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    漢詩百選

【宋詩一】  
梅堯臣   張愈    欧陽修   王安石 司馬光 蘇軾   范仲淹


(梅堯臣)

(悼亡) (田家語) (祭猫)


悼亡 dào wáng   (宋)  梅尧臣  
 

结发为夫妇 于今十七年  jié fà wèi fū fù yú jīn shí qī nián
相看犹不足 何况是长捐  xiāng kàn yóu bù zú hé kuàng shì cháng juān
我鬓已多白 此身宁久全  wǒ bìn yǐ duō bái cǐ shēn níng jiǔ quán
终当与同穴 未死泪涟涟  zhōng dāng yǔ tóng xué wèi sǐ lèi lián lián




【注 釈】

亡き妻を悼む

髮を結びて 夫婦(めをと)と為(な)り
今に於(おい)て 十七(じふしち)年
相看れども 猶(な)ほ足(た)らざるに
何(なん)ぞ況(いは)んや 是(ここ)に 長く捐(す)つるをや

我が鬢(びん) 已(すで)に白きもの 多く
此(こ)の身 寧(いづく)んぞ 久(ひさ)しく全(まった)からん
終(つひ)に当(まさ)に与(とも)に 穴(あな)を同じうすべきも
未(いま)だ死せずして 涙(なみだ) 漣漣(れんれん)たり


【口語訳】

君とわれ 妹背(いもせ)の縁(えにし) 深くして
ともに在ること十七年 一日(ひとひ)もあかず 睦(むつ)びしを
君 神去りし 今よりは 愛(いと)しき面輪(おもわ)も とこしへに
見るすべのなき 切なさよ

さもあれ鬢(びん)に 霜おきて 身の衰えし われゆゑに
君がかたへに 眠る日も さまでは遠き ことならじ
ただ長らへて ある限り 夜昼わかず 君恋(こ)ふて
涙しとどに 落ちぬべし


【悼亡】 dào wáng      亡き妻を悼む

妻の死を悲しむ詩を悼亡詩(とうぼうし)という。作者は、妻を亡くした42歳の時から、悼亡詩の制作を開始した。
中国では妻に対する愛情を公然と表出することは避けられたが、悼亡詩の中でのみは許されていた。

【何况】 hé kuàng     ましてや
【长捐】 cháng juān     (夫婦の契りを)永遠に断つ




田家语 tián jiā yǔ   (宋) 梅尧臣   

谁道田家乐 春税秋未足  shuí dào tián jiā lè chūn shuì qiū wèi zú
里胥扣我门 日夕苦煎促  lǐ xū kòu wǒ mén rì xī kǔ jiān cù
盛夏流潦多 白水高于屋  shèng xià liú lào duō bái shuǐ gāo yú wū
水既害我菽 蝗又食我粟  shuǐ jì hài wǒ shū huáng yòu shí wǒ sù
前月诏书来 生齿复版录  qián yuè zhào shū lái shēng chǐ fù bǎn lù
三丁藉一壮 恶使操弓韣  sān dīng jí yí zhuàng è shǐ cāo gōng dú
州符今又严 老吏持鞭朴  zhōu fú jīn yòu yán lǎo lì chí biān piáo
搜索稚与艾 惟存跛无目  sōu suǒ zhì yǔ ài wéi cún bǒ wú mù
田闾敢怨嗟 父子各悲哭  tián lǘ gǎn yuàn jiè fù zǐ gè bēi kū
南亩焉可事 买箭卖牛犊  nán mǔ yān kě shì mǎi jiàn mài niú dú
愁气变久雨 铛缶空无粥  chóu qì biàn jiǔ yǔ chēng fǒu kōng wú zhōu
盲跛不能耕 死亡在迟速  máng bǒ bù néng gēng sǐ wáng zài chí sù
我闻诚所惭 徒尔叨君禄  wǒ wén chéng suǒ cán tú ěr dāo jūn lù
却咏归去来 刈薪向深谷  què yǒng guī qù lái yì xīn xiàng shēn gǔ




【注 釈】

百姓のことば

誰(たれ)か道(い)う 田家(でんか)楽しと 春税(しゅんぜい)秋未(いま)だ足らず
裏胥(りしょ)我が門を扣(たた)き 日夕(にっせき)苦(はなは)だ煎促(せんそく)す
盛夏(せいか)流潦(りうらう)多く 白水(はくすい)屋(おく)よりも高し
水(みず)既(すで)に我が菽(まめ)を害(そこな)い 蝗(いなご)又(また)我が粟(ぞく)を喰らう
前月(ぜんげつ)詔書(せうしょ)来たり 生歯(せいし)も復(また)版錄(ばんろく)す
三丁(さんてい)に一壮(いっさう)を籍(せき)し 悪しくも弓韣(きゅうしょく)を操(と)らしむ
州符(しうふ)今又(また)厳しく 老吏(らうり)鞭樸(べんぼく)を持つ
稚(ち)と艾(がい)とを捜索(そうさく)し 唯(ただ)跛(ひ)と無目(むもく)を存するのみ

田閭(でんりょ)敢(あ)えて怨嗟(えんさ)せんや 父子(ふし)各(おのおの)悲哭(ひこく)す
南畝(なんぼ)焉(いづ)くんぞ事(つと)む可(べ)けんや 箭(や)を買いて牛犢(ぎうとく)を売る
愁気(しうき)久雨(きうう)に変じ 鐺缶(とうふ)空(むな)しくして粥(かゆ)無し
盲跛(まうひ)は耕(たがや)す能(あた)わず 死亡(しばう)は遅速(ちそく)に在(あ)りと
我は聞きて誠(まこと)に慚(は)ずる所 徒爾(いたずら)に君(きみ)が祿(ろく)を叨(かたじけな)くす
却って帰去来(ききょらい)を詠じ 薪(たきぎ)を刈りて 深谷(しんこく)に向かわん


【口語訳】 「訳詩: 倉石武四郎(歴代詩選)」

田づくり楽しと いうたは誰か 春の年貢が 秋までかかる
村の役人 戸口をたたき 朝な夕なに きびしい催促
夏の盛りに 大水が出て 屋根まですっかり 浸ってしもた
豆の畑は 水に流され 粟(あわ)の畑は いなごにやられた

先日おかみの おふれがまわり 住民登録 せよとの仰せ
男が三人いりゃ 一人は徴兵 弓矢をもてと すごい剣幕
かさねてきびしい 命令くだり 州の役人 鞭まで持って
こどもや年寄り 狩り出すさわぎ あとに残るは ちんばとめくら

村じゃ怨みの ためいきかくし 父と息子と 泣き泣き別れる
鍬(すき)ふる仕事は 続けよもないで 牛を手放し 弓矢を買うた
語るも涙の 長雨つづき 鍋はからっぽ お粥も尽きた 
ちんばやめくらにゃ 畑はできぬ 遅かれ早かれ みな死ぬばかり

この歌ききて まこと恥ずかし ただいたずらに 君の禄(ろく)食(は)む
帰りなむいざ くちずさみつつ 谷にむかいて 薪(たきぎ)をとらむ


【田家语】 tián jiā yǔ     百姓のことば

1031年、作者が河南の襄陽県令であったとき、百姓仕事の辛さを見聞してつくった作品。

【里胥】 lǐ xū     役人
【煎促】 jiān cù     厳しく催促する
【流潦】 liú lào     洪水
【生齿】 shēng chǐ     歯が生えはじめた幼児
【版录】 bǎn lù     戸籍簿に記載する

【弓韣】 gōng shǔ     弓と弓袋(武器)
【州符】 zhōu fú     役所の公文書
【稚与艾】 sōu xún zhì     幼児と老人
【田闾】 tián lǘ     農家
【铛缶】 chēng fǒu     なべとかめ
【归去来】 guī qù lái     帰去来の辞(陶淵明の散文)




祭猫 jì māo    (宋)  梅尧臣   

自有五白猫 鼠不侵我书  zì yǒu wǔ bái māo shǔ bù qīn wǒ shū
今朝五白死 祭与飯与鱼  jīn zhāo wǔ bái sǐ jì yǔ fàn yǔ yú
送之于中河 咒尔非尔疎  sòng zhī yú zhōng hé zhòu ěr fēi ěr shū
昔尔啮一鼠 衔鸣绕庭除  xī ěr niè yì shǔ xián míng rào tíng chú
欲使众鼠惊 意将清我卢  yù shǐ zhòng shǔ jīng yì jiāng qīng wǒ lú
一从登舟来 舟中同屋居  yì cóng dēng zhōu lái zhōu zhōng tóng wū jū
糗粮虽其薄 免食漏窃余  qiǔ liáng suī qí báo miǎn shí lòu qiè yú
此实尔有勤 有勤胜鸡猪  cǐ shí ěr yǒu qín yǒu qín shèng jī zhū
世人重驱驾 谓不如马驴  shì rén zhòng qū jià wèi bù rú mǎ lǘ
已矣莫复论 为尔聊欷歔  yǐ yǐ mò fù lùn wèi ěr liáo xī xū




【注 釈】

猫を祭(まつ)る

五白(ごはく)の猫を 有(いう)してより
鼠(ねずみ)は 我が書を侵(をか)さず
今朝(こんてう)五白(ごはく) 死し
祭りて 飯(めし)と魚(うを)とを与(あた)う

之(これ)を 中河(ちゅうが)に送りて
汝(なんぢ)を呪(じゅ)するは  
汝(なんぢ)を疎(おろそ)かにするに非ず
昔 汝(なんぢ)は 一鼠(いつそ)を齧(か)み
鳴くを銜(くは)へて 庭除(ていぢょ)を遶(めぐ)りたり
衆鼠(しゅうそ)をして 驚か使(し)めんと欲(ほっ)し
意は 将(まさ)に我が盧(いほり)を清めんとするなり

一たび 舟に登りてより来(このかた)
舟中(しうちう)屋(をく)を同じうして居(きょ)す
糗糧(きうりゃう)其(もと)より薄(うす)しと雖(いへど)も
漏窃(ろうせつ)の余(よ)を食(くら)ふことを 免(まぬか)る
此(こ)れ実(じつ)に 汝(なんぢ)の勤(つと)むる有ればなり
勤むる有ること 鶏猪(けいちょ)に勝(まさ)る

世人は 駆駕(くが)を重んじて
「馬驢(ばろ)に如(し)かず」と謂(い)う
已矣(やんぬるかな)復(ま)た論ずる莫(なか)らん
汝(なんぢ)の為に 聊(いささ)か欷歔(ききょ)せん


【口語訳】 「訳詩: 前野直彬(宋元明清詩集)」

我が家に 猫の五白が来てから ねずみが私の本をかじらなくなった
今朝 五白が死んだので 飯と魚をそなえ まつってやり
川のなかほどにしずめて こう唱えた
これは お前をおろそかに あつかうのではない 
以前 お前がねずみを一匹つかまえたとき 
口にくわえて 鳴きながら 庭先をあるきまわった
ほかのねずみどもを おどしているようで
我が家から 退散させるつもりとみえた

この舟にのってからは 船のなかで いっしょにくらしてきたが
いくらもない食料とはいえ ねずみによごされたあとを 食べずにすんだ
これはまったく お前の働きで その働きは 鶏や豚よりも ずっと役に立つ
世の人々は 車をひかせる 動物を重んじて 猫は 馬やろばに 及ばないと言う
だが いまさら くどくど言うのはやめよう
せめてお前のために ささやかな涙をささげたい


【五白】 wǔ bái     五白(ごはく)。猫の名。(白い斑点が五つあるので五白と名付けた)
【欷歔】 xī xū     すすり泣く

飼い猫の死という日常の些細な出来事を取り上げて一篇の詩に仕立てたもの。
共に暮らしてきた飼い猫に対する作者の愛情と同時に、小さな愛玩動物にもそれなりの存在価値のあることを訴えている。



梅尭臣 méi yáo chén   (ばいぎょうしん)  (1002~1060年)
北宋の詩人。字は聖兪(せいゆ)安徽省宣城(せんじょう)の人。
詩は日常生活に多く題材をとり、つとめて感情を抑制した平淡な詩境でうたった。
宋詩に新しい道を開拓した功績は高く評価され、門下からは蘇軾、王安石などすぐれた人材が輩出した。
著作に詩集「宛陵先生(えんりょうせんせい)文集」(六十巻)



(張愈)


蚕妇 cán fù   (宋)  张俞   

昨日入城市  zuó rì rù chéng shì
归来泪满巾  guī lái lèi mǎn jīn
遍身罗绮者  biàn shēn luó qǐ zhě
不是养蚕人  bù shì yǎng cán rén




【注 釈】

蚕婦(さんふ)

昨日(きのふ)城の 市に入り
帰り来て 涙巾(きん)に満つ
身に薄絹を 纏(まとひ)し者
是れ 養蚕(やうさん)の人にあらず


【口語訳】

ゆくりなく 昨日(きのふ)都を おとづれて
目も彩(あや)に 絹(きぬ)きし人を 見てしより
帰り来て 涙しきりと 巾(きん)をうつ
蚕飼う わが身の貧を おもふゆゑ


【蚕妇】 cán fù     村で養蚕(絹を作る)に従事する女性

都会へ行った養蚕農婦が涙をためて帰ってきた。高価な衣服で身を飾っていた者は、養蚕を行う人ではなかった。
養蚕に励んでも絹は着られない、というのである。

本作は、養蚕農婦たちのあまりにむくわれぬ厳しさと貧しさをいたみ嘆いて詠んだ詩である。

【巾】 jīn      手ぬぐい
【遍身罗绮者】 biàn shēn luó qǐ zhě     絹織物を身につけた人たち



張愈  zhāng yú   (ちょうゆ)  (生没年不詳)
北宋の詩人。字は少愚(しょうぐ)四川省益州(えきしゅう)の人。
何度も科挙の試験に応じたが合格せず、のち四川省の青城山(せきじょうさん)に隠居して自ら「白雲先生」と号した。
著作に詩集「白雲集」(三十巻)




(欧陽修)


丰乐亭游春  fēng lè tíng yóu chūn 三首其三 (宋)欧阳修    

红树青山日欲斜  hóng shù qīng shān rì yù xiá
长郊草色绿无涯  cháng jiāo cǎo sè lǜ wú yá
游人不管春将老  yóu rén bù guǎn chūn jiāng lǎo
来往亭前踏落花  lái wǎng tíng qián tà luò huā



【注 釈】

豊楽亭(ほうらくてい)に春を遊ぶ

紅樹(こうじゅ)青山(せいざん)日(ひ)斜(なな)めならんと欲(ほっ)し
長郊(ちゃうかう)草色(さうしょく)緑(みどり)涯(はて)無し
遊人(いうじん)管(くゎん)せず 春(はる) 将(まさ)に老いんとするを
亭前(ていぜん)に来往(らいわう)して 落花(らくくわ)を踏(ふ)む


【口語訳】

花(はな)紅(あか)き樹 青き山 日は西にかたむき
広き野に草の色 はてもなく緑(あお)し
ここに遊べば 逝(ゆ)く春とともにあり
亭前(ていぜん)を 行(ゆ)きつ戻りつ 落花を踏む


【丰乐亭】 fēng lè tíng    豊楽亭(ほうらくてい)1045年、滁州(じょしゅう 安徽省)の知事となった作者が、
郊外に建立したあずまや。人々が豊年を楽しんで集うために、この名をつけたという。

本作は、ある春の一日、土地の人々とともに、亭内を行楽したときに、季節のうつろいをいとおしむ心情を詠ったもの。

【游春】 yóu chūn   散策する
【长郊】 cháng jiāo  広々とつらなる田野
【游人】 yóu rén   行楽客



欧陽修  ōu yáng xiū  (おうようしゅう) (1007~1072年)
北宋の詩人。字は永叔(えいしゅく)江西省吉安(きつあん)の人。
1030年、科挙に及第、仁宗・英宗・神宗の三代に仕え副宰相に至るも、王安石の新法に反対して退官した。
北宋随一の名文家で、唐宋八大家の一人。蘇軾(そしょく)ら宋代のすぐれた人材を発掘、育成した功績も大きい。
著作に詩集「欧陽文忠公全集(おうようぶんちゅうこうぜんしゅう)」(百五十三巻)




(王安石)

(重将) (午枕) (梅花) (自遣) (杭州望湖楼) (即時)   (元日)  (出郊)


重将 chóng jiāng   (宋)  王安石    

重将白发傍墙阴  chóng jiāng bái fà bàng qiáng yīn
陈迹茫然不可寻  chén jì máng rán bù kě xún
花鸟总知春烂熳  huā niǎo zǒng zhī chūn làn màn
人间独自有伤心  rén jiān dú zì yǒu shāng xīn



【注 釈】

重将(ちょうしゃう)

重(かさ)ねて 白髮(はくはつ)を将(も)って 牆陰(しゃういん)に傍(そ)ひ
陳迹(ちんせき)茫然(ばうぜん)として 尋ぬる可(べ)からず
花鳥(くわてう) 総(す)べて知る 春の爛熳(らんまん)たるを
人間(じんかん)には 独(ひと)り自(みづか)ら 傷心(しゃうしん) 有り


【口語訳】

年長けて 夢なつかしく 訪ね来し
里の古道 われ行けど 埋れ果てにし 思い出の
いづこと分かぬ 里の様

時しめぐれば 花鳥(はなとり)の
無心に春を 告ぐれども 人のこの世に 生くる身の
時に感じて なにゆゑに 胸に思いの 絶えざるや


【重将白发】 chóng jiāng bái fà  再び(白髪の)身をもって。第一句の最初の二字を取って題としている。

ある春の盛り、人生の黄昏時を迎えた作者は、故郷の思い出の場所を訪れる。本作は、そこでひたすら
無心に春を謳歌する花鳥の世界と、いつも感傷がつきまとう人の世を対比して詠んだもの。

【傍墙阴】 bàng qiáng yīn  土塀の陰に沿うて歩く
【陈迹】 chén jì   昔来た思い出の場所
【茫然不可寻】 máng rán bù kě xún  どうも記憶がぼんやりして探し当てられない
【花鸟总知】 huā niǎo zǒng zhī  花や鳥は、いつでも(春の盛りを)味わい楽しんでいるが
【人间独自】 rén jiān dú zì  人の世には、ひとり孤独に(心を傷めることがある)




午枕  wǔ zhěn   (宋) 王安石    

午枕花前簟欲流 wǔ zhěn huā qián diàn yù liú
日催红影上帘钩 rì cuī hóng yǐng shàng lián gōu
窥人鸟唤悠扬梦 kuī rén niǎo huàn yōu yáng mèng
隔水山供宛转愁 gé shuǐ shān gōng wǎn zhuǎn chóu



【注 釈】

午枕(ごちん)

花前(くわぜん)に午枕(ごちん)して 簟(てん)流れんと欲し
日は紅影(こうえい)を催(うなが)して 簾鈎(れんこう)を上らしむ
人を窺(うかが)ひて 鳥は喚(よ)ばふ 悠揚(ゆうやう)の夢
水を隔てて 山は供(きょう)す 宛転(ゑんてん)の愁ひ


【口語訳】

花の下にてまどろめば 竹のむしろに日ぞ暮(く)るる
くれなゐ匂ふ花の影 すだれの丈に並ぶまで
伸びよ伸びよと日は呼ばふ

夢さまさじと忍びかに さへづる鳥に夢さめつ
川の向こうに目をやれば うねりくねれる山のさま
山には山の愁いあり 人には人の悲しみぞ


【午枕】 wǔ zhěn     (午睡)昼寝

1085年、王安石64歳の作。この時、王安石は新法による政治改革に失敗したため
宰相辞職を余儀なくされ、江寧(こうねい 南京)に隠棲していた。
ある日、昼寝から目覚めたとき、春の日差しに心を動かされ、この詩を詠んだ。

【簟】 diàn  (竹席)竹製のむしろ。たかむしろ
【簟欲流】 diàn yù liú  竹むしろに照り映える光は、まるで流れ出しそうだ
【帘钩】 lián gōu  簾(すだれ)のつりて(かぎの部分)
【日催红影】 rì cuī hóng yǐng  陽光が花の影をせきたてて(簾のかぎの上まで上らせる)

【悠扬梦】 yōu yáng mèng  (飘忽不定的梦)夢うつつのさま
【窥人鸟】 kuī rén niǎo  人をのぞき込みながら、さえずる鳥の声は(のどかな昼寝の夢を呼び覚ます)
【宛転愁】 wǎn zhuǎn chóu  (难以名状的清愁)しみじみとした哀愁
【隔水山】 gé shuǐ shān  川の対岸に見える山並みは(めぐる愁いをつのらせる)





梅花 méi huā   (宋) 王安石    

墙角数枝梅 qiáng jiǎo shù zhī méi
凌寒独自开 líng hán dú zì kāi
遥知不是雪 yáo zhī bù shì xuě
为有暗香来 wèi yǒu àn xiāng lái




【注 釈】

梅花(ばいくわ)

牆角(しゃうかく)数枝(すうし)の梅(うめ)  
寒(かん)を凌(しの)ぎて 独(ひと)り自(おのづか)ら開く
遙(はる)かに知る 是(こ)れ雪ならざるを
暗香(あんかう)の有(あ)りて来たるが為(ため)なり


【口語訳】

墻根(かきね)の隅(すみ)の白梅(しらうめ)の
寒(かん)を凌(しの)ぎて 凜(りん)と咲く
遥(はる)けくも 雪に見紛(みまご)ふことなきは
匂ひもゆかし梅の香の 仄(ほの)かに漂ひ来ればなり


【墙角】 qiáng jiǎo  土塀の角 目立たない所
【凌寒】 líng hán  寒さをものともせず
【遥知】 yáo zhī  遠くからでもわかる
【为有】 wèi yǒu  なぜならば 
【暗香】 àn xiāng   ほのかな香り

1076年、王安石55歳の作。宰相を失脚してまもない頃の作品で、この時、作者の困難な状況と孤独の心境とが、
風雪に耐えて静かに咲く梅の花と共通するものがあり、この詩を詠んだとされる。




自遣  zì qiǎn (北宋)王安石    

闭户欲推愁  bì hù yù tuī chóu
愁终不肯去  chóu zhōng bù kěn qù
底事春风来  dǐ shì chūn fēng lái
留愁愁不住  liú chóu chóu bú zhù



【注 釈】

自(みづか)ら遣(ゆる)す

戸を閉(と)ぢて 愁(うれ)ひを推(お)さむと 欲すれど
愁(うれ)ひ は 終(つ)ひに 肯(あ)へて去(はな)れず
底事(なにごと)ぞ 春風(しゅんふう)来(き)たれば
愁(うれ)ひ 留(とど)めむと すれども愁ひ 住(とど)まらず


【口語訳】

忍びよる 愁ひをよそに逐(やら)はむと 窓をとざせど かたくなに
身につきまとふ 愁ひよな 春さり来れば身に宿る 愁ひはどこに 
ひそみしか 呼べど答へぬ ふしぎさよ


【自遣】 zì qiǎn  (排遣自己心中的愁闷)自ら憂さを晴らす。愁いを紛らわせる

胸にわだかまる深い憂いも春になると、いつのまにか消えてしまうのはどういうわけかと、
自ら不思議に感じた心境を詠ったもの。

【推愁】 tuī chóu    (戸を閉めきって)愁いを押し出す
【底事】 dǐ shì    何故。「底」は何の意。
【愁不住】 chóu bú zhù   (愁いを引き留めようとしても)愁いの方でじっとしていてくれない




杭州望湖楼回马上作呈玉汝乐道  (北宋) 王安石    
háng zhōu wàng hú lóu huí mǎ shàng zuò chéng yù rǔ lè dào

水光山气碧浮浮  shuǐ guāng shān qì bì fú fú
落日将归又少留  luò rì jiāng guī yòu shǎo liú
从此只应长入梦  cóng cǐ zhǐ yìng cháng rù mèng
梦中还与故人游  mèng zhōng hái yǔ gù rén yóu



【注 釈】

杭州(かうしう)望湖楼(ばうころう)より回(かへ)り
馬上(ばじゃう)にて作り 玉汝楽道(ぎょくじょらくだう)に呈す

水光(すいくわう)山気(さんき)碧(みどり)浮浮(ふふ)たり
落日(らくじつ)将(まさ)に帰(かへ)らんとするも 又少(しばら)く留まる
此(こ)れより只(た)だ 応(まさ)に長く夢に入るべし
夢の中(うち)還(ま)た 故人(こじん)と遊ばん


【口語訳】

湖水の水も 山脈(やまなみ)も ひとつ碧(みどり)にさゆらぎて
入日(いりひ)の道を帰りゆき われ呼び返す 物(もの)のさま
馬をひかえて今しばし 別れがたなく ふり返る

心にとめし この眺望(ながめ) 夜ごとの夢にあらはれて
親しき友と さらに又 語り明かさむ


【望湖楼】 wàng hú lóu   浙江省杭州市にある西湖畔の楼閣。

1050年、王安石30歳の作。このとき杭州へ旅行した作者は、西湖を見おろす望湖楼から
眺めた景色に強烈な印象を受けた。
これからはこの景色が何度も夢に出て来るにちがいない、そうしたら夢の中でもう一度
わが友と遊び、語り合いたいものだ、という思いを詠ったもの。

【玉汝楽道】 yù rǔ lè dào   韓玉女(かんぎょくじょ)と楊楽道(ようらくどう)ともに王安石の友人
【碧浮浮】 bì fú fú  青一色に染まっている
【故人】 gù rén  (老友)昔なじみの友




即时  jí shí   (北宋)王安石    

径暖草如积  jìng nuǎn cǎo rú jī
山晴花更繁  shān qíng huā gèng fán
纵横一川水  zòng héng yī chuān shuǐ
高下数家村  gāo xià shù jiā cūn
静憩鸡鸣午  jìng qì jī míng wǔ
荒寻犬吠昏  huāng xún quǎn fèi hūn
归来向人说  guī lái xiàng rén shuō
疑是武陵源  yí shì wǔ líng yuán



【注 釈】

即時(そくじ)

径(みち)暖(あたた)かにして 草(くさ)積むが如く
山(やま)晴れて 花(はな)更(さら)に繁(しげ)し
縦横(じゅうわう)一川(いっせん)の水(みづ)
高下(かうか)数家(すうか)の村(むら)

静かに憩(いこ)へば 鶏(とり)午(ひる)に鳴き
荒尋(くわうじん)すれば 犬(いぬ)昏(くれ)に吠(ほ)ゆ
帰来(きらい)して 人に向かひて説(と)く
疑(うたご)ふらくは 是れ武陵源(ぶりょうげん)


【口語訳】

径(みち)暖(あたた)かに 草生(お)ひて 
日に向くところ 山晴れて 花咲きつげり

白き水 広野(くわうや)をめぐり 
点々(てんてん)と 人の家(や)も見ゆ

歩(ほ)をとめて しばし憩(いこ)えば 午(ご)に近く 鶏(とり)鳴きて
たそがれに 草むら行(ゆ)けば 里犬の 遠吠え聞こゆ

帰り来て 人に語(かた)らく 恐らくはこれ
名に賞(め)づる 桃源郷(たうげんきゃう)に あらざるや


【即时】 jí shí  (以目前事物为题材的诗)興に乗り即座に作った詩。即興詩。

本作は、陶淵明の「桃花源記」を題材にしたもの。江寧(こうねい 南京)に隠棲していた王安石の晩年の作とされる。
作者はあるとき、散歩の途中、道に迷い、見知らぬ山村を彷徨い歩く。

山は晴れ渡り、道は暖かく、花が咲き誇り、鶏の声や犬の遠吠えが聞こえ、まるで別世界にいるかのようだった。
ようやく自宅に帰り着いた作者は、家人に言った。「わしが見たのは、武陵の桃源郷だったのかも知れない」と。

【纵横一川水】(一川清水曲曲折折无声流淌)一筋の川が縦横に曲がりくねって流れる
【高下数家村】(数户村居高高低低依山而筑)山の高い処、低い処に、数軒の家が見える

【荒寻】 huāng xún  (寻找幽深的地方)人里離れた寂しい処を散策する
【疑是】 yí shì  (好像是)おそらく~のようだ
【武陵源】 wǔ líng yuán  武陵源(ぶりょうげん)陶淵明の「桃花源記」に登場する桃源郷




元日  yuán rì (宋) 王安石    

爆竹声中一岁除  bào zhú shēng zhōng yī suì chú
春风送暖入屠苏  chūn fēng sòng nuǎn rù tú sū
千门万户曈曈日 

qiān mén wàn hù tóng tóng rì

总把新桃换旧符 

zǒng bǎ xīn táo huàn jiù fú



【注 釈】

元日(がんじつ)

爆竹の声中(せいちゅう)一歳を除(つ)き
春風は暖(だん)を送りて 屠蘇(とそ)に入らしむ  
千門(せんもん)万戸(ばんこ) 曈曈(とうとう)たる日 
総(すべ)て新桃(しんたう)を把(と)りて旧符(きうふ)に換(か)ふ


【口語訳】

爆竹の音が にぎやかに鳴りひびくなか 一年が終わった
のどかな新春の風が 屠蘇の中に ぬくもりを運んでいる
さしのぼる初日の陽光が 数知れぬ家々を 照らしている
みな新しい桃符を古いものと取り換えて 新年を祝うのだ


【除】 chú    (逝去)過ぎ行く
【曈曈】 tóng tóng    (明亮)明るく照らす
【新桃】 xīn táo    桃符(ももふ)桃の木の護符

新年(旧暦の元旦)を迎えた喜びと清新な気分を詠ったもの。
邪気を払うために爆竹を鳴らし、病を防ぐために屠蘇を飲んだ。

桃符は、桃の木の板に「悪鬼を退治する神様」の像を描いて
門戸に掛け、魔除けにしたもの。のちに紙製(春聯)となった。




出郊  chū jiāo  (宋) 王安石    

川原一片绿交加  chuān yuán yí piàn lǜ jiāo jiā
深树冥冥不见花  shēn shù míng míng bú jiàn huā
风日有情无处著 

fēng rì yǒu qíng wú chù zhuó

初回光景到桑麻 

chū huí guāng jǐng dào sāng má



【注 釈】

郊(かう)に出(い)づ

川原(せんげん)一片(いつぺん)緑(みどり)交加(かうか)なり
深樹(しんじゅ)冥冥(めいめい)として 花を見ず
風日(ふうじつ)情(じゃう)有るも 着(つ)く処(ところ)無く
初(やうや)く 光景(くわうけい)を回(めぐ)らして 桑麻(さうま)に到る


【口語訳】

逝(ゆ)く川の 水のみどりに 野辺の草 ひとつに融(と)けて
世はみどり 唯(た)だ みどりなり

情(おもひ)ある もののごとくに 赤き日の
ひかりくまなく 風わたれども 

木立繁りて 間(あはひ)なく 咲く花の 影をとどめず
かへりみて 桑と麻 そよげるあたり 日脚(ひざし)たゆたふ


【冥冥】 míng míng  (昏暗)ほの暗い
【有情】 yǒu qíng  (花心想看看美丽的花)浮気心を起こす。花を覗こうとする日の光が擬人化されている
【无处著】 wú chù zhuó  (没有可钻的空子)付け入る隙がない
【初】 chū  (终于)ようやく
【回光景】 huí guāng jǐng  (把阳光转移到桑麻上)(桑麻のうえに)日差しを照り返す

作者が郊外の農村地域を訪れたときの豊作の喜びを詠ったもの。
田野は緑に覆われ、生い茂った木々が鬱蒼と茂っている。

風に揺れる日の光は、浮気心を起こして、美しい花を覗こうとするのだが、
花々は、木々の緑に覆われて見えなくなっている。

ふと眺めやると、盛んに茂った桑と麻の畑が彼処に広がっている。
そこで今度は、桑と麻の上に暖かな日の光が注がれるのだった。



王安石  wáng ān shí   (おうあんせき)   (1021~1086年)
北宋の詩人、政治家。字は介甫(かいほ)江西省撫州(ぶしゅう)の人。
神宗のとき宰相となり、進歩的改革案である新法を断行したが、保守派の反対により辞職。
文人・学者としてもすぐれ、唐宋八大家の一人。
著作に詩集「臨川(りんせん)集」(百巻)




(司馬光)


客中初夏  kè zhōng chū xià (北宋)司马光    

四月清和雨乍晴  sì yuè qīng hé yǔ zhà qíng
南山当户转分明  nán shān dàng hù zhuàn fēn míng
更无柳絮因风起  gèng wú liǔ xù yīn fēng qǐ
惟有葵花向日倾  wéi yǒu kuí huā xiàng rì qīng



【注 釈】

客中(かくちゅう)の初夏(しょか)

四月(しぐわつ)清和(せいわ)雨(あめ)乍(たちま)ち晴る
南山(なんざん)戸(こ)に当(あ)たり 転(うた)た分明(ふんめい)
更(さら)に 柳絮(りうじょ)の風に因(よ)り 起こる無く
惟(た)だ葵花(きくわ)の日に向(む)かひて 傾(かたむ)く有り


【口語訳】

雨たちまち晴れゆきて 空は卯月(うづき)の 水浅黄(みづあさぎ)
南に山の浮(う)き出(い)でて 柳は花も 身(み)じろがず
ただ向日葵(ひまわり)の 日(ひ)を恋(こ)ひて かしぎて花の咲くばかり


【客中】 kè zhōng  (旅居他乡作客)旅先(洛陽)にて(初夏を迎える)

作者は1071年、宰相であった王安石と政治上の意見が合わず、官位を辞職、
以後、洛陽で悠々自適の隠遁生活を送っていたが、本作はそのときの作品。

白い柳の種子が一面に舞い、ひまわりが日に向かい真っすぐに咲きほこる。
初夏のすがすがしく、なごやかな戸外の風物を詠う。

【清和】 qīng hé  (天气清明而和暖)すがすがしくなごやか
【当户】 dàng hù  (正对门)部屋の戸口まぢか(にあるごとく南山がはっきり見える)
【转分明】 zhuàn fēn míng  (看得更加清楚)いちだんとはっきり見える



司馬光  sī mǎ guāng (しばこう)(1019~1086年)
北宋の政治家。字は君実(くんじつ)山西省夏県(かけん)の人。
1038年、18歳で進士に合格後、地方官を歴任。
1067年、北宋第六代皇帝・神宗即位とともに翰林(かんりん 皇帝秘書)に昇進した。

1071年、宰相であった王安石の新法に反対して辞職。
1086年、第七代皇帝・哲宗のとき官界に復帰、宰相となり、新法を廃し旧法に復した。
著書にライフワークとなった歴史書「資治通鑑(しじつがん)」(294巻)がある。




(蘇軾)

(望湖楼酔書) (吉祥寺) (春宵) (東欄梨花) (題西林壁) (赤壁賦)


六月二十七日望湖楼醉书    (宋)  苏轼    

黑云翻墨未遮山 hēi yún fān mò wèi zhē shān
白雨跳珠乱入船 bái yǔ tiào zhū luàn rù chuán
卷地风来忽吹散 juǎn dì fēng lái hū chuī sàn
望湖楼下水如天 wàng hú lóu xià shuǐ rú tiān




【注 釈】 

六月二十七日 望湖楼(ばうころう)に 醉(ゑ)ひて書(しる)す
                      
黒雲(こくうん)墨(すみ)を 翻(ひるがへ)して 未だ 山を 遮(さへぎ)らず
白雨(はくう)珠(たま)を 跳(をど)らせて 乱れて 船に入る
地を 卷き 風 来(きた)りて 忽(たちま)ち 吹き散じ
望湖楼(ばうころう)下(か) 水 天の如し


【口語訳】

墨くつがへし黒雲の  にはかに空を 掩(おほ)ひきて
いまだ彼方の山脈を かくしも果てず 白雨(しらさめ)の
船うつ雨に 解きみだる 真珠の玉の 跳(はね)るかな

折しも風の 吹き起ちて たちまち雲を 散ずれば
碧(みど)りにかへる 湖水(みづうみ)の 空や水なる間にぞ
凛(りん)と立つなる 望湖楼(ばうころう)


【望湖楼】 wàng hú lóu     浙江省杭州市にある西湖畔の楼閣。

1072年、蘇軾37歳の作。このとき作者は、杭州の通判(地方次官)の官職にあった。
本作は、西湖のほとりの望湖楼上で、酒を飲みながら、夏の夕立の情景を詠じたもの。

【跳珠乱入船】 tiào zhū luàn rù chuán     夕立の大粒の雨が船に降り注ぐ




吉祥寺赏牡丹  (宋) 苏轼    

人老簪花不自羞  rén lǎo zān huā bù zì xiū
花应羞上老人头  huā yīng xiū shàng lǎo rén tóu
醉归扶路人应笑  zuì guī fú lù rén yīng xiào
十里珠帘半上钩  shí lǐ zhū lián bàn shàng gōu



【注 釈】

吉祥寺(きつしゃうじ)にて牡丹(ぼたん)を賞(しゃう)す

人は 老いて 花を簪(かざ)すも 自(みづか)ら羞(は)ぢず
花は 応(まさ)に 老人(おいびと)の頭(かしら)に上(のぼ)るを羞づべし
醉(ゑ)ひて帰り 路に扶(たす)けらるるを 人(ひと) 応(まさ)に笑ふべし
十里(じうり)の珠簾(しゅれん) 半(なか)ば鉤(こう)に上(のぼ)る


【口語訳】

老人は花をかざして 華(はな)やげど
花こそうたて 佗(わび)しけれ 
酒にし酔ひて しどけなく
友にすがりて 行くわれを
さだめし人の 笑うべし 
十里の道の 家並みは
簾(すだれ)をあげて われを見る


【吉祥寺】 jí xiáng sì     吉祥寺(きっしょうじ)寺の名。浙江省杭州(こうしゅう)

1072年、蘇軾37歳の作。このとき作者は、杭州の通判(地方次官)の官職にあった。
杭州の吉祥寺(きっしょうじ)に花見に出かけた帰り道、興に乗って牡丹の花を髪に挿し、
ほろ酔い気分で、人に支えられながら歩く自分の姿を詠んだもの。

【珠帘】 zhū lián     真珠のすだれ




春宵 chūn xiāo   (宋)  苏轼    

春宵一刻值千金  chūn xiāo yí kè zhí qiān jīn
花有清香月有阴  huā yǒu qīng xiāng yuè yǒu yīn
歌管楼台声细细  gē guǎn lóu tái shēng xì xì
秋千院落夜沉沉  qiū qiān yuàn luò yè chén chén



【注 釈】

春宵(しゅんせう)

春宵(しゅんせう)一刻 値(あた)ひ千金
花に清香(せいかう)あり 月に陰(いん)有り
歌管(かくわん)楼台(ろうだい)声 細細(さいさい)
秋千(しうせん)院落(ゐんらく)夜 沈沈(ちんちん)


【口語訳】

春の夜の想ひに まさる物やある
花の香りのほのぼのと 月のおぼろに風情あり

時の移るも知らぬげに 歌ひつれにし人々も
やがて夢路に入るころか

夜はしんしんと更けまさり 外面(そとも)の庭の  秋千(しうせん)の
静かに影を落すのみ


【月有阴】 yuè yǒu yīn  月はおぼろにかすんでいる
【院落】 yuàn luò  垣根で囲んだ中庭
【秋千】 qiū qiān   ブランコ
【沉沉】 chén chén    静かに夜のふけるさま

1072年、蘇軾37歳の作。このとき作者は、杭州の通判(地方次官)の官職にあった。
杭州の役人となった蘇軾には、裁判をつかさどるほかは大した仕事がなかった。それ故、当地の文人と
交わったり、名勝を訪ねて詩を作るなど、蘇軾の文学者としての活躍はここから始まった。
本作は、春の一日、芸妓たちと歌舞管弦で遊び、その後、ひとり静かに春の夜の情趣を詠じたもの。




东栏梨花 dōng lán lí huā   (宋)  苏轼    

梨花淡白柳深青  lí huā dàn bái liǔ shēn qīng
柳絮飞时花满城  liǔ xù fēi shí huā mǎn chéng
惆张东栏一株雪  chóu zhāng dōng lán yì zhū xuě
人生看得几清明  rén shēng kàn dé jǐ qīng míng



  
【注 釈】

東欄(とうらん)の梨花(りくわ)

梨花(りくわ)は淡白にして、柳は深青(しんせい)なり
柳絮(りうじよ)の飛ぶ時 花は城に満つ
惆張(ちうちゃう)す 東欄(とうらん)一株(いっしゅ)の雪
人生 看得(みう)るは 幾たびの清明(せいめい)か


【口語訳】

真白き梨花(りか)に たち添ひて 柳のみどり さやかなり
柳の花の 散るころは 雪としまがふ 梨(なし)の花
城の内外(うちと)に 咲きぞ満つ

今わが庭の 東なる 離(はなれ)の下の 梨花一枝(いっし)
目に点ずれば そこはかと 春のうれひの 胸を過ぐ
思えば人の 世に在りて 静かに花に 対(むか)ひゐて
心くまなく 過す日の あはれ幾たび あるやらむ


【东栏梨花】 dōng lán lí huā     欄干の東に咲く梨の花

1077年、蘇軾42歳の作。このとき作者は、徐州(江蘇省)の知事(長官)の官職にあった。
本作は、清明の佳節に盛りと咲く梨花に触発されて詠んだもの。




题西林壁  tí xī lín bì    (宋)  苏轼   

横看成岭侧成峰 héng kàn chéng lǐng cè chéng fēng
远近高低各不同 yuǎn jìn gāo dī gè bù tóng
不识庐山真面目 bù shí lú shān zhēn miàn mù
只缘身在此山中 zhǐ yuán shēn zài cǐ shān zhōng




【注 釈】 

西林(せいりん)の壁(へき)に題(だい)す 

横看(わうかん)すれば 嶺(れい)を成(な)し 側(そく)は峰(ほう)を成(な)す
遠近(ゑんきん) 高低(かうてい) 各(おのおの) 同(おな)じからず
廬山(ろざん)の真面目(しんめんもく)を識(し)らざるは
只(ただ)身(み)の此(こ)の山中(さんちゅう)に在(あ)るに縁(よ)る



【口語訳】

橫より看(み)れば 嶺(れい)を成し 側(そば)よりすれば 峰(ほう)と成る 
遠近 高低 総(すべ)て同じからず 

廬山(ろざん)の真面目(しんめんもく)を 識(し)らざるは 
只(た)だ 身(み)の 此(こ)の山中(さんちゅう)に 在(あ)るに縁(よ)る

凡(およ)そ事理(ことわり)の真像(しんざう)を 審(つまび)らかにせんとならば
須(すべか)らく 傍(かたは)らに立ちて 諦観(ていくわん)すべきなり



【西林】 xī lín  西林寺。廬山のふもとに西林寺と東林寺がある
【题壁】 tí bì  壁に詩を書きつける
【庐山】 lú shān  廬山。山の名(江西省九江市南部)仏教の聖地
【真面目】 zhēn miàn mù  本来の姿

1084年、蘇軾49歳の作。廬山に遊んで西林寺の壁に題した詩。
およそ事の真相を捉えようとすれば、局外にあって、客観的に見るべきであると述べる。




赤壁赋  chì bì fù  ()  苏轼    

壬戌之秋,七月既望,苏子与客泛舟游于赤壁之下
rén xū zhī qiū,qī yuè jì wàng,sū zǐ yǔ kè fàn zhōu yóu yú chì bì zhī xià
清风徐来,水波不兴
qīng fēng xú lái,shuǐ bō bù xīng
举酒属客,诵明月之诗,歌窈窕之章
jǔ jiǔ zhǔ kè,sòng míng yuè zhī shī,gē yǎo tiǎo zhī zhāng

少焉,月出于东山之上,徘徊于斗牛之间
shǎo yān,yuè chū yú dōng shān zhī shàng,pái huái yú dòu niú zhī jiān
白露横江,水光接天
bái lù héng jiāng,shuǐ guāng jiē tiān
纵一苇之所如,凌万顷之茫然
zòng yì wěi zhī suǒ rú,líng wàn qǐng zhī máng rán
浩浩乎如冯虚御风,而不知其所止
hào hào hū rú píng xū yù fēng,ér bù zhī qí suǒ zhǐ
飘飘乎如遗世独立,羽化而登仙
piāo piāo hū rú yí shì dú lì,yǔ huà ér dēng xiān

于是饮酒乐甚,扣舷而歌之
yú shì yǐn jiǔ lè shèn,kòu xián ér gē zhī
歌曰:“桂棹兮兰桨,击空明兮溯流光
gē yuē:“guì zhào xī lán jiǎng,jī kòng míng xī sù liú guāng
渺渺兮予怀,望美人兮天一方。”
miǎo miǎo xī yú huái,wàng měi rén xī tiān yì fāng

客有吹洞萧者,倚歌而和之,其声呜呜然
kè yǒu chuī dòng xiāo zhě,yǐ gē ér hé zhī,qí shēng wū wū rán
如怨如慕,如泣如诉;余音袅袅,不绝如缕
rú yuàn rú mù,rú qì rú sù;yú yīn niǎo niǎo,bù jué rú lǚ
舞幽壑之潜蛟,泣孤舟之嫠妇
wǔ yōu hè zhī qián jiāo,qì gū zhōu zhī lí fù

苏子愀然,正襟危坐,而问客曰:“何为其然也?
sū zǐ qiǎo rán,zhèng jīn wēi zuò,ér wèn kè yuē:hé wéi qí rán yě

客曰:“月明星稀,乌鹊南飞,此非曹孟德之诗乎?
kè yuē:“yuè míng xīng xī,wū què nán fēi,cǐ fēi cáo mèng dé zhī shī hū
西望夏口,东望武昌
xī wàng xià kǒu,dōng wàng wǔ chāng
山川相缪,郁乎苍苍;此非孟德之困于周郎者乎?
shān chuān xiāng liáo,yù hū cāng cāng;cǐ fēi mèng dé zhī kùn yú zhōu láng zhě hū

方其破荆州,下江陵,顺流而东也,舳舻千里
fāng qí pò jīng zhōu,xià jiāng líng,shùn liú ér dōng yě,zhú lú qiān lǐ
旌旗蔽空,酾酒临江,横槊赋诗
jīng qí bì kōng,sī jiǔ lín jiāng,héng shuò fù shī
固一世之雄也,而今安在哉?
gù yí shì zhī xióng yě,ér jīn ān zài zāi

况吾与子,渔樵于江渚之上,侣鱼虾而友糜鹿
kuàng wú yǔ zǐ,yú qiáo yú jiāng zhǔ zhī shàng,lǚ yú xiā ér yǒu mí lù
驾一叶之扁舟,举匏樽以相属
jià yí yè zhī piān zhōu,jǔ páo zūn yǐ xiāng shǔ
寄蜉蝣与天地,渺沧海之一粟
jì fú yóu yǔ tiān dì,miǎo cāng hǎi zhī yī sù
哀吾生之须臾,羡长江之无穷
āi wú shēng zhī xū yú,xiàn cháng jiāng zhī wú qióng
挟飞仙以遨游,抱明月而长终
xié fēi xiān yǐ áo yóu,bào míng yuè ér cháng zhōng
知不可乎骤得,托遗响于悲风。”
zhī bù kě hū zhòu dé,tuō yí xiǎng yú bēi fēng

苏子曰:“客亦知夫水与月乎?
sū zǐ yuē:“kè yì zhī fū shuǐ yǔ yuè hū
逝者如斯,而未尝往也;盈虚者如彼,而卒莫消长也
shì zhě rú sī,ér wèi cháng wǎng yě;yíng xū zhě rú bǐ,ér zú mò xiāo zhǎng yě
盖将自其变者而观之,则天地曾不能一瞬
gài jiāng zì qí biàn zhě ér guān zhī,zé tiān dì zēng bù néng yí shùn
自其不变者而观之,则物于我皆无尽也
zì qí bú biàn zhě ér guān zhī,zé wù yú wǒ jiē wú jìn yě
而又何羡乎?
ér yòu hé xiàn hū

且夫天地之间,物各有主,苟非吾之所有,虽一毫而莫取
qiě fū tiān dì zhī jiān,wù gè yǒu zhǔ,gǒu fēi wú zhī suǒ yǒu,suī yì háo ér mò qǔ
惟江上之清风,与山间之明月
wéi jiāng shàng zhī qīng fēng,yǔ shān jiān zhī míng yuè
耳得之而为声,目遇之而成色
ěr dé zhī ér wèi shēng,mù yù zhī ér chéng sè
取之无禁,用之不竭
qǔ zhī wú jìn,yòng zhī bù jié
是造物者之无尽藏也,而吾与子之所共适。”
shì zào wù zhě zhī wú jìn zàng yě,ér wú yǔ zǐ zhī suǒ gòng shì

客喜而笑,洗盏更酌,肴核既尽,杯盘狼藉
kè xǐ ér xiào,xǐ zhǎn gèng zhuó,yáo hé jì jìn,bēi pán láng jí
相与枕藉乎舟中,不知东方之既白
xiāng yǔ zhěn jiè hū zhōu zhōng,bù zhī dōng fāng zhī jì bái


【注 釈】

赤壁の賦(ふ)

壬戌(じんじゅつ)の秋 七月既望(きばう)
蘇子(そし)客(かく)と舟を泛(う)かべて 赤壁(せきへき)の下(もと)に遊ぶ
清風 徐(おもむろ)に来(きた)りて 水波 興(おこ)らず
酒を挙(あ)げ 客に属(すす)め 明月(めいげつ)の詩を 誦(しょう)し 
窈窕(えうてう)の章(しゃう)を 歌ふ

少焉(しばらく)して 月 東山(とうざん)の上に出(い)で
斗牛(とぎう)の間(かん)に徘徊(はいくゎい)す
白露(はくろ) 江(かう)に横(よこた)はり 水光(すゐくわう)天に接す
一葦(いちゐ)の如(ゆ)く所に 従(したが)ひて
万頃(ばんけい)の茫然(ばうぜん)たるを 凌(しの)ぐ
浩浩乎(かうかうこ)として 虚(そら)に馮(よ)り 風(かぜ)に御(ぎょ)して
其(そ)の止(とど)まる所を 知らざるが如く
飄飄乎(へうへうこ)として 世を遺(わす)れて 独(ひと)り立(た)ち
羽化(うくわ)して 登仙(とうせん)するが如し

是(ここ)に於て酒を飲みて 楽しむこと甚(はなはだ)しく
舷(ふなばた)を扣(たた)きて 之(これ)を歌ふ
歌に曰(いは)く
桂櫂(けいたう)蘭槳(らんさう)
空明(くうめい)に撃(う)ちて 流光(りうくわう)に泝(さかのぼ)る
渺渺(べうべう)たる 予(わ)が懐(おも)ひ
美人(よきひと)を 天の一方(いつはう)に望むと

客(かく)に 洞簫(どうせう)を吹く者 有り
歌に倚(よ)りて 之(これ)に和す
其(そ)の声 嗚嗚然(おおぜん)として 怨(うら)むが如く 慕ふが如く
泣くが如く 訴(うつた)ふるが如し
余音 嫋嫋(よいんでうでう)として 絶えざること 縷(る)の如く
幽壑(いうがく)の潛蛟(せんかう)を 舞はしめ
孤舟(こしう)の嫠婦(りふ)を 泣かしむ

蘇子 愀然(せうぜん)として 襟(えり)を正し 
危坐(きざ)して 客(かく)に問ひて曰(いは)く
何為(なんす)れぞ其(そ)れ然(しか)るやと

客(かく)曰(いは)く
月 明らかに 星 稀(まれ)に 烏鵲(うじゃく) 南飛す 
此(こ)れ 曹孟德(さうもうとく)の詩に非ずや
西のかた 夏口(かこう)を望み 東のかた 武昌(ぶしゃう)を望めば
山川 (さんせん)相(あひ)繆(まと)ひて 鬱乎(うつこ)として蒼蒼(さうさう)たり
此(こ)れ 孟德(もうとく)の 周郞(しうらう)に困(くるし)められし者(ところ)に非ずや

方(まさ)に 其(そ)の荊州(けいしう)を 破り 江陵(かうりょう)を下(くだ)り
流れに順(したが)ひて 東するに 舳艫(ぢくろ)千里 
旌旗(せいき) 空を蔽(おほ)ひ
酒を釃(く)みて 江(かう)に臨(のぞ)み 槊(ほこ)を横たへて 詩を賦す
固(まこと)に一世の雄(ゆう)なり
而(しか)るに 今(いま) 安(いづ)くに在りや

況(いは)んや 吾(われ)と子(し)と 江渚(こうしょ)の上(ほとり)に漁樵(ぎょせう)して
魚蝦(ぎょか)を侶(とも)とし 麋鹿(びろく)を友とし
一葉(いちえふ)の扁舟(へんしう)に駕(が)し
匏樽(はうそん)を挙(あ)げて 以(もつ)て相(あひ)属(しょく)し
蜉蝣(ふいう)を天地に寄す
渺(べう)たる滄海(さうかい)の一粟(いちぞく)なり
吾が生の須臾(しゆゆ)たるを 哀しみ 長江(ちゃうかう)の窮(きは)まり無きを 羨(うらや)む
飛仙を挟(わきばさ)みて 以て遨遊(がういう)し
明月(めいげつ)を抱(いだ)きて 長(とこしへ)に終(を)えんことを
驟(には)かには得(う)べからざるを 知れば 遺響(ゐきゃう)を悲風に託(たく)せりと

蘇子(そし)曰(いは)く
客(かく)も亦 夫(か)の水と月とを 知るか
逝(ゆ)く者は 斯(か)くの如くなれども 未だ嘗(かつ)て往(ゆ)かざるなり
盈虚(えいきょ)する者は彼(か)の如くなれども 
卒(つひ)に 消長(せうちゃう)する莫(な)きなり
蓋(けだ)し 其の変ずる者より將(も)って 之(これ)を観(くわん)ずれば
則(すなは)ち 天地も曾(かつ)て 以て一瞬なること能(あた)はず
其(そ)の変ぜざる者より 之(これ)を観(くわん)ずれば
則(すなは)ち 物と我と 皆尽(みなつ)くる無きなり
而(しか)るを又 何をか羨(うらや)まんや

且(かつ)夫(そ)れ 天地の間 物 各主(おのおのしゅ) 有り
苟(いやしく)も 吾(われ)の有する所に 非(あら)ずんば
一毫(いちがう)と雖(いへど)も 取ること莫(な)し
惟(ただ)江上(かうじゃう)の清風と 山間(さんかん)の明月(めいげつ)とは
耳 之(これ)を得て 声を為(な)し 目 之(これ)に遇(あ)ひて 色を成す
之(これ)を取れども 禁ずる無く 之(これ)を用(もち)ゐれども 竭(つ)きず
是(こ)れ 造物者(ざうぶつしゃ)の無尽蔵(むじんざう)なり
而(しか)して 吾(われ)と子(し)との 共に適する所なりと

客 喜びて笑ひ 盞(さかづき)を洗ひて 更に酌(く)む
肴核(かうかく)既(すで)に尽(つ)きて 杯盤狼藉(はいばんらうぜき)たり
相(あひ)与(とも)に 舟中(しうちう)に枕藉(ちんしゃ)して 
東方の既(すで)に白(しら)むを 知らず


【口語訳】

神宗の元豊五年の秋、私(蘇軾)は客と共に舟を出して赤壁のあたりに出かけた。
爽やかな風はしずかに吹きわたり川面には波もおこらない。
酒を汲んで客にすすめ、詩経の明月の詩を吟じ、窈窕(ようちょう)の章を歌った。

しばらくして、月は東の山の上に出て、斗牛(とぎゅう 南斗六星)のあたりに彷徨(ほうこう)している。
白露は江(かわ)の面(おも)全体にただよい、月の光に輝く水面と、月明かりの空とが溶け合っている。
葦(あし)の小舟の流れゆくにまかせて、果てしなくひろがる水面を渡ってゆく。
広々として虚空(こくう)に浮かび風にのって、どこまで行くかわからぬような心地がする。
ふわふわとして世俗を忘れ去り、ただ一人立ち、羽が生えて仙界へと上っていくような気分である。

かくして酒を飲んですっかり楽しくなり、ふなばたを叩いて拍子をとりながら歌った。その歌は、
桂(もくせい)の棹(さお)に蘭(もくれん)の櫂(かい)
うす明かりにつつまれて 月の光のふりそそぐ水面をさかのぼる
はてなく遠くひろがりゆく我がおもい 美しい人を空のかなたにのぞみみる

すると客の中に洞簫(どうしょう)を吹く人がいて、この歌にあわせて吹奏した。
その音色は嗚嗚(おんおん)とひびいて、怨むようでもあり、慕うようでもあり、泣くようでもあり、訴えるようでもあった。
その余音はゆるやかにたゆたい、細い糸すじのようにつづいていつまでも消えず、奥深い谷底に潜む蛟(みずち)を舞わせ、
一艘の小舟にいる寡婦を泣かせるかと思えた。

私は悲しさに心うたれ、身を繕い座り直して客にたずねた。「どうしてこんなに悲しい音色がでるのでしょう」と。

客は云う「月明らかに星稀(まれ)に、烏鵲(うじやく)南に飛ぶ」とは、これは魏の曹孟徳(曹操)の詩でありましょう。
ここから西のかた夏口(武漢)を望み、また東のかた武昌を望めば、山と川とが入り組んでおり、
樹はこんもりと茂って青々としています。
このあたりが、曹孟徳が呉の周郎(周瑜)に苦杯を嘗めさせられたところではないでしょうか。

いにしえのありし日、曹孟徳が荊州(湖北省襄樊市)に拠っていた劉表の子の劉琮(りゅうそう)を降(くだ)し、
江陵城を攻め落とし、長江の流れに従って東に向かった時には、船列は千里にも連なり、旗竿は空を覆いました。
そして曹孟徳は酒を注いで山川の神々を祭り、長江の水ぎわに出て、槊(ほこ)を横ざまに抱えたまま詩を詠みました。
まことに一代の英雄であります。しかるに、その人とて今はいずこにありましょうや。

まして私とあなたとは川辺で魚を獲ったり薪を切ったり、魚やえびを仲間とし、鹿を友としているわけですが、
それがいま一艘の小舟をこぎ出し、ひさごを片手に杯を酌み交わし、かげろうのようなはかない命を、この天地の間に宿しているのです。
果てしなくひろがる大海に浮かんだ一粒の粟のような存在に過ぎないではありませんか。

我らの人生が余りにもつかの間のものであることが悲しく、長江の流れの尽きることがないのが羨ましく思えます。
空を飛翔する仙人と相携えて豪遊し、明月を抱いて天上で永久に生き長らえることも、たやすくできるはずはないことは分かっているので、
この想いを込めた情感をもの悲しげな秋風に託したのです」と。


私は云う「あなたもご存知でしょう、あの流れ去る川の水、そして満ち欠けする月の実相を。

去りゆくものは、川の水のようにたえず流れ去って行きますが、往ってしまってそれきりということでは決してありません。
いま眼の前に変わることなく流れがあるではありませんか。

変化するものは、あの月のように満ちたり欠けたりしますが、それでいて月の本体は、消滅することも成長することもありません。
つまり、変化するという立場から見る時には、天地のすべてが一瞬といえども不変ではありません。

しかし、変化しないという立場から見る時には、万物もわれわれも、ともに尽き果ててなくなることはないのです。
とすれば何を羨むことがありましょう。

それにまた、天地間の万物にはそれぞれ所有者があります。
かりにも自分の所有する物でなければ、毛筋(けすじ)一本といえども取り込むことはなりません。

ただ江(かわ)の面(おも)を渡る清風と山間に照る名月とは、耳に聞けば妙なる音楽となり、目に見れば美しい風景となり、
いくら取っても咎める者はなく、いくら使っても尽きることはない。

これこそ造物者が与えてくれている無尽蔵の宝庫なのです。
しかもそれは、わたしとあなたと二人の心にかなうものなのです」と。


客はよろこんで笑い、杯を洗って改めて酒を汲み交わした。酒の肴もなくなってしまい、杯や皿も散らかったままである。
東の空がもう明け初めているのも気づかずに、私と客は互いに舟の中でもたれあい、心地よく微睡(まどろ)んでしまった。


壬戌之秋,七月既望】 rén xū zhī qiū,qī yuè jì wàng  神宗(中国北宋の第六代皇帝、在位1067~1085)の元豊五年(1082)秋七月十六日
赤壁】 chì bì  地名。湖北省黄岡県

1082年、蘇軾47歳の作。1079年、作者は、詩で皇帝を誹謗した嫌疑で逮捕された。
その三年後、流罪の地、黄州(湖北省)にあって作った前後二篇の賦。

客人との舟遊びの中で、赤壁で激戦を繰り広げた魏の曹操や呉の周瑜の盛衰を偲びつつ、
自らの儚い身の上を嘆き、大自然の前では人間は儚いものであることを語る。

明月之诗】 míng yuè zhī shī  詩経の陳風(ちんぷう)篇の一篇
窈窕之章】 yǎo tiǎo zhī zhāng  詩経の周南(しゅうなん)篇の一篇
斗牛】 dòu niú  斗宿(としゅう 南斗六星)と牛宿(ぎうしゅう 牽牛星)
万顷】 wàn qǐng  広大無辺の
洞萧】 dòng xiāo  尺八に似た管楽器
幽壑之潜蛟】 yōu hè zhī qián jiāo  深山に潜むみずち(竜の一種)
孤舟之嫠妇】 gū zhōu zhī lí fù  白居易の「琵琶行」に登場する舟上の寡婦
匏樽】 páo zūn  ひさご(酒の容器)
蜉蝣】 fú yóu  かげろう
遗响】 yí xiǎng  余韻
盈虚者】 yíng xū zhě  満ち欠けする月
枕藉】 zhěn jiè  枕を下に敷く



蘇軾 sū shì   (そしょく)   (1036~1101年)
北宋の詩人、詞人。字は子瞻(しせん)四川眉州(びしゅう)の人。
1057年、科挙に及第。英宗に仕えたが、王安石の新法に反対したため地方官に転出。
その後も直言をはばからぬ性格もあって、しばしば左遷され生涯の多くを地方長官で過して終った。
唐宋八大家のひとり。雄大な詩文にすぐれ、なかでも「赤壁賦」は古来有名。また書画にもすぐれていた。
著作に詩集「東坡(とうば)全集」(百十巻)。




(范仲淹)

(江上漁者) (岳陽楼記)


江上渔者 jiāng shàng yú zhě   (宋) 范仲淹    

江上往来人  jiāng shàng wǎng lái rén
但爱鲈鱼美  dàn ài lú yú měi
君看一叶舟  jūn kàn yí yè zhōu
出没风波里 

chū mò fēng bō lǐ



【注 釈】

江上(かうじゃう)の漁者(れふし)

江上(かうじゃう)往来 (わうらい) の人
但(た)だ鱸魚(ろぎょ)の美なるを愛す
君 看 (み)よ 一葉舟(いちえふしう) の 
風波 (ふうは)の裏(うち)に出没せるを


【口語訳】

呉の江を 船で行き交う人々は
ただ鱸魚(ろぎょ)の美味しさを珍重するばかり
見よ 風にさかまく波間に見え隠れする あの小さな舟を
彼ら漁師は その魚を獲るために 日夜苦労を重ねているのだ


【江上渔者】 jiāng shàng yú zhě    川の上で漁をする者
【鲈鱼】 lúyú     魚の名。スズキ
【出没风波里】  chū mò fēng bō lǐ    風波にもまれて波間に見え隠れする

本作は、漁民の労苦を詠った詩。北宋の政治家でもあった范仲淹の詩は、素朴な庶民の生活の苦労を
詠ったものが多く、彼らに対する暖かさと思いやりに満ちている。




岳阳楼记 yuè yáng lóu jì   (宋)  范仲淹 fàn zhòng yān    

庆历四年春,滕子京谪守巴陵郡。 qìng lì sì nián chūn,téng zǐ jīng zhé shǒu bā líng jùn

越明年,政通人和,百废具兴,乃重修岳阳楼,增其旧制,刻唐贤今人诗赋于其上,属予作文以记之。
yuè míng nián,zhèng tōng rén hé,bǎi fèi jù xìng,nǎi chóng xiū yuè yáng lóu,zēng qí jiù zhì,
kè táng xián jīn rén shī fù yú qí shàng,zhǔ yǔ zuò wén yǐ jì zhī

予观夫巴陵胜状,在洞庭一湖。 yǔ guān fū bā líng shèng zhuàng,zài dòng tíng yī hú

衔远山,吞长江,浩浩汤汤,横无际涯,朝晖夕阴,气象万千,此则岳阳楼之大观也,前人之述备矣。
xián yuǎn shān,tūn cháng jiāng,hào hào shāng shāng,héng wú jì yá,zhāo huī xī yīn,qì xiàng wàn qiān,
cǐ zé yuè yáng lóu zhī dà guān yě,qián rén zhī shù bèi yǐ

然则北通巫峡,南极潇湘,迁客骚人,多会于此,览物之情,得无异乎?
rán zé běi tōng wū xiá,nán jí xiāo xiāng,qiān kè sāo rén,duō huì yú cǐ,lǎn wù zhī qíng,dé wú yì hū?

若夫淫雨霏霏,连月不开,阴风怒号,浊浪排空,日星隐曜,
山岳潜形,商旅不行,樯倾楫摧,薄暮冥冥,虎啸猿啼。
ruò fú yín yǔ fēi fēi,lián yuè bù kāi,yīn fēng nù háo,zhuó làng pái kōng,rì xīng yǐn yào,
shān yuè qián xíng,shāng lǚ bù xíng,qiáng qīng jí cuī,bó mù míng míng,hǔ xiào yuán tí  

登斯楼也,则有去国怀乡,忧谗畏讥,满目萧然,感极而悲者矣
dēng sī lóu yě,zé yǒu qù guó huái xiāng,yōu chán wèi jī,mǎn mù xiāo rán,gǎn jí ér bēi zhě yǐ

至若春和景明,波澜不惊,上下天光,一碧万顷,沙鸥翔集,锦鳞游泳,岸芷汀兰,郁郁青青
zhì ruò chūn hé jǐng míng,bō lán bù jīng,shàng xià tiān guāng,yí bì wàn qǐng,shā ōu xiáng jí,
jǐn lín yóu yǒng,àn zhǐ tīng lán,yù yù qīng qīng

而或长烟一空,皓月千里,浮光跃金,静影沉璧,渔歌互答,此乐何极!
ér huò cháng yān yì kōng,hào yuè qiān lǐ,fú guāng yuè jīn,jìng yǐng chén bì,yú gē hù dá,cǐ lè hé jí!

登斯楼也,则有心旷神怡,宠辱偕忘,把酒临风,其喜洋洋者矣
dēng sī lóu yě,zé yǒu xīn kuàng shén yí,chǒng rǔ jiē wàng,bǎ jiǔ lín fēng,qí xǐ yáng yáng zhě yǐ

嗟夫!jiè fū!予尝求古仁人之心,或异二者之为,何哉?
yǔ cháng qiú gǔ rén rén zhī xīn,huò yì èr zhě zhī wèi,hé zāi?

不以物喜,不以己悲,居庙堂之高则忧其民,处江湖之远则忧其君
bù yǐ wù xǐ,bù yǐ jǐ bēi,jū miào táng zhī gāo zé yōu qí mín,chǔ jiāng hú zhī yuǎn zé yōu qí jūn
是进亦忧,退亦忧。shì jìn yì yōu,tuì yì yōu。

然则何时而乐耶? rán zé hé shí ér lè yē?
其必曰“先天下之忧而忧,后天下之乐而乐”乎!
qí bì yuē “xiān tiān xià zhī yōu ér yōu,hòu tiān xià zhī lè ér lè” hū!

噫!yī!微斯人,吾谁与归? wēi sī rén,wú shéi yǔ guī?
时六年九月十五日。shí liù nián jiǔ yuè shí wǔ rì


【注 釈】

岳陽楼の記 (がくやうろうのき)     范仲淹 (はんちゅうえん)

慶暦(けいれき)(1044年)四年春、滕子京(とうしけい)、謫(たく)せられて、巴陵郡(はりょうぐん)に守(しゅ)たり。

越えて明年(みゃうねん)、政通(まつりごとつう)じ人和(ひとわ)し、百廃倶(ひゃくはいとも)に興(おこ)る。

乃(すなは)ち重ねて岳陽楼(がくやうろう)を修(をさ)め、其の旧制(きうせい)を増(ま)し、
唐賢今人(とうけんきんじん)の詩賦(しふ)をその上に刻まんとす。
予(よ)に嘱(しょく)し、文を作り、以(もっ)て之(これ)を記せしむ。

予(よ)、夫(か)の巴陵(はりょう)の勝状(しょうじゃう)を観るに、洞庭の一湖(いっこ)に在り。

遠山を銜(ふく)み、長江(ちゃうかう)を呑(の)み、浩浩湯湯(かうかうたうたう)として、横に際涯(さいがい)なし。
朝暉夕陰(てうきせきいん)、気象(きしゃう)は万千(ばんせん)たり。
此れ則(すなは)ち岳陽楼の大観(たいくわん)なり。前人(ぜんじん)の述(じゅつ)、備(そな)われり。

然(しか)れば則(すなは)ち北は巫峽(ふけふ)に通じ、南は瀟湘(せうしゃう)を極(きわ)む。
遷客騒人(せんかくそうじん)、多く此に会(あつ)まる。
物を覧(み)るの情(じゃう)、異(こと)なる無きを得(え)んや。

若(も)し夫(そ)れ霪雨霏霏(いんうひひ)として、連月(れんげつ)開(ひら)かず、陰風怒号(いんぷうどがう)し、
濁浪(だくらう)空(そら)を排(はい)し、日星(にっせい)曜(ひか)りを隠(かく)し、山岳(さんがく)形を潜(ひそ)め、
商旅(しゃうりょ)行(ゆ)かず。
檣(ほぼしら)傾(かたむ)き梶(かじ)は摧(くだ)け、薄暮冥冥(はくぼめいめい)として、
虎(とら)嘯(うそぶ)き猿啼(な)く。

この楼に登(のぼ)れば、則(すなは)ち国を去って郷(きゃう)を懐(おも)ひ、讒(ざん)を憂(うれ)ひ、譏(そし)りを畏(おそ)れ、
満目蕭然(まんもくせうぜん)として、感(かん)極(きわ)まりて悲しむ者あらん。

至りて春(はる)和(わ)し景(けい)明(あき)らかに、波瀾(はらん)驚かず。
上下天光(じゃうかてんくわう)、一碧萬頃(いっぺきばんけい)、沙鴎(さおう)翔集(しゃうしふ)し、
錦鱗(きんりん)游泳(いうえい)し、岸芹汀蘭(がんしていらん)、郁郁青青(いくいくせいせい)とす。

或(あるい)は長煙一空(ちゃうえんいっくう)、皓月千裡(かうげつせんり)、浮光(ふくわう)金(きん)を躍(をど)らし、
静影(せいえい)璧(へき)を沈め、漁歌(ぎょか)互ひに答(こた)うるが若(ごと)きに至りて、この楽しみ何ぞ極(きわま)らん。

斯(こ)の楼(ろう)に登れば、則(すなは)ち心曠(むな)くして神(しん)怡(よろこ)び、寵辱(ちょうじょく)皆(みな)忘れ、
酒を把(と)って風に臨(のぞ)み、其の喜び洋洋(やうやう)たる者有(あ)らん。

嗟(ああ)、予(よ)、嘗(かつ)て古(いにしえ)の仁人(じんじん)の心を求むるに、
或(あるい)は二者(にしゃ)の為(しわざ)に異なるは何ぞや。

物を以(もっ)て喜ばず、己(おのれ)を以(もっ)て悲しまず。
廟堂(べうだう)の高きに居りては、則(すなは)ちその民(たみ)を憂(うれ)ひ、
江湖(こうこ)の遠きに処(を)りては則(すなは)ちその君(きみ)を憂(うれ)ふ。
これ進むも亦(また)憂ひ、退(しりぞ)くも亦た憂うるなり。

然(しか)らば則(すなは)ち何(いず)れの時にして楽(たの)しまんや。
それ必ず「天下の憂ひに先んじて憂ひ、天下の楽しみに後れて楽しむ」と曰(い)はんか。

噫(ああ)、斯(こ)の人(ひと)微(な)かりせば、吾(われ)誰(たれ)にか帰(き)せんや。
時に慶暦六年九月十五日なり。


【口語訳】

慶暦四年の春、滕子京(とうしけい)は左遷せられて、巴陵郡(はりょうぐん 湖南省岳陽)の太守となった。

其の翌年に及びし頃は、政治も行届き、人心も安んじ、是れまで投げ遣りになってあった所の事も一斉に興った。

よってこのほど岳陽楼の造りを、さらに増し加へて修繕することとなり、この折に楼上に唐の賢者や当代詩人の詩や賦を雕刻し、
ついてはその顛末を後世に伝へんと、予(よ)に託して之を書面に残さんとす。

予(よ)は那(あ)の巴陵郡の立派な景色を観るに、其れは全く洞庭と云ふ一つの湖水に在り。

此の湖水は遠き山々を銜(くは)へ込み、長江を呑み入れ、浩浩(かうかう)と溢れんばかりに、湯湯(たうたう)と
勢ひよく流れ、飽くまで広がって、何処が限界やら、何処が岸辺やら分らぬほどである。

此の山水が朝日の光りに映し、夕方の陰(くも)った空合に影の薄らぐ所など、其の模様は千差万別であるが、
此れこそ岳陽楼の大見立てである。

但し、此の景色に就いては、先人たちが言ひ尽くして居るゆえ、其の上彼れ此れ言ふには及ばない。

さうすると洞庭は、北は巫狭(ふけふ)に通じ、南は瀟湘(せうしゃう)までにも逹する間に居る、左遷せられた人やら、
詩人やらが多く此処に会することであるが、眺めた人々の気持ちは、それぞれの境遇に応じて様々であったに違いない。

那(あ)の長雨が霏霏(ひひ)と、目にも見えぬやうに細く降り続き、幾日もはっきりせず、腥(なまぐさ)き風が吹き叫び、
濁った浪が荒立って、空をも推し開く勢ひにて高まり、日や星の光も隠れ、山岳の形も潜んで、何処に在るか目当てなく、
商人、旅客の姿も見えない。

此のやうな天気に湖水を渡る舟は、帆柱も傾き、揖(かじ)も摧(くだ)けて危険に遇ひ、殊に夕方(ゆふがた)など、
冥冥(めいめい)と薄暗く、虎の嘯(うそぶ)く声、猿の啼(な)く声が聞えてくる。

其のやうなとき此の岳陽楼に登れば、国を立出でたる身の、郷里がなつかしく、同僚の讒言(ざんげん)を憂へたり、
世間の譏(そし)りを畏れたりして、蕭然(せうぜん)として 物淋しくなり、感慨の情が極度に逹して悲む人もあらう。

春がのどかに、景色が晴れ渡って明らかに、湖面も至極穏やかにて、一向波起たず、上には上で自然の空の色があり、
下には下で水に映れる空の色があり、何処までも碧(みどり)一色にして、其の万頃(ばんけい)広きこと限りなし。

其の間には鷗が翔(かけ)り集まり、錦のやうに綺麗な鱗ある魚が、那処(そこ)這処(ここ)に泳ぎ廻り、岸に生えし芹(せり)や、
汀(みぎは)に茂れる蘭、郁郁(いくいく)と芳(かぐは)しく、其の色も青々として居る。

そして時には、煙霧が空から消え失せ、皓皓(かうかう)と白く冴えたる月が千里に輝き亙(わた)ると、動ける波の面に浮べる光は、
きらきらと金を躍(をど)らすかと疑はれ、穏やかなる波の底に徹(とほ)る静かな影は、璧(たま)を沈めたかと疑はる。

此の風情ある夜に、漁夫の歌は、向うが此の方へ響き、此の方が向うへ響き、調子を合はすやうな景色に至っては、
其の楽しみ何として極まりあらうや。

此の際、此の岳陽楼に登るときは、心は広々となり、魂(たまし)ひは嬉しく、栄誉も不名誉も共に打忘れ、
酒杯を挙げて風に向かい、其の喜びの、洋洋(やうやう)として溢るるばかりの者もあらう。

扨(さて)も、予は嘗(かつ)て昔の仁人の心を尋ね見たるに、彼らの所為(ふるまひ)は、岳陽楼を覧(み)て悲む人と、
或は覧(み)て楽しむ人とは異って居るが、是れはどう云ふものであろうか。

仁人は、喜ぶべき事なるが為に喜ぶことをせず、悲むべき境遇なるが為に悲むことはない。

廟堂の高き位に処(を)るときは人民の事を憂へ、江湖の、都より離れたる所に処(を)れば君主の事を憂ふ。
是れ進んで仕えるときも憂へ、退いて野に居ても亦憂ふと云ふものなり。

さすれば、彼らは、どう云ふ時に於て始めて楽しむときが持てるのか。
すなはち、必ず天下の人の憂へに先きだって憂へ、天下の人の楽しみに後れて楽しむと言ふのであらう。

扨(さて)も左様(さやう)の人がなかりせば、自分は何人に従ふべきであらうか。
是れこそ、予の従ひたいと思ふ人格である。

慶暦六年九月十五日



【岳阳楼记】 yuè yáng lóu jì    岳陽楼記(がくようろうき)

岳陽楼は、後漢末、赤壁の戦い(208年)の後、呉の魯粛が水軍を訓練する際の閲兵台として築いたもの。
黄鶴楼(湖北省武昌)、滕王閣(とうおうかく 江西省南昌)と共に、中国江南の三大名楼のひとつとされる。

岳陽楼記は、北宋の1044年(慶暦四年)中央から岳州(湖南)太守へ左遷された滕宗諒(とうそうりょう)が、
岳陽楼を修復した際に、同年の進士だった范仲淹に作らせた散文の名篇。

本作は、いわゆる「先憂後楽」の、為政者として心がけるべき精神を述べた文章として知られている。


【庆历四年】 qìng lì sì nián  宋の第四代仁宗の年号。
【滕子京】 téng zǐ jīng 滕(とう)は姓、子京(しけい)は字、名は宗諒(そうりょう)、河南の人。
【百废具兴】 bǎi fèi jù xìng  各種の荒廃した事業がみな興った。(各种荒废的事业都兴办起来了)
【乃】 nǎi  そこで(于是)

【旧制】 jiù zhì 従来の規模。(以往的规模)
【唐贤今人】 táng xián jīn rén  唐の賢人や当代の名のある詩人。
【夫】 fū  その(那)
【前人之述备矣】 qián rén zhī shù bèi yǐ  古人の詩文に述べられている。

【迁客骚人】 qiān kè sāo rén 流された人(谪迁的)や詩人(诗人)。
【览物之情,得无异乎】 lǎn wù zhī qíng,dé wú yì hū  自然の風景を見たときの感情は、
どうして異なっていないといえようか。(看到自然景物而引发的情感,怎能不有所不同呢)

【若夫】 ruò fú  このような(像那)
【淫雨霏霏】 yín yǔ fēi fēi 長雨が細く、しとしとと降るさま。

【忧谗畏讥】 yōu chán wèi jī  批判されるのが怖い。(怕人家批评指责)
【至若春和景明】 zhì ruò chūn hé jǐng míng  春になると気候が暖かく、日が照る。(至于到了春天气候暖和,阳光普照)

【一碧万顷】 yí bì wàn qǐng  緑が一面に広がっている。(一片碧绿,广阔无边)
【或】 huò  時に及んで(有时)
【长烟一空】 cháng yān yì kōng  煙霧が空から消え失せる。(大片烟雾完全消散)
【静影沉璧】 jìng yǐng chén bì  月影が水中に入りまるで玉が沈むようだ。(明月映入水中,好似沉下一块玉璧)

【宠辱偕忘】 chǒng rǔ jiē wàng  栄光も屈辱も皆忘れてしまった。(荣耀和屈辱一并都忘了)
【或异二者之为】 huò yì èr zhě zhī wèi  (人々の悲しみや喜び)などという感情とは異なっているようである。
(或许不同于以上两种心情)

【不以物喜,不以己悲】 bù yǐ wù xǐ,bù yǐ jǐ bēi  物事の善し悪しや自分の損得で一喜一憂しない。
(不因为外物好坏和自己得失而或喜或悲)

【先天下之忧而忧,后天下之乐而乐】 xiān tiān xià zhī yōu ér yōu,hòu tiān xià zhī lè ér lè  先憂後楽。
天下の憂いに先立って憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ。

【微斯人,吾谁与归】 wēi sī rén,wú shéi yǔ guī  そのような人がいなければ、自分は誰に従ふべきであろうか。
(如果没有这种人,那我同谁一道呢)



范仲淹  fàn zhòng yān  (はんちゅうえん)    (989~1052年)
北宋の政治家、詩人。字は希文(きぶん)諡(おくりな)は文正公(ぶんせいこう)蘇州呉県の人。
1015年、科挙に及第。仁宗に仕えたが、政治を批判したため地方官に転出。
辺境を守って西夏の侵入を防ぎ、その功により副宰相となった。

六経・易に通じ、その生涯は、常に天下を論じ一身を顧みなかったという。
名文家としても知られ、なかでも「岳陽楼記」は古来有名。
著作に詩文集「范文正公(はんぶんせいこう)集」(二十四巻)