若し一夫(いっふ)之を守らば 
万卒(ばんそつ)もて之を破りて進むを得(う)べからず

されども若(も)し 其の険峻の地を守る者 帝(みかど)の君に親しまざる反逆の徒にてあれば
却って狼(ろう)や豺(さい)の如くなりて 君を苦しましむるなるべし

道ゆく者は 朝(あした)に猛虎(まうこ)を避け 夕(ゆふべ)に長蛇(ちようだ)を避けるとも 
なお牙を磨き 血を吮(す)いて 民を殺(あや)むること乱麻(らんま)の如し

されば蜀の成都は楽しきと雖(いへど)も かかる険阻害毒を冒すの危険あれば
寧(むし)ろ はやばやと家に還(かへ)るに如(し)かざるなり

蜀の道の険峻なること まさに天に上るよりも難(かた)くあれば
遥かに西の方 蜀の地を望みて長く嘆息するばかりなり


【蜀道难】 shǔ dào nán    四十四句の長編叙事詩。李白が唐の玄宗に召され、長安に上った742年前後の作品である。
「蜀」は中国の今の四川省の地域にあたる。昔蜀の地域は秦嶺などの山に囲まれ、攻撃しがたい場所であった。

唐の都、長安(陝西省)から蜀(四川省)に向かうには、その険しい秦嶺山脈を越えなければならない。
その絶壁は急峻を極め、猿が渡ろうとしても登れず、一挙に千里を飛ぶという黄鶴でさえ、飛んでも越すことができない。
その道程の厳しさをあらゆる面から詠った詩である。

なお安史の乱(755年)の際、反乱軍に負けた帝の玄宗は、楊貴妃を連れて蜀に敗走するという歴史に実在する話がある。


【噫吁嚱】 yī xū xī      感動詞
【蚕丛及鱼凫】 cán cóng jí yú fú      蜀の古代の王
【秦塞】 qín sài      秦国の辺塞
【太白】 tài bái      山の名。秦嶺山脈の主峰の一つ

【鸟道】 niǎo dào      鳥のみ通れる険しい山道
【峨眉】 é méi      山の名。峨眉山
【地崩山摧壮士死】 dì bēng shān cuī zhuàng shì sǐ      山が崩れ、蜀の五人の壮子が死に、山も五つに分かれたという伝説
【钩连】 gōu lián      連なって長く続く

【六龙】 liù lóng      太陽神の乗る六頭立ての竜の引く車
【高标】 gāo biāo      高い山の峰
【青泥】 qīng ní      けわしい峰の名
【盘盘】 pán pán      山道が重なりめぐるさま

【岩峦】 yán luán      岩山や尾根
【扪参历井】 mén shēn lì jǐng      「參」「井」は星座の名。參の星座を撫で、井の星座の下を通り過ぎる
【胁息】 xié xī      気を静めて息をする
【西游】 xī yóu      西の方蜀の旅に出る

【畏途】 wèi tú      畏怖すべき険しい道
【巉岩】 chán yán      ゴツゴツした岩
【子规】 zǐ guī      ほととぎす
【空山】 kòng shān      人気の無い山

【凋朱颜】 diāo zhū yán      血色のよい顔も衰える
【去天不盈尺】 qù tiān bù yíng chǐ      天から一尺も離れていない状態
【飞湍】 fēi tuān      ほとばしる激流
【暴流】 bào liú      瀑布。滝

【喧豗】 xuān huī      水音の激しさ
【万壑】 wàn hè      無数の谷間
【剑阁】 jiàn gé      山の名。剣門山
【峥嵘・崔嵬】 zhēng róng ・ cuī wéi      高く険しいさま

【一夫当关万人莫开】 yì fū dāng guān wàn rén mò kāi      一夫関に当たれば万夫も開くなし(攻めあぐねる)
【狼与豺】 láng yǔ chái      狼と山犬
【锦城】 jǐn chéng      成都の美称。
【咨嗟】 zī jiè      嘆きため息をつく




春夜洛城闻笛  chūn yè luò chéng wén dí   (唐) 李白    

谁家玉笛暗飞声 shuí jiā yù dí àn fēi shēng
散入春风满洛城 sàn rù chūn fēng mǎn luò chéng
此夜曲中闻折柳 cǐ yè qǔ zhōng wén zhé liǔ
何人不起故园情 hé rén bù qǐ gù yuán qíng




【注 釈】

春夜(しゅんや)洛城(らくじゃう)に笛を聞く

誰(た)が家(いへ)の玉笛(ぎょくてき)ぞ 暗に 声を飛ばす
散じて 春風(しゅんふう)に 入りて 洛城(らくじゃう)に 満つ
此の夜 曲中(きょくちゅう)折柳(せつりう)を 聞く
何人(なんびと)か 故園(こゑん)の情(じゃう)を 起こさざらん


【口語訳】

誰(た)が家で 吹く笛やらむ 春風の
うちににひびきて 洛陽の 都の空に すみのぼる
妙(たへ)なるかな 吹く曲は あはれもよほす 折柳譜(せつりうふ)

夜の静寂(しじま)に 聞く人の 誰しも遠く ふる里の
想(おも)ひ しきりに通ふらむ


【暗】 àn     どこともなく
【折柳】 zhé liǔ     曲名。離別の時に吹く曲

春の夜、洛陽(河南省)で笛の音を耳にして、故郷懐かしさのあまり詠んだ詩。




乌栖曲  wū qī qǔ  (唐) 李白    

姑苏台上乌栖时 gū sū tái shàng wū qī shí
吴王宫里醉西施 wú wáng gōng lǐ zuì xī shī
吴歌楚舞欢未毕 wú gē chǔ wǔ huān wèi bì
青山欲衔半边日 qīng shān yù xián bàn biān rì
银箭金壶漏水多 yín jiàn jīn hú lòu shuǐ duō
起看秋月坠江波 qǐ kàn qiū yuè zhuì jiāng bō
东方渐高奈乐何

dōng fāng jiàn gāo nài lè hé



【注 釈】

烏棲曲(うせいきょく)

姑蘇(こそ)の台上(たいじゃう) 烏(からす)棲(す)む時
呉王(ごわう)の宮裏(ぐうり)西施(せいし)を酔わしむ
呉歌(ごか)楚舞(そぶ) 歓(よろこ)び 未(いま)だ畢(をは)らず
青山(せいざん)猶(な)ほ 銜(ふく)む 半辺(はんへん)の日
銀箭(ぎんせん)金壺(きんこ) 漏水(ろうすい)多し
起(た)ちて看(み)る  秋月(しうげつ)の江波(かうは)に墜(お)つるを
東方(とうはう)漸(やうや)く高(しろ)し  楽しみを奈何(いかん)せん


【口語訳】

姑蘇(こそ)の鳥(からす)が ねぐらにかえる 日暮れどき 
呉王の城では 飲めや歌えの宴会が まさにたけなわ

玉座に坐すは 呉王夫差 そのかたわらで 西施が酒に 酔いしれる
やれ呉の歌や やれ楚の舞や えんえんと 楽しみは 尽きることなし

外を望めば 青き山の端(は)なおも沈まぬ 落日燃ゆる

銀の針 金の壺 水時計から 漏(も)れ落つる水 いよいよ多く
身を起こし 江(かわ)の波間を 眺むれば いざ沈みゆく 秋の月

まもなく夜が 明けんとするも 楽しき宴(うたげ)果てることなし 


【乌栖曲】 wū qī qǔ  烏棲曲(うせいきょく)楽府(がふ 宮廷音楽)の題名のひとつ。
本作は、この楽府題にあわせて吟唱するためにつくった詩である。

呉王夫差は、越を破って得た西施など、千人の美女を姑蘇台の宮殿に住まわせて、
歓楽をきわめたのだが、その栄華も長くは続かなかった。

本作は、表向きは呉王について詠っているが、実は唐の玄宗が宮廷において、
淫楽をほしいままにしている状況を風刺したものとされている。

【姑苏台】 gū sū tái   姑蘇台(こそだい)呉王・夫差が姑蘇山の上に築いた宮殿。江蘇省蘇州市。

【吴王】 wú wáng  春秋時代の呉の王・夫差(ふさ 在位BC496~BC473年)父の闔閭(こうりょ)が
越王勾践(こうせん)と戦って死ぬと、薪(たきぎ)の上に臥して復讐を誓い、ついに越軍を破ったが、
家臣の伍子胥(ごししょ)の忠言を聞かず、越を滅ぼさなかったため、のち越王勾践によって滅ぼされた。

【西施】 xī shī  西施(せいし)春秋時代の越の美女。呉に敗れた越王勾践(こうせん)から
呉王夫差(ふさ)に献上され、寵愛を受けた。夫差が彼女の美しさにおぼれている間に呉は越に滅ぼされた。

【衔半边日】 xián bàn biān rì  (太阳将要落山)夕日が半ば山に沈みかけた状態をいう
【银箭金壶】 yín jiàn jīn hú  水時計。金の壺に水を入れ、壺の底の孔から水を漏らし、目盛りの
刻んである銀の矢で時刻を示す。

【渐高】 jiàn gāo  空が次第に白く明るくなる
【奈乐何】 nài lè hé  (可奈何我乐兴未艾)楽しみはまだこれからだ




苏台览古 sū tái lǎn gǔ   (唐)  李白    

旧苑荒台杨柳新  jiù yuàn huāng tái yáng liǔ xīn
菱歌清唱不胜春  líng gē qīng chàng bù shèng chūn
只今惟有西江月  zhǐ jīn wéi yǒu xī jiāng yuè
曾照吴王宫里人  céng zhào wú wáng gōng lǐ rén



【注 釈】 

蘇台覧古(そだいらんこ)

旧苑(きうゑん)荒台(くわうだい)楊柳(やうりう)新たなり
菱歌(りょうか)清唱(せいしゃう)春に勝(た)へず
唯(ただ)今 西江(せいかう)の月のみあり
曾(かつ)て照らす呉王宮裏(ごわうぐうり)の人を


【口語訳】

旧(さ)りにし苑(その)は荒れ朽ちて ただ青柳(あをやぎ)の萌ゆるのみ
樹(こ)の間(ま)がくれに 少女子(をとめご)の 
菱(ひし)摘む歌の ながれきて 春の愁ひの 堪(た)へぬかな

徐(ゆら)かに 頭(かうべ)めぐらせば 揚子江上(やうすかうじゃう)月照りぬ
いにしえの 呉王宮裏(ごわうぐうり)の 皇后(くわうごう)を 
照らせし月ぞ あはれかく 地上のものは 亡びゆき 月こそ空に 無窮なれ


【苏台览古】 sū tái lǎn gǔ     蘇台覧古(そだいらんこ)
「蘇台」は、春秋時代の呉王夫差が築いた宮殿「姑蘇台(こそだい 江蘇省蘇州市)」の略称。
「覧古」は、古跡をたずねて当時のおもかげをしのぶ意。

李白が姑蘇台を訪れたとき、その荒廃した宮殿の跡を目の当たりにしたときの感慨を詠ったもの。

【菱歌】 líng gē     歌の名。菱の実採りの民歌
【吴王宫里人】 wáng gōng lǐ rén   呉王の宮殿の皇后。越王勾践が呉王夫差に献じた美女西施を指す。
夫差が西施への愛に溺れたことが、呉滅亡の一因となった




越中览古 yuè zhōng lǎn gǔ (唐) 李白     

越王勾践破吴归 yuè wáng gōu jiàn pò wú guī
义士还乡尽锦衣 yì shì huán xiāng jìn jǐn yī
宫女如花满春殿 gōng nǚ rú huā mǎn chūn diàn
只今惟有鹧鸪飞

zhǐ jīn wéi yǒu zhè gū fēi



【注 釈】

越中覽古(ゑっちゅうらんこ)

越王勾踐(ゑつわうこうせん) 呉(ご)を破って帰る 
義士(ぎし) 郷(さと)に還(かへ)って 尽(ことごと)く錦衣(きんい)す 
宮女(きゅうぢょ) 花の如く 春殿(しゅんでん)に満つ 
只今(ただいま) 惟(た)だ 鷓鴣(しゃこ)の飛ぶ有るのみ 


【越中】 yuè zhōng    春秋時代の越の国(現在の浙江省紹興市)
【览古】 lǎn gǔ    懐古する

越国の美女たちは、花のように美しく、春の宮殿に満ち溢れていたが、今はその跡形もなく
ただ鳥の鷓鴣(しゃこ)だけが、あたりをわびしげに飛ぶばかりであった。

越王勾践が呉を破り、会稽の恥をすすいで凱旋したときの、春の宮殿の模様を描いているが、
その勾践もまた、呉王夫差と同じような運命を辿ったという回想に基づいて詠われたもの。

【越王勾践】 yuè wáng gōu jiàn    越王勾践(えつおうこうせん)春秋時代の越の王(在位BC496~BC465年)
呉王闔閭(こうりょ)を敗死させたが、その子夫差と会稽山に戦って敗れた。のち富国強兵に努め、呉を滅ぼして覇者となった。

【义士】 yì shì    勾践と艱難辛苦を共にした忠義の臣下たち
【锦衣】 jǐn yī    故郷に錦を飾る
【鹧鸪】 zhè gū    シャコ。越国に産する鳥で、うずらよりも、やや大きく、悲しげな鳴き声でなく





听蜀僧濬弹琴  tīng shǔ sēng jùn tán qín  (唐) 李白    

蜀僧抱绿绮   shǔ sēng bào lǜ qǐ
西下峨眉峰   xī xià é méi fēng
为我一挥手   wèi wǒ yī huī shǒu
如听万壑松   rú tīng wàn hè sōng
客心洗流水 kè xīn xǐ liú shuǐ
馀响入霜钟   yú xiǎng rù shuāng zhōng
不觉碧山暮  bù jué bì shān mù
秋云暗几重   qiū yún àn jǐ chóng



【注 釈】

蜀僧(しょくそう)濬(しゅん)の琴(きん)を弾ずるを聴く

蜀僧(しょくそう)緑綺(りょくき)を抱(いだ)き
西のかた峨眉(がび)の峰を下る
我が為に一たび手を揮(ふる)へば
万壑(ばんがく)の松を聴くが如し
客心(かくしん)流水(りうすゐ)に洗(あら)はれ
余響(よきゃう)霜鐘(さうしょう)に入る
覚えず、碧山(へきざん)暮れ
秋雲(しううん)暗きこと幾重(いくへ)なるかを


【口語訳】

蜀の僧が緑綺を抱き 西方の峨眉山の峰を下ってきた
ひとたび琴をかき鳴らせば 何万という谷の松風が鳴り響いているかのようだ
旅にある我が心は流水の如き琴の音に洗われ 余韻が折からの鐘の音と溶け合う
ふと我に帰ると 緑の山々はたそがれ 秋の雲が暗く 幾重にも立ち込めている


【绿绮】 lǜ qǐ   琴の異名
【峨眉】 é méi    峨眉山(四川省)
【万壑】 wàn hè    多くの谷間
【馀响】 yú xiǎng    余韻
【霜钟】 shuāng zhōng   鐘の音

753年、李白53歳の作。琴の名手である万年寺の濬(しゅん)和尚と出会い、その琴の音にひかれて
毎日本堂を訪れるうちに、二人は深い友情で結ばれた。李白は別れ際に、この詩を和尚に贈ったという。

琴は、伝説の皇帝・舜(しゅん)が作り、人民を教化したという記載が古代の経典「礼記」に見える。
琴には、神聖な楽器としてのイメージがあり、古来、君子の身に付けるべき教養のひとつでもあった。
とりわけ凛とした気配の漂う秋の季節の詩題として、高雅の趣を伴って詠まれることが多い。





访戴天山道士不遇  (唐) 李白    
fǎng dài tiān shān dào shì bù yù

犬吠水声中  quǎn fèi shuǐ shēng zhōng
桃花带露浓   táo huā dài lù nóng
树深时见鹿   shù shēn shí jiàn lù
溪午不闻钟   xī wǔ bù wén zhōng
野竹分青霭 yě zhú fēn qīng ǎi
飞泉挂碧峰   fēi quán guà bì fēng
无人知所去 wú rén zhī suǒ qù
愁倚两三松   chóu yǐ liǎng sān sōng



【注 釈】

戴天山(たいてんざん)の道士(だうし)を訪(と)うて遇(あ)はず

犬は吠(ほ)ゆ 水声(すゐせい)の 中(うち)
桃花(たうくわ)露(つゆ)を帯(お)びて 濃(こまやか)なり
樹(き)は深く 時に鹿を見 
谷は午(ご)にして 鐘を聞かず
野竹(やちく)青霞(せいか)を分け 
飛泉(ひせん) 碧峰(へきほう)に 掛(か)かる
人の去る所を 知るものなし 
愁(うれ)へて寄(よ)る 両三松(りゃうさんしょう)


【口語訳】  「訳詩: 荒川太郎(踏花帖)」

川のせせらぎ 犬の声 
桃花(たうくわ)は 紅(あか)し 雨のあと
木の間がくれに 見る鹿や 
渓(たに)は 午(ひる)なれ 時鐘(かね)もなく
野竹は青き 靄(もや)の中 
みどりの巌(いはほ)に 滝かかる
尋ぬる君の 跡(あと)なくて 
松にもたるる もの思い


【戴天山】 dài tiān shān    載天山(たいてんざん 四川省江油こうゆ市)李白の郷里にある山

李白は十八歳のころ、載天山の大明寺(だいみょうじ)に下宿して読書に励んでいた。
本作は、戴天山に住んでいるという道士を訪ねたところ、折り悪しく不在だったので、
残念の思いを一首口ずさんだもの。



李白 lǐ bái (りはく) (701~762年)
盛唐の詩人。字は太白(たいはく)四川省江油(こうゆ)の人。
宮廷詩人として玄宗に仕えたが、その寵臣の憎しみを買い、宮廷を追われた。

晩年は、江南の地で湖に小舟を浮かべて酒を呑みながら月を眺めて過ごした。
最後は酔って水中の月を捕らえようとして溺死したという。享年六十一。
絶句を得意とし、奔放で変幻自在な詩風から、後世「詩仙」と称される。
著作に詩集「李太白(りたいはく)集」(三十巻)




(楊巨源)


折杨柳  zhé yáng liǔ (唐)杨巨源    

水边杨柳曲尘丝  shuǐ biān yáng liǔ qǔ chén sī
立马烦君折一枝  lì mǎ fán jūn zhé yì zhī
惟有春风最相惜  wéi yǒu chūn fēng zuì xiāng xī
殷勤更向手中吹  yīn qín gèng xiàng shǒu zhōng chuī



【注 釈】

楊柳(やうりう)を折(を)る

水辺(みづべ)の楊柳(やうりう)曲塵(きょくぢん)の糸
馬を立て 君を煩(わづら)わして一枝(いっし)を折(を)る
唯(た)だ春風(しゅんふう)の最も相(あ)ひ惜(を)しむ有り
慇懃(いんぎん)に 更(さら)に手中(しゅちゅう)に向かひて吹く


【口語訳】

岸辺の柳 芽(め)を吹きて 萌黄(もえぎ)の糸の吹く風と
たわむるさまの なつかしく 馬をひかえて われの言ふ
折りて給(たま)へな 一枝(ひとえだ)を
かざす馬上のわれが手に すがるがごとく 猶(な)ほし吹く
手折りし枝を したふ春風


【曲尘丝】 qǔ chén sī  (色如酒曲般细嫩的柳叶)萌黄色の酒麹のようにきめ細かい色をした柳の葉
【殷勤】 yīn qín  (多情地)名残を惜しんで
【向手中吹】(春風が別れを惜しむかのように)柳の枝を持つ手の中に吹き付ける

かつては送別の時、旅の無事を祈って、柳の枝を贈る習慣があった。
作者は、柳の枝を握った手に、しきりに吹き込む春風に託して、
別れゆく人々への惜別の思いを詠っている。


楊巨源 yáng jù yuán (ようきょげん)(770~833年)
中唐の詩人。字は景山(けいざん)蒲州(ほしゅう 山西省)の人。
789年、進士に及第。国子司業(こくししぎょう 文部次官)にまで進み、824年、 官を辞した。
その詩は、七言絶句にすぐれ「清冷」と評された。また韓愈、白居易らと親しい交遊があった。




(高駢)


山亭夏日 shān tíng xià rì  (唐) 高骈  

绿树阴浓夏日长  lǜ shù yīn nóng xià rì cháng
楼台倒影入池塘  lóu tái dào yǐng rù chí táng
水精帘动微风起  shuǐ jīng lián dòng wēi fēng qǐ
满架蔷薇一院香  mǎn jià qiáng wēi yī yuàn xiāng



【注 釈】

山亭夏日(さんていかじつ)   

綠樹(りょくじゅ) 陰(かげ) 濃(こま)やかにして 夏日(かじつ)長し
楼台(ろうたい) 影を倒(さかしま)にして 池塘(ちたう)に入る
水精(すいしゃう)の簾(れん) 動(うご)きて 微風(びふう)起り
一架(いっか)の薔薇(しゃうび) 満院(まんゐん)香(かんば)し


【口語訳】

照る日は長き夏ながら 樹々の緑は影深く
池のみぎはの高殿の 影さかしまに池にあり
見るも涼しき水晶の 簾(すだれ)に風のやや起きて
一群(ひとむら)咲ける 薔薇(ばら)の香の 
邸(やしき)にみちて 香ぐはしや


【山亭】 shān tíng  (山上的别墅)山荘
【水精帘】 shuǐ jīng lián  (水晶帘)水晶の飾りのあるすだれ

本作は、初夏の山荘における、清涼の思いを詠ったもの。
池に映る楼閣、チリンチリンという水晶のかすかに触れ合う音、
風が運ぶ薔薇の香り、暑さの中の涼しさが余す所なく描かれる。



高駢 gāo pián (こうべん) (821~887年)
晩唐の政治家、詩人。字は千里(せんり)幽州(ゆうしゅう 河北省)の人。
841年、20歳のとき武宗の近衛兵に配属され、黄巣の乱(874年)で手柄を立て
侍中(じちゅう 皇帝側近)に任じられたが、のち部下にそむかれ殺害された。
文武両道にすぐれた人物で、詩作のほか儒学・文学にも造詣があった。




(元稹)


行宫   xíng gōng (唐)元稹    

寥落古行宫  liáo luò gǔ xíng gōng
宫花寂寞红  gōng huā jì mò hóng
白头宫女在  bái tóu gōng nǚ zài
闲坐说玄宗  xián zuò shuō xuán zōng



【注 釈】

行宮(あんぐう)  

寥落(れうらく)たり 古(いにしへ)の行宮(あんぐう)
宮花(きゅうくわ)寂寞(せきばく)として紅(くれなゐ)なり
白頭(はくとう)の宮女(きゅうぢょ)在(あ)り
閑坐(かんざ)して玄宗(げんそう)を説(と)く


【口語訳】

さびれたる古(いにしへ)の行宮(あんぐう)
花のみや 紅(くれなゐ)さびし
白髪の宮女(きゅうぢょ)在(あ)り
坐(すわ)りいて 静かに語る
玄宗のありし昔を


【行宫】 xíng gōn  行宮(あんぐう)玄宗の離宮
【寥落】 liáo luò  (冷落)さびれはてた
【寂寞】 jì mò  ひっそりと寂しい
【闲坐】 xián zuò  静かに座る

静まりかえった玄宗の離宮に、今は白髪になった宮女が、玄宗のありしその日を語る。
世の移りゆき、栄華の消えた夢の跡、感慨言外にこもる。



元稹 yuán zhěn  (げんしん) (779~831年)
中唐の詩人。字は微之(びし)洛陽(河南省)の人。806年、科挙に及第、822年、宰相となった。
白居易の親友で、元白と並称される。その平易な詩風は元和(げんな)体と呼ばれた。
著作に詩文集「元氏長慶(げんしちょうけい)集」(六十巻)




(許渾)


秋思   qiū sī    (唐) 许浑    
     
琪树西风枕簟秋  qí shù xī fēng zhěn diàn qiū
楚云湘水忆同游  chǔ yún xiāng shuǐ yì tóng yóu
高歌一曲掩明镜  gāo gē yì qǔ yǎn míng jìng
昨日少年今白头  zuó rì shào nián jīn bái tóu



【注 釈】

秋に思ふ

琪樹(きじゅ)の西風(せいふう) 枕簟(ちんてん)の秋
楚雲(そうん) 湘水(しゃうすい) 同遊(どういう)を憶(おも)ふ
高歌(かうか)一曲(いっきょく) 明鏡(めいきゃう)を掩(おほ)ふ
昨日(きのふ)は少年(せうねん) 今(いま)は白頭(はくとう)


【口語訳】

美しき樹々に 秋風吹きわたり 枕(まくら)簟(むしろ)の涼しかり
友と遊びし 忘れ得ぬ日々を想ひて 声高らかに 一曲(ひとふし)歌ふ

ふとながむ 鏡のうちに驚きて 忽(たちま)ちに 之を蔽(おほ)ひぬ

昨日(きのふ)是(こ)れ 紅顔(こうがん)の美少年(びせうねん)
今(いま)は是(こ)れ 蒼顔(さうがん)の白頭翁(はくとうをう)


【琪树】 qí shù  美しい木々、琪は玉の名
【西风】 xī fēng  秋風
【枕簟】 zhěn diàn  枕と簟(竹で編んだむしろ)、転じて夏の寝具
【楚云】 chǔ yún  楚の空に浮かぶ雲、楚は、湖北・湖南省一帯を指す
【湘水】 xiāng shuǐ  湘江。洞庭湖に注ぐ湖南省最大の川
【同游】 tóng yóu  昔いっしょに遊んだ友人

この詩は、853年、作者が郢州(えいしゅう 湖北省)の刺史(しし 地方長官)に左遷された時、
秋を迎え、自分の老いを感じて嘆じたもの。



許渾 xǔ hún  (きょこん)(791~854年)
晩唐の詩人。字は仲晦(ちゅうかい)丹陽(たんよう 江蘇省)の人。
832年、進士に及第、各地の県令となったが、のち病弱のため免職となった。
その詩は、慷慨悲歌の格調をもち,特に懐古の情を述べた律詩に佳編がある。
著作に詩集「丁卯(ていぼう)集」(二巻)




(劉長卿)


听弹琴  tīng tán qín  (唐) 刘长卿      
泠泠七弦上  líng líng qī xián shàng
静听松风寒  jìng tīng sōng fēng hán
古调虽自爱  gǔ diào suī zì ài
今人多不弹  jīn rén duō bù tán



【注 釈】

琴(こと)を弾(だん)ずるを聴く

冷冷(れいれい)たる七絃(しちげん)の上(ほとり)
静(しづ)かに松風(しょうふう)の寒(さむ)きを聴(き)く
古調(こてう)自(おのづか)ら愛すべしと雖(いへど)も
今人(わかうど)は多(おほ)く弾(だん)ぜず


【口語訳】  「訳詩: 森亮(唐詩絶句)」

すがすがし 七つの絃(いと)に
松風(まつかぜ)の 寒さを聴かむ
わが愛(め)づる 古き調べは
人これを 弾(ひ)かざるごとし


【泠泠】 líng líng  (琴声清冽)清らかで涼しげ
【松风】 sōng fēng  琴の曲名
【寒】 hán  (凄清)うら寂しき(琴の音)

作者は「昔の曲は良かった」と言うが、単に最近の曲のトレンドについていけなくなったのかも知れない。
いつの時代でも、音楽の流行り廃りはあるが、当時の詩人の好みは、古(いにしえ)の曲をよしとするようだ。
ここでは言外に、琴の心を解する人がいなくなったが、わが心を解する友(知音)もいなくなったと嘆いている。



劉長卿 liú cháng qīng (りゅうちょうけい)(709~785年)
中唐の詩人。字は文房(ぶんぼう)河間(かかん 河北省)の人。
733年、進士に及第、756年、監察御史(検察官)、晩年に随州(湖北省)の刺史(長官)となり「劉随州」と呼ばれた。
その詩は、巧みな表現、気品に富む作風で、とりわけ五言詩にすぐれ「五言の長城」と称される。
著作に詩集「劉随州(りゅうずいしゅう)詩集」(十巻)




(劉方平)


春怨  chūn yuàn  (唐) 刘方平    
     
纱窗日落渐黄昏  shā chuāng rì luò jiàn huáng hūn
金屋无人见泪痕  jīn wū wú rén jiàn lèi hén
寂寞空庭春欲晚  jì mò kòng tíng chūn yù wǎn
梨花满地不开门  lí huā mǎn dì bù kāi mén



【注 釈】

春の怨み

紗窗(ささう)に 日(ひ)落ちて 漸(やうや)く黄昏(くゎうこん)たり
金屋(きんをく)人(ひと) 無くして 涙痕(るゐこん)を見る
寂寞(せきばく)たる空庭(くうてい)に 春 晩(く)くれむと欲(ほっ)し
梨花(りくわ)地(ち)に満(み)てども 門を開(ひら)かず


【口語訳】

窓のとばりに 夕日沈み 
部屋のうち 人かげも無く ただひとつ 涙のあと
淋しき庭に 春は晩(く)れ
梨(り)の花 地に散りしきて 木戸口は 閉ざされしまま


【春怨】 chūn yuàn  春の怨み。帝の寵愛を失った宮女のもの淋しい心情を、白い梨の花に託して詠んだもの。

梨の花は春に咲き、春の暮れ方に散る。木戸のきわまで散りしいた梨の花が、踏みにじられるのを惜しんで、
木戸も閉じたまま、というのである。 

【纱窗】 shā chuāng  うすぎぬを張った窓
【金屋】 jīn wū  りっぱな家



劉方平  liú fāng píng  (りゅうほうへい)(710~779年)
盛唐の詩人。洛陽(河南省)の人。匈奴族の出身。750年、進士に及第し、官途についたが、
漢族ではなかったために、さほど出世せず、地方官として各地を経巡った。

晩年は官職を辞し、潁水(えいすい 河南省)のほとりで隠遁生活を送った。
その詩は、自然の風景や故郷の村の美しさを懐古的に詠ったものが多い。また山水画も巧みであった。
「全唐詩」に26篇の作品が残されており、本作「春怨」は「唐詩三百首」に選定されたもの。




(王績)


过酒家五首其二  guò jiǔ jiā  (唐) 王绩    
     
此日长昏饮  cǐ rì cháng hūn yǐn
非关养性灵  fēi guān yǎng xìng líng
眼看人尽醉  yǎn kàn rén jìn zuì
何忍独为醒  hé rěn dú wèi xǐng



【注 釈】

酒家(さかや)を過(す)ぐ

此の日 長く昏飲(こんいん)す
性霊(せいれい)を養ふに 関するに非ず
眼看(まのあたりに)す 人の悉く酔ふを
何ぞ忍びん 独り醒(さ)むるを為すに


【口語訳】  「訳詩: 倉石武四郎(歴代詩選)」

今日は夜っぴいて たらふく飲んだ
百薬の長とは 言うもおろかな
みんなが酔うのを ながめていては
どうして飲まずに いられよか


【昏饮】 hūn yǐn    (終日)正体もなく飲む
【养性灵】 yǎng xìng líng    精神修養(にあらず)

酒は適量を知って味わって飲めば、精神修養となり健康に良いと古来からの考え方があった。
勿論、作者のように、腰を抜かすほど酔っぱらうような人には、酒を飲む資格はない。

【眼看】 yǎn kàn    (人皆酔うのを)此の目で見ながら
【独为醒】 dú wèi xǐng    (どうして)しらふでいられよう

作者は、隋末から唐初にかけて、役人生活を送ったが、酒好きで奔放な性格のため、
官を辞して故郷に隠棲し、酒と詩を友として余生を送った。
陶淵明に似た人物で、その詩も似通ったところがある。



王績  wáng jì (おうせき)(585~644年)
隋末、初唐の詩人。字は無功(ぶこう)山西龍門の人。
610年、科挙に及第し、秘書省正字(宮中図書司)となったが、酒ばかり飲んで仕事をせず、
618年、隋末で世の中が混乱すると、郷里に隠棲し、田園生活を賛美する詩を多く詠った。
著作に詩文集「東皋子(とうこうし)集」(三巻)




(呂温)


巩路感怀   (唐) 吕温   

马嘶白日暮 mǎ sī bái rì mù
劔鸣秋气来 jiàn míng qiū qì lái
我心渺无际 wǒ xīn miǎo wú jì
河上空徘徊 hé shàng kōng pái huái     

    


【注 釈】

鞏路(きょうろ)を過ぎて感慨にふける

馬(うま)嘶(いなな)きて 白日(はくじつ)暮(く)れ
剣(けん)鳴(ともな)りて 秋気(しうき)来(きた)る
我(わ)が心(こころ) 渺(べう)として際(かぎり)無(な)し
河上(かじゃう) 空(むな)しく徘徊(はいくわい)す


【口語訳】

日暮れをちかみ 馬鳴けば 
剣(つるぎ)にさはる 秋のかぜ
そぞろにむなし わがこころ
河のほとりを たどるかな


【巩路感怀】 gǒng lù gǎn huái     鞏路(きょうろ)を過ぎて感慨にふける。鞏路は地名。河南省鞏県(きょうけん)
【劔鸣】 jiàn míng     秋の気に感応して腰の剣がひそかな音をたてる

呂温は、798年、25歳で進士に及第、文才に富み、徳宗に重用され栄進を重ねたが、門閥貴族の宰相・李吉甫に憎まれ、
808年、地方(湖北)に左遷となってしまった。
本作は、当時の心境を詠ったもので、詩文の中に作者の無念の思いが滲みでている。



呂温 lǚ wēn   (りょおん)  (772~811年)
中唐の詩人。字は和叔(わしゅく)山西省永済(えいさい)の人。
798年、科挙に及第、左拾遺(帝の秘書官)、戸部員外郎(財政長官)などを歴任した。
詩は、内面の情感を抒情的に歌った作品が多い。また李紳(りしん)ら中唐のすぐれた人材を発掘、育成した功績も大きい。
著作に詩集「呂衡州(りょこうしゅう)集」(十巻)




(盧綸)


塞下曲 sài xià qǔ  四首其二 (唐) 卢纶    
     
林暗草惊风 lín àn cǎo jīng fēng
将军夜引弓 jiāng jūn yè yǐn gōng
平明寻白羽 píng míng xún bái yǔ
没在石棱中 mò zài shí léng zhōng     



【注 釈】

塞下曲(さいかきょく)

林暗くして 草 風に驚き
将軍 夜 弓を引く
平明(へいめい) 白羽(しらは)を尋ぬれば
石稜(せきりょう)の中(うち)に 没(ぼっ)して 在(あ)り


【口語訳】

林暗く 草 風にざわめく夜
将軍 弓をひけり
夜明け 白羽(しらは)いづこと 尋ぬれば
矢は 石に中(あ)たりて 矢尻(やじり)を没(ぼっ)す


【塞下曲】 sài xià qǔ    辺塞の歌
【平明】 píng míng    明け方
【石棱】 shí léng    岩

史記「李将軍列伝」に登場する漢の名将・李広将軍の逸話に基づいたもの。
将軍が狩りをしていた時、虎と見間違えて弓を放ったら、矢は岩に食い込んだ。

豪腕ぶりを語る話なのだが、岩とわかって射てみたら、矢ははね返されてしまった。
虎と思い込んだから岩にも突き刺さった、というところが興味深い。



盧綸  lú lún  (ろりん)(748~800年)
中唐の詩人。字は允言(いんげん)山西省永済(えいさい)の人。
科挙には失敗したが、宰相の元載(げんさい)に才能を認められて監察御史(検察官)に進んだ。
雄壮な辺塞詩を得意とし、銭起、司空曙、耿湋らとともに「大暦十才子」の一人として知られる。
著作に詩集「盧戸部(ろこふ)詩集」(十巻)




胡令能


小儿垂钓 xiǎo ér chuí diào  (唐) 胡令能    

蓬头稚子学垂纶 péng tóu zhì zǐ xué chuí lún
侧坐莓苔草映身 cè zuò méi tái cǎo yìng shēn
路人借问遥招手 lù rén jiè wèn yáo zhāo shǒu
怕得鱼惊不应人 pà dé yú jīng bù yìng rén     



【注 釈】

小児(こども)釣(てう)を垂(た)る

蓬頭(ほうとう)の稚子(ちし)垂綸(すいりん)を学(まね)ぶ
側(かたはら)に坐(ざ)して 莓苔草(ばいたいさう)に身を映(うつ)す
路人(ろじん)借問(しゃもん)するに 遙(はる)かに手を招(まね)く
魚の驚(おどろ)くを怕(おそ)れて 人に応(おう)ぜざる


【口語訳】

川辺で ぼさぼさ頭の子どもが 魚つりの練習をしている
草むらに座り込んで 魚から姿が見えないようにしている
通りすがりの人が 子どもを見つけて 道を尋ねても 
手を振るだけで 応えようとしない
声を出すと 魚が驚いて逃げてしまうと 恐れているからだ


【蓬头】 péng tóu  頭髪の乱れた頭(ぼさぼさ頭)
【稚子】 zhì zǐ  幼児(少年)
【学垂纶】 xué chuí lún  見よう見まねで糸を垂れ魚釣りをする
【莓苔】 méi tái   イチゴやコケ植物(ここでは河辺のヨモギ草が繁茂している様子)
【映身】 yìng shēn    (ヨモギ草が)体を覆い隠す
【路人】 lù rén     行きずりの人
【借问】 jiè wèn     問いかける
【怕得鱼惊】 pà dé yú jīng    (生怕惊动了鱼儿)魚が驚いて逃げるのを恐れる
【不应人】 bù yìng rén    (不敢回应过路人)通行人の問いかけに応えようとしない

何かに夢中になっている姿こそ、子供らしく微笑ましいと作者は感じている。
道を尋ねても見向きもしないほど没頭して、他のことは二の次になってしまう。

川辺の、まどろんだ暖かな光のなかで、作者は、子供だけが出すことのできる
特有の空気感に、ひとときのあいだ浸っているのである。



胡令能  hú lìng néng  (これいのう)(785~826年)
中唐の詩人、隠者。河南省鄭州(ていしゅう)の人。
経歴については、ほとんど不詳。よく知られたこの詩の作者としてのみ名が伝わる。




(劉庭琦)


铜雀台  tóng què tái  (唐) 刘庭琦    

铜台宫观委灰尘 tóng tái gōng guān wěi huī chén
魏主园林漳水滨 wèi zhǔ yuán lín zhāng shuǐ bīn
即今西望犹堪思

jí jīn xī wàng yóu kān sī

况复当时歌舞人 kuàng fù dāng shí gē wǔ rén     



【注 釈】

銅雀台(どうじゃくたい)

銅台(どうたい)宮観(きゅうくわん)灰塵(かいぢん)に委(い)す
魏主(ぎしゅ)の園林(ゑんりん) 漳水(しゃうすい)の浜
即今(ただいま)西望(せいばう) 猶(な)ほ思ふに堪へぬ
況(いは)んや復(ま)た 当時(たうじ)歌舞(かぶ)の人をや


【口語訳】

華美を凝らした銅雀台 宮殿楼閣は 灰燼となり打ち棄てられたまま
世にほこった魏主 曹操の墓だけが 漳水のほとりに残っている
西の方 その墓を望むだけでも 往時をしのぶ感傷に胸がふたがる
往時 歌舞を演じた宮女たちの思いは なおさらのことであったろう


【铜雀台】 tóng què tái  銅雀台(どうじゃくたい)
魏の曹操が鄴(ぎょう)の都(河北省臨漳県)に築いた楼台。

魏の曹操は、側室や妓女を銅雀台に集め、自分の死後は、月初めと十五日に、
陵墓に向かって歌舞を演奏するよう遺言したという。

しかしその後、魏は滅亡、都は荒廃し、銅雀台も崩壊してしまった。
本作は、作者が廃墟となった銅雀台を訪れ、懐古の情を詠んだもの。


【委】 wěi    うち棄てられたままになっている
【园林】 yuán lín   帝王の陵墓
【漳水滨】 zhāng shuǐ bīn    漳水(しょうすい 河北省)のほとり
【堪思】 kān sī    感傷で胸がいっぱいになる



劉庭琦 liú tíng qí (りゅうていき)(生没年不詳)
盛唐の詩人。開元(713~741年)年間の人。
生没年、経歴は不詳。よく知られたこの詩の作者としてのみ名が伝わる。




(皮日休)


橡媪叹  xiàng ǎo tàn  (唐) 皮日休    
     
山前有熟稻 shān qián yǒu shú dào
紫穗袭人香 zǐ suì xí rén xiāng
细获又精舂 xì huò yòu jīng chōng
粒粒如玉珰 lì lì rú yù dāng
持之纳于官 chí zhī nà yú guān
私室无仓箱 sī shì wú cāng xiāng



【注 釈】

橡(とち)をひろいあつめる媼(ろうば)の嘆(なげ)き

山前(さんぜん)に 熟稲(じゅくとう)有り
紫穂(しすい)人を襲うて香(かん)ばし
細(こま)やかに獲(かりと)り 又た精(くわ)しく舂(つ)いて
粒粒(りゅうりゅう)玉璫(ぎょくとう)の如し
之(こ)れを持(じ)して 官に納(おさ)むれば
私室(ししつ)に 倉箱(そうそう)無し


【口語訳】

山の麓(ふもと)で 稲がみのり
赤みがかった穂の香りが 鼻をうるおす
丁寧に穫り入れ 念入りに搗(つ)いて
ひと粒ひと粒が 玉の耳飾りのようだ
しかし これを運んで 役所に納めると
自分の家の米櫃は からになってしまう


【玉珰】 yù dāng    (玉制的耳坠)玉の耳飾り
【私室】 sī shì    (农民自己家里)農民の自宅
【仓箱】 cāng xiāng     (装米的器具) 米櫃(こめびつ)

この詩に登場する老婆は、山で橡(とち)の実を拾い集めて飢えをしのいでいる。
その理由は、収穫した稲のほとんどを、役人に奪われてしまうからだ。
本作は、哀れな老婆の姿を描いて、当時の悪政を糾弾しているのである。



皮日休  pí rì xiū   (ひじつきゅう)(834~883年)
晩唐の詩人、文人。字は逸少(いっしょう)湖北省襄陽(じょうよう)の人。
867年、進士に及第、著作郎(歴史官)太常博士(五経教官)などを歴任し、
のち黄巣の乱で反乱側に立ったが、黄巣に疑われて殺害されたと伝えられる。

その詩は、友人の陸亀蒙と唱和した詩など、閑寂な境地を詠ったものが多い。
散文では、韓愈の流れをくむ史論など、鋭利な批判を込めたすぐれた作品を残した。
著作に詩文集「皮子文藪(ひしぶんそう)」(十巻)




(李渉)


题鹤林寺僧舍  tí hè lín sì sēng shě   (唐) 李涉    

终日昏昏醉梦间 zhōng rì hūn hūn zuì mèng jiān
忽闻春尽强登山 hū wén chūn jìn qiáng dēng shān
因过竹院逢僧话

yīn guò zhú yuàn féng sēng huà

偷得浮生半日闲 tōu dé fú shēng bàn rì xián     



【注 釈】

鶴林寺(かくりんじ)僧舎(そうしゃ)に題す
       
終日(しゅうじつ)昏昏(こんこん)酔夢(すいむ)の間(かん)
忽(たちま)ち 春の尽くるを聞いて 強(し)ひて山に登る
竹院(ちくゐん)を過ぎ 僧に逢うて 話(わ)するに因(よ)り
偸(ぬす)み得たり 浮生(ふせい)半日(はんじつ)の閑(かん)


【口語訳】  「訳詩: 荒川太郎(踏花帖)」

ひねもすを 事に追われて 夢のごと 暮らすこの身も 
春やがて 終わるときけば 花みむと 
心ひき立て 山行くと 登る道べの 竹やぶの 
小寺に憩(いこ)ひ のびやかに 僧と語りぬ
おもしろや これも 浮世に ふと拾う 半日の閑(かん)


【鹤林寺】 hè lín sì   鶴林寺(かくりんじ 江蘇省鎮江市黄鶴山)
【昏昏】 hūn hūn   暗く不明瞭な
【浮生】 fú shēng   はかない世の中。浮世

竹林で出逢った僧と閑談し、半日の間、心穏やかに過ごすことができたという
作者自身のとりとめのない人生のなかに、半日の清閑を得たことを述べる。



李渉  lǐ shè  (りしょう)(773~831年)
中唐の詩人。河南省洛陽の人。
経歴については、ほとんど不明だが、はじめ廬山(広西省)に隠棲して白鹿を飼って暮らしていたが、
憲宗(在位827~835年)の時代に見出されて官吏となり、太学博士(五経教官)となったとされる。




(薛嚋)

(春望一)  (春望三)


春望 chūn wàng 四首其一 (唐)薛涛    

花开不同赏 huā kāi bù tóng shǎng
花落不同悲 huā luò bù tóng bēi
欲问相思处

yù wèn xiāng sī chù

花开花落时 huā kāi huā luò shí     



【注 釈】

春に望む

花開けど 同(とも)に賞(め)でられず
花落(お)つれど 同(とも)に悲しめず
問わんと欲す 相(あ)ひ 思(おも)ふ処
花開き 花落つるの時


【口語訳】  「訳詩: 那珂秀穂(支那歴朝閨秀詩集)」

花咲きて うれしかるとも
花散りて 悲しかるとも
いかがせむ 君はいづくに
ながむるや 咲きて散る花


【相思处】 xiāng sī chù   いとしい君の居るところ

花が咲くとき共に楽しめず、花が散るとき共に悲しめない。
君はどのように、咲く花をめで、散る花を惜しむのかと問う。




春望 chūn wàng 四首其三 (唐)薛涛    

风花日将老 fēng huā rì jiāng lǎo
佳期犹渺渺 jiā qī yóu miǎo miǎo
不结同心人

bù jié tóng xīn rén

空结同心草 kōng jié tóng xīn cǎo     



【注 釈】

春に望む

風花(ふうくわ)日に将(まさ)に老(お)いむとし
佳期(かき)猶(な)ほ 渺渺(べうべう)たり
同心(どうしん)の人と 結ばれず
空しく 同心(どうしん)の草を結ぶ


【口語訳】  「訳詩: 那珂秀穂(支那歴朝閨秀詩集)」

風に散る  たそがれの
はるのなごりぞ  ほのかなる
思ほゆ君に  わが逢はで
むなしく結ぶ  めをと草


【风花】 fēng huā     花は風に舞い散り
【日将老】 rì jiāng lǎo   春の日はいよいよ過ぎ去ろうとしている
【佳期】 jiā qī   思う人と逢えるとき
【渺渺】 miǎo miǎo   はるかに遠い
【同心人】 tóng xīn rén     心を同じくする恋人
【同心草】 tóng xīn cǎo     同心草(どうしんぐさ)草を「同心結び」に結ぶこと。
「同心結び」は、ひもの結び方の一種で、夫婦の愛情のかたい結びつきにたとえられる

花は風に舞い、春は逝こうとしているが、君との逢瀬はなお遥か遠い。
いとし君と心を一つには結べず、空しく草を一つに結ぶばかりだと嘆く。



薛嚋  xuē tāo (せつとう)(768~ 831年)
中唐の伎女・女流詩人。字は洪度(こうど)陝西省長安の人。
もと長安の良家の娘だったが、家が零落して伎女となった。
詩に巧みで、元稹(げんしん)をはじめ、白居易、杜牧、劉禹錫らと、詩作を通じて交流を深めた。
その詩は、繊細な情緒を詠った佳品が多く、魚玄機(ぎょげんき)と並び、唐代詩妓の双璧と称される。
著作に詩集「錦江(きんこう)集」(五巻)




(杜秋娘)


金缕衣   (唐)  杜秋娘   

劝君莫惜金缕衣  quàn jūn mò xī jīn lǚ yī
劝君惜取少年时  quàn jūn xī qǔ shào nián shí
花开堪折直须折  huā kāi kān zhé zhí xū zhé
莫待无花空折枝  mò dài wú huā kòng zhé zhī




【注 釈】

金縷(きんる)の衣(ころも)

君に勧む 金縷(きんる)の衣を 惜しむ莫(な)く
君に勧む 須(すべから)く 少年(せうねん)の時を 惜しむべし
花の開きて 折るに堪えなば 直ちに折るべし
待ちて花無く 空しく枝を 折る莫(なか)れ 



【口語訳】  「訳詩: 佐藤春夫(車塵集)」

綾(あや)にしき 何をか惜しむ
惜しめただ 君若き日を
いざや折れ 花よかりせば
ためらはば 折りて花なし


【金缕衣】 jīn lǚ yī     金糸の立派な着物(栄華栄達の意)
【无花】 wú huā     花が散ってから(時機を逸する)

女性を花にたとえ、色香溢れる花の盛りは短く、ほんの束の間の美しさ。
だから咲き誇る間に手折れ、散ったあとではしようもない、と詠う。

杜秋娘は金陵(南京)の妓女だったが、杭州に駐在していた将軍李錡(りき)に所望されてその妾になった。
ときに杜秋娘は15歳、李綺は65歳であった。本作は、彼女が李錡に酒を勧めながら歌ったものとされる。


杜秋娘  dù qiū niáng   (としゅうじょう)  (791~835年)
中唐の女流詩人。江蘇省鎮江(ちんこう)の人。
金陵(江蘇省南京)の芸妓であったが、十五歳で節度使李錡(りき)の妾となり、
807年、李錡が反乱を起こして鎮圧されたため、召されて宮中に入り、憲宗の寵愛をうけた。
杜牧の「樊川(はんせん)文集」に杜秋娘の生涯をうたった長篇叙事詩「杜秋娘詩」が収められている。




(魚玄機)


秋怨  qiū yuàn  (唐) 鱼玄机    

自叹多情是足愁 zì tàn duō qíng shì zú chóu
况当风月满庭秋  kuàng dāng fēng yuè mǎn tíng qiū
洞房偏与更声近  dòng fáng piān yǔ gèng shēng jìn
夜夜灯前欲白头  yè yè dēng qián yù bái tóu



【注 釈】

秋怨(しうゑん)

自(みづか)ら嘆く 多情(たじゃう)は是れ足愁(そくしう)なりと
況(いは)んや風月(ふうげつ)満庭(まんてい)の秋に当たるや
洞房(どうばう)偏(ひと)へに更声(かうせい)近く
夜夜(よよ)灯前(とうぜん)白頭(はくとう)ならんとす


【口語訳】  「訳詩: 那珂秀穂(支那歴朝閨秀詩集)」

恋する身とは なるなかれ
庭に月澄む 秋はなほ
時計の音の 身にしみて
幾夜むなしく 泣き明かしけむ


【秋怨】 qiū yuàn   秋の夜のもだえ
【足愁】 zú chóu   限りない淋しさ
【风月】 fēng yuè   秋風と月の光(が庭一面に満ちる)
【洞房】 dòng fáng   寝室
【偏】 piān   やれやれ何とも
【更声】 gèng shēng   太鼓を打って時を知らせる音

人を恋うる気持ちが強ければ、それだけ悲しみも多くなる。
思い人を慕って、秋の夜を悶々とすごす女性の心情を詠ったもの。

毎夜毎夜、暗い部屋に、時を告げる太鼓の音が鳴り響く。時間だけが空しく
過ぎていき、みどりの黒髪も今や白んでしまいそうだ。



魚玄機  yú xuán jī (ぎょげんき)(843~868年)
晩唐の女流詩人。字は蕙蘭(けいらん)陝西省長安の人。
娼家に生まれたが、詩才に恵まれ、長安の風流人士に名を知られ、彼らと詩を応酬した。
のち長安の道教寺院に入り、女道士となったが、召使いの女を嫉妬から殺害して死罪になった。
森鴎外に、小説「魚玄機」がある。