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    漢詩百選

【宋詩二】  
范成大 陸游 楊万里 朱熹 葉紹翁 詹義 曾幾  文天祥 元好問 


(范成大)

(後催租行)  (晩春田園雑興三)    (晩春田園雑興十)


后催租行 hòu cuī zū xíng   (宋) 范成大    
          

老父田荒秋雨里 旧时高岸今江水 lǎo fù tián huāng qiū yǔ lǐ jiù shí gāo àn jīn jiāng shuǐ
佣耕犹自抱长饥 的知无力输租米 yōng gēng yóu zì bào cháng jī dí zhī wú lì shū zū mǐ
自从乡官新上来 黄纸放尽白纸催 zì cóng xiāng guān xīn shàng lái huáng zhǐ fàng jìn bái zhǐ cuī
卖衣得钱都纳却 病骨虽寒聊免缚 mài yī dé qián dōu nà què bìng gǔ suī hán liáo miǎn fù
去年衣尽到家口 大女临岐两分首 qù nián yī jìn dào jiā kǒu dà nǚ lín qí liǎng fēn shǒu
今年次女已行媒 亦复驱将换升斗 jīn nián cì nǚ yǐ xíng méi yì fù qū jiāng huàn shēng dòu
室中更有第三女 明年不怕催租苦 shì zhōng gèng yǒu dì sān nǚ míng nián bú pà cuī zū kǔ




【注 釈】

年貢を責められる行(うた)
         
老父(らうほ)の田(はたけ)は  秋雨(しうう)の裏(うち)に荒れ
旧時(きゅうじ)の高岸(かうがん) 今は江水(かうすい)
傭(やと)われて耕すも 猶(なほ)長飢(ちょうき)を抱き
的(まこと)に知る 租米(そべい)を輸(いた)す力無きを
郷官(きゃうくわん) 新たに上り来たりしより
黄紙(くわうし)放ち尽くして 白紙(はくし)催(うなが)す
衣(ころも)を売り銭(ぜに)を得て 都(すべ)て納却(のうきゃく)し
病骨(びょうこつ)寒しと雖(いえど)も 聊(いささ)か縛(ばく)を免(まぬか)る
去年  衣(ころも)尽きて 家口(かこう)に到り
大女(たいじょ)岐(き)に臨んで 両(ふた)つに分首(ぶんしゅ)す
今年(こんねん)次女(じぢょ)已(すで)に媒(ばい)を行(おこな)ひしも
亦(また)復(また)駆り将(も)て 升斗(しょうと)に換(か)う
室中(しつちう)更に第三女有り
明年(みょうねん)租(そ)を催(うなが)さるる 苦しみを怕(おそ)れず


【口語訳】 「訳詩: 倉石武四郎(歴代詩選)」

荒れた畑に 雨ふりつづき 高い岸まで 川になってしもた
小作のじいさん いつも腹ぺこ 年貢おさめる どころぢゃないわ

今度の役人が やってきてから 黄紙をやぶりすて 白紙のさいそく
着物うっぱらって 年貢をおさめた 寒いにゃ寒いが 縄めよりましだ

去年はいよいよ 家族を売って 上のむすめと 別れのなみだ
今年は次の むすめを売って 幾らかの米と かえてしもた

縁談は あるにはあったが 背に腹かえられぬ
でもまだ三番目の むすめがいるから 来年の分は 心配がないさ


【后催租行】 hòu cuī zū xíng     年貢を責められる行(うた)

本作は、年貢を催促される小作人の悲哀を詠う。
黄紙は、天子の詔書のことで、罹災地の租税を免除するという内容であった。

一方、白紙は、当地の役人が発行する租税催促の文書である。
黄紙が破り捨てられるというのは、租税免除は名目だけということである。

【今江水】 jīn jiāng shuǐ     (岸の上にあった畑は)長雨で川になってしまった
【乡官】 xiāng guān     税を取り立てる役人
【黄纸放尽】 huáng zhǐ fàng jìn     黄紙(免税の詔書)を反故にして

【白纸催】 bái zhǐ cuī     白紙(納税の催促書)を突きつける
【临岐两分首】 lín qí liǎng fēn shǒu     村の岐れ路で長女に別れをつげる
【已行媒】 yǐ xíng méi     次女は婚約もしていたのだが  
【驱将换升斗】 qū jiāng huàn shēng dòu     次女を売って幾らかの米にかえた




晚春田园杂兴 (其三)   (宋) 范成大    

胡蝶双双入菜花 hú dié shuāng shuāng rù cài huā
日长无客到田家 rì cháng wú kè dào tián jiā
鸡飞过篱犬吠窦 jī fēi guò lí quǎn fèi dòu
知有行商来卖茶 zhī yǒu xíng shāng lái mài chá




【注 釈】

晩春の農村の趣

胡蝶(こてふ)双双(さうさう)菜花(さいくわ)に入り
日 長くして 客(かく)の田家(でんか)に到る無し
鷄(とり)は 籬(まがき)を飛び過ぎて 犬は 竇(とう)に吠(ほ)ゆ
知る 行商(ぎゃうしゃう)の来(きた)りて 茶を買(か)う有(あ)るを


【口語訳】

うちつれあそぶ 喋喋(てふてふ)の 菜の花かくれ とぶばかり
日ながき春の かたいなか   おとづるものなく のどかなり

たまたま鶏(とり)の おどろきて 垣(かき)とびこえつ 犬の子の
吠(ほ)ゆるをきけば おのづから 旅商人(たびあきんど)の 
茶をかひに 来たりしことの 知らるなり


【晚春四时田园杂兴】 wǎn chūn shí tián yuán zá xìng     晩春の農村の種々の趣
【窦】 dòu  穴(あな)門がしまっていても、犬がくぐり抜けできるようにうがった通り穴

【卖茶】 mài chá    農家で作った茶を買う
宋の時代、中国だけに産出する茶は、重要な貿易品でもあり、政府の専売となっていた。
そのため政府発行の鑑札(許可証)を持った商人だけが、茶の売買を許されていた

本作は、作者が官職を辞し、故郷の蘇州で隠居生活を送っていたとき、気の向くままに農村風景を詠ったもの。




晚春田园杂兴 (其十) (宋) 范成大    

雨后山家起较迟 yǔ hòu shān jiā qǐ jiào chí
天窗晓色半熹微 tiān chuāng xiǎo sè bàn xī wēi
老翁欹枕听莺啭 lǎo wēng qī zhěn tīng yīng zhuàn
童子开门放燕飞 tóng zǐ kāi mén fàng yàn fēi



【注 釈】

晩春の農村の趣

雨後(うご)の山家(さんか) 起くること較(や)や遅く
天窓(てんさう)の暁色(げうしき) 半ば熹微(きび)たり
老翁 枕を欹(そばだ)て 鶯の囀(さへづ)るを聴き
童子 門を開きて 燕を放ちて飛ばしむ


【口語訳】

雨あがり のどかに明けゆく 山里の 農家は今日も 朝寝して             
天窓の 日差しも淡く 起(た)つに懶(ものう)き 朝ぼらけ

老翁(ろうをう)は まだ夢うつつ 枕辺にきく 鳥のさへづり
童(わらべ)は 木戸を開け 梁(はり)に巣をくふ 燕を放つ


【晓色】 xiǎo sè    明け方の日の光
【熹微】 xī wēi    光の淡く弱いさま
【欹枕】 qī zhěn    枕に頭を載せている(横になっている状態)

本作は「四時(しいじ)田園雑興」と題された連作六十首のうち「晩春」の第十首。
晩春の朝、のどかでゆったりとした農家のようすが、生き生きと微笑ましく描かれ、
田園詩人としての作者の面目がよく表れている。



范成大 fàn chéng dà  (はんせいだい)  (1126~1193年)
南宋の詩人。字は致能(ちのう)江蘇呉県(ごけん)の人。南宋四大家の一人。
1154年、科挙に及第、地方官を振出しに副宰相に至り、晩年は郷里で田園生活に入った。

詩は、農村や農民を題材として田園の四季の風物を多くうたい
なかでも晩年の連作「田園雑興」(でんえんざっきょう)六十首が古来有名。
著作に詩集「石湖居士(せきここじ)詩集」(三十四巻)




(陸游)

(遊山西村) (漁翁) (阿姥)   (贈猫)   (秋晩閑歩)


游山西村 yóu shān xī cūn   (宋)  陆游    

莫笑农家腊酒浑 mò xiào nóng jiā là jiǔ hún
丰年留客足鸡豚 fēng nián liú kè zú jī tún
山重水复疑无路 shān chóng shuǐ fù yí wú lù
柳暗花明又一村 liǔ àn huā míng yòu yì cūn




【注 釈】

山西(さんせい)の村に遊ぶ
    
笑ふ莫(なか)れ 農家の 臘酒(らふしゅ)は 渾(にご)れると
豊年なれば 客(かく)を 留むるに 鶏豚(けいとん)足る
山重(さんちょう)水複(すいふく)疑ふらくは 路(みち)無きかと
柳暗(りうあん)花明(くわめい)又(また)一村(そん)


【口語訳】

暮れに造った田舎酒  濁酒(どぶろく)なんかとけなすじゃないよ
みのりの年の春ぢゃとて 客にもてなす鶏(とり)と豚
食べ放題の飲み次第 なんの不足があるものか
山また川の田舎路 まがればまたも村見えて
柳のみどりに花の紅(べに) さてものどかな里景色


【腊酒】là jiǔ     年末に作った酒

1167年、陸游43歳の作。いったん官職を辞し、故郷の紹興で悠々自適の生活を送っていたとき、
春たけなわの平和な農村風景を詠ったもの。




渔翁  yú wēng   (宋) 陆游    

江头渔家结茅庐  jiāng tóu yú jiā jié máo lú
青山当门画不如  qīng shān dāng mén huà bù rú
江烟淡淡雨疏疏  jiāng yān dàn dàn yǔ shū shū
老翁破浪行捕鱼  lǎo wēng pò làng xíng bǔ yú
恨渠生来不读书  hèn qú shēng lái bù dú shū
江山如此一句无  jiāng shān rú cǐ yí jù wú
我亦衰迟惭笔力  wǒ yì shuāi chí cán bǐ lì
共对江山三叹息  gòng duì jiāng shān sān tàn xī



【注 釈】

漁翁(ぎょをう)

江頭(かうとう)の漁家(ぎょか) 茆廬(ばうろ)を結ぶ
青山(せいざん)門(もん)に当たりて 画(ぐわ)も如(し)かず  
江煙(かうえん) 淡々(たんたん)として 雨 疏々(そそ)たり
老翁(らうをう) 浪(なみ)を破り 行(ゆ)きて 魚(うを)を捕(と)らふ
  
恨(うら)むらくは 渠(かれ)が 生来(せいらい) 書(しょ)を読まず
江山(かうざん) 此(かく)の如く 一句(いっく)無きを
我も亦(ま)た 衰遲(すいち) 筆力(ひつりょく)を慚(は)づ
共(とも)に 江山(かうざん)に対し 三(さん)嘆息(たんそく)す


【口語訳】

川のほとりの漁士(あま)が家(や)は 風情(ふぜい)ゆかしき草の屋根
彼方(かなた)にけむる青山(せいざん)は 絵(ゑ)だに及ばぬ たたずまひ

川面(かはも)にうすく霧たちて まばらに雨の降る中を 漁士(あま)の翁(おきな)の
波に濡(ひ)で 彼(か)ゆき此(かく)ゆき 魚(うを)を捕(と)る

彼(かれ)ただ文字(もじ)を知らざれば 胸の感懐(おもひ)を述(の)べがたし

われ亦(また)才(さえ)の乏(とぼ)しくて 身のつたなさを 恥(は)づるゆゑ
翁(おきな)とともに 手を拍(う)ちて あはれ あはれと 讃(たた)ふのみ


【茅庐】 máo lú  (草屋)茅葺きの粗末な家
【当门】 dāng mén  (面对着门)(青山が)家の前に面している
【江烟】 jiāng yān  (河面上的雾霭)川面にかかる靄(もや)

【行捕鱼】 xíng bǔ yú  (从事捕鱼)漁(りょう)に取り掛かる
【恨渠】 hèn qú  (怨自己)(文字が読めない)自分を怨む
【一句无】 yí jù wú  (说不出一句赞叹的话来)(目の前の見事な山河を)讃える言葉が一言も出てこない
【衰迟】 shuāi chí  (衰老)老衰している

詩の中に登場する漁翁は、長年秀麗な山水の中で生活しているのだが、
文字が読めないために、その美しい景色を言葉にできないでいる。

その漁翁を見つめている作者自身もまた、自分は筆力が鈍くなっているので、
江山の風景の味わいを形容できない、などと謙遜しているところが面白い。




阿姥   ā lǎo   (宋) 陆游    

城南倒社下湖忙 chéng nán dǎo shè xià hú máng
阿姥龙锺七十强 ā lǎo lóng zhōng qī shí qiáng
犹有尘埃嫁时镜 yóu yǒu chén āi jià shí jìng
东涂西抹不成妆 dōng tú xī mǒ bù chéng zhuāng



【注 釈】

阿姥(あぼ)

城南(じゃうなん)社(やしろ)を倒(さかしま)にして 下湖(かこ)忙(いそが)し
阿姥(あぼ)龍鍾(りゅうしょう)七十強(しちじうきゃう) 
猶(な)ほ塵埃(ぢんあい)せる 嫁(とつ)ぎし時の 鏡(かがみ)有(あ)り 
東塗(とうと)西抹(せいまつ)妝(しゃう)を成(な)さず


【口語訳】    「訳詩:井波律子(中国名詩集)」

城南では 村中総出で 下湖(かこ)の祭りに 大忙し
おばあさんは よぼよぼで もう七十を 超しているのに
まだ ほこりまみれの 嫁入りしたときの 鏡を持っており
ぺたぺた塗りたくって いるけれど てんから 化粧のていを 成してない


【阿姥】 ā lǎo  おばあさん

1197年、陸游73歳の作。年甲斐もなく厚化粧する老婆の様子をユーモラスに詠ったもの。

【倒社】 dǎo shè  村中総出で。「社」は、土地神を祀るほこら
【下湖】 xià hú  紹興の下湖祭り。(鏡湖に舟を浮かべ盛大に祭りを行う)
【龙锺】 lóng zhōng  よぼよぼだ
【东涂西抹】 dōng tú xī mǒ  手当たり次第に塗りたくる




赠猫  zèng māo  三首其三  (宋) 陆游    

执鼠无功元不劾 zhí shǔ wú gōng yuán bù hé
一箪鱼饭以时来 yī dān yú fàn yǐ shí lái
看君终日常安卧 kàn jūn zhōng rì cháng ān wò
何事纷纷去又回 hé shì fēn fēn qù yòu huí



【注 釈】

猫に贈る

鼠を執(と)るに功(こう)無きは 元(もと)より劾(がい)せず
一箪(いったん)の魚飯(ぎょはん)時(とき)を以(も)って来たる
君  終日(しゅうじつ)常に安臥(あんが)するを看(み)れば
何事ぞ 紛紛(ふんふん)として去り 又(ま)た回(かへ)る


【口語訳】  「訳詩: 横山悠太(横山悠太の自由帳)」

ねずみとれぬを せめはしないが
めしのじかんは きっちりまもる
ひがなねすごす きみをみてると
じぶんのことが ばからしくなる


【劾】 hé  (揭发过失)とがめる
【一箪】 yī dān   ひと碗の。「箪」は竹製の容器。飯びつとして用いた
【以时来】 yǐ shí lái   しかるべき時に来る

猫を飼うのは、鼠を捕らせるためだが、作者の猫は、どうやらぐうたらのようで、
食事のときだけは、きちんとあらわれる。

ぐうたらで役立たず、なのに憎めない。むしろ本性のままに自在に生きる生き方と、
あくせくと常に追いまくられている我が身と引き比べている。
そうした自省の念を含みつつも、この詩は猫に対するやさしい愛情にあふれている。




秋晚闲步邻曲以予近尝卧病皆欣然迎劳 (宋)陆游   
qiū wǎn xián bù lín qǔ yǐ yǔ jìn cháng wò bìng jiē xīn rán yíng láo

放翁病起出门行  fàng wēng bìng qǐ chū mén xíng
绩女窥篱牧竖迎  jì nǚ kuī lí mù shù yíng
酒似粥醲知社到  jiǔ sì zhōu nóng zhī shè dào
饼如盘大喜秋成  bǐng rú pán dà xǐ qiū chéng
归来早觉人情好  guī lái zǎo jué rén qíng hǎo
对此弥将世事轻  duì cǐ mí jiāng shì shì qīng
红树青山只如昨  hóng shù qīng shān zhǐ rú zuó
长安拜免几公卿  cháng ān bài miǎn jǐ gōng qīng



【注 釈】

秋の晩(く)れ 閑歩(かんほ)するに 隣曲(りんきょく)予(よ)の近ごろ 嘗(つね)に病(やまひ)に
臥(ふ)せるを以(も)って 皆(みな)欣然(きんぜん)として迎(むか)へ労(ねぎら)ふ

放翁(はうをう)病(やまひ)より起きて 門を出(い)で行(ゆ)けば
績女(せきぢょ)籬(まがき)に窺(うかが)ひ 牧豎(ぼくじゅ)迎ふ
酒は粥(かゆ)に似て醲(こ)く 社(やしろ)の到(いた)るを知り
餅(もち)は盤(さら)の如く大にして 秋の成(みの)りを喜ぶ

帰り来(き)たりて 早(つと)に人情(にんじゃう)の好(よ)きを覚(おぼ)ゆ
此(これ)に対して 弥(いよい)よ 将(も)って 世事を軽んず
紅樹(かうじゅ)青山(せいざん)只(た)だ 昨(さく)の如きも
長安(ちゃうあん)拝免(はいめん)す 幾公卿(いくこうけい)


【口語訳】

私が病床から起き 門を出て 散歩していると
糸紡ぎの娘は 垣根ごしに挨拶し 牧童は出迎えてくれる

さし出された酒が 粥のように濃いのは 秋祭りが近いせいか 
もてなしの餅が 大皿のように大きいのは 豊作のしるしか

ふるさとに 帰り来てこのかた 人情の厚いのに感激している
こうしてみると 出世のことなどは ますますどうでもよくなる

ふるさとの紅葉した樹々や みどりの山々は 昔と変わらぬが 
長安では何人の大臣が入れ替わったことやら


【邻曲】 lín qǔ    隣近所の人々
【绩女】 jì nǚ    糸をつむいでいる娘
【牧竖】 mù shù    牧童。豎は成人に達しない子供
【社】 shè    氏神祭の日

1193年、陸游69歳の作。すでに官界を去り、郷里の紹興で農耕に従事するという自適の生活を送っていた。
あるとき、しばらく病に伏したあと、具合がよくなって外へ出たところ、村人たちが暖かく出迎えてくれた。

もてなしてくれた酒も餅も、その秋の収穫物であり、豊作の象徴であった。
本作は、郷里の人たちの厚い人情の中で、心豊かに暮らす作者の喜びを詠ったもの。



陸游 lù yóu   (りくゆう)  (1125~1209年)
南宋の詩人。字は務観(むかん)浙江省紹興の人。
金(1115~1234年)に対する抗戦を唱え、当局者に嫌われて不遇の生涯を送る。

詩は慷慨の気に満ちた愛国詩人の面と、農村の日常を愛する田園詩人の面とに特色を見る。
范成大(はんせいだい)・楊万里(ようばんり)・尤袤(ゆうぼう)とともに南宋四大家と称される。
著作に紀行文「入蜀記」、詩集「渭南(いなん)文集」(五十巻)




(楊万里)

(夏夜追涼) (小池) (宿新市徐公店) (道旁店)




夏夜追凉    (宋)  杨万里    

夜热依然午热同 yè rè yī rán wǔ rè tóng
开门小立月明中 kāi mén xiǎo lì yuè míng zhōng
竹深树密虫鸣处 zhú shēn shù mì chóng míng chù
时有微凉不是风 shí yǒu wēi liáng bù shì fēng



【注 釈】

夏夜(かや)涼を追ふ

夜熱(やねつ)  依然として  午熱(ごねつ) に同じ
門を開(あ)け 小(しばらく) 立つ  月明(げつめい)の中(うち)
竹 深く 樹(き) 密(みつ)にして  虫 鳴く 処(ところ)
時に 微涼(びりゃう) 有るも  是れ 風ならず


【口語訳】

夜なれど 昼の熱さに たへかねて 
夕月の 影さす門にたたずめば
竹深く 樹茂れる下(もと)に 鳴きいづる
虫の音(ね)ありて 風なきに かすかに涼のただよへる


夜になってもやりきれない暑さだが、月明かりの下、ふと虫の鳴く声を聞き、
ほんのかすかな涼味を感じたという、夏の夜のひとコマを詠う。




小池 xiǎo chí   (宋)  杨万里   

泉眼无声惜细流 quán yǎn wú shēng xī xì liú
树阴照水爱晴柔 shù yīn zhào shuǐ ài qíng róu
小荷才露尖尖角 xiǎo hé cái lù jiān jiān jiǎo
早有蜻蜓立上头 zǎo yǒu qīng tíng lì shàng tóu




【注 釈】

泉眼(せんがん)声(こゑ)無く 細流(さいりう)を惜(を)しみ
樹蔭(じゅいん)水を照らして 晴柔(せいじう)を愛(め) づ
小荷(せうか)才(まさ)に露(あらは)す尖尖(せんせん)の角(つの)
早(つと)に蜻蛉(せいれい)有(あ)りて上頭(じゃうとう)に立つ


【口語訳】

沢清水(さはしみづ)水を惜(を)しみて 湧き出づる 水の流れは 静(しづ)かなり
夏木立(なつこだち)水面(みのも)に映(は)えて のどかなる 青天を愛(め)づ

蓮葉(はちすは)の 角芽(つのめ)ほころび 水面(みのも)より 顔を覗(のぞ)かせ
蜻蛉(せいれい)の 早や飛び来たり  尖(とが)る芽先(めさき)に 止(とど)まりつ


【泉眼】 quán yǎn  泉が湧き出る穴
【惜细流】 xī xì liú  水の流れを惜しむかのように流れる
【照水】 zhào shuǐ  (映在水里)水に映る
【晴柔】 qíng róu  (晴天里柔和的风光)晴れた日の和やかな風光
【尖尖角】 jiān jiān jiǎo  (みずみずしい蓮の芽の)先端がとがっている

のどかな初夏の田園風景を描いた詩。何気ない素朴な風景だが、
作者自らの心情に溶かし込んで、細やかに詠いあげている。




宿新市徐公店 sù xīn shì xú gōng diàn (宋) 杨万里  

篱落疏疏一径深 lí luò shū shū yí jìng shēn
树头新绿未成阴 shù tóu xīn lǜ wèi chéng yīn
儿童急走追黄蝶 ér tóng jí zǒu zhuī huáng dié
飞入菜花无处寻 fēi rù cài huā wú chù xún



【注 釈】

新市(しんし)の徐公(じょこう)の店に宿す

籬落(りらく)疎疎(そそ)として 一径(いっけい)深し
樹頭(じゅとう)の新緑 未(いま)だ陰(かげ)を成さず
児童(をのこ)急ぎ走り 黄蝶(くわうてふ)を追ふ
菜の花に飛び入りて 尋ぬる処(ところ)無し


【口語訳】    

新市郷(浙江省)の徐君の店に泊まる

まばらに並ぶ 竹垣に 沿ひて小径が 果てなく続く
木々の新緑 柔らかく いまだ木陰は 涼やかならず

ひとりのわらべ 黄の蝶を しゃにむに追うも 
菜の花畑に 飛び入りて 蝶や花とも 見えわかず


【篱落】 lí luò  籬(まがき)竹・柴などを粗く編んでつくった垣
【疏疏】 shū shū  まばらに並ぶ
【一径深】 yí jìng shēn  道の奥にずっと続いている
【未成阴】 wèi chéng yīn  (葉が茂っておらず)木陰を成していない
【无处寻】 wú chù xún  探しても見つからない

1192年春、南京から宣城(安徽省)への道中の作。うららかな春の農村風景を描いた詩。

子供が黄色い蝶を追い駆けたものの、それが一面の菜の花畑の中に飛び入り、
花の黄色にまぎれて見分けがつかず、途方にくれてしまったさまを詠う。

タイトルは「新市の徐君の店へ寄宿した」だが、詩の内容とほとんど関係がない。
こうした軽妙かつ人を食ったような詩は、作者の得意とするところだ。




道旁店 dào páng diàn (宋) 杨万里    

路旁野店两三家 lù páng yě diàn liǎng sān jiā
清晓无汤况有茶 qīng xiǎo wú tāng kuàng yǒu chá
道是渠侬不好事 dào shì qú nóng bù hǎo shì
青瓷瓶插紫薇花 qīng cí píng chā zǐ wēi huā



【注 釈】

道旁(みちばた)の店

路旁(ろばう)の野店(やてん)両三家(りゃうさんか)
清暁(せいげう)に湯(ゆ)無し 況(いは)んや茶(ちゃ)有るをや
是(こ)れ  渠儂(かれ)は好事(かうじ)ならずと 道(い)はば 
青瓷(せいじ)の瓶(へい)に挿す  紫薇(しび)の花


【口語訳】

道沿いに 鄙(ひな)びた茶店が 二三軒
夜が明けたのに お湯も沸かさず ましてや茶など 望めない

店の主人(あるじ)のもてなしが 行き届かぬと いうのなら
見てみるがいい 店先の 青瓷(せいじ)の瓶に さりげなく 
活けし一輪 さるすべり


【渠侬】 qú nóng    (他们)彼、彼ら
【不好事】 bù hǎo shì   (服务并不好)もてなしが行き届かない
【紫薇花】 zǐ wēi huā    さるすべり。別名を百日紅(ひゃくじつこう)といい、
旧暦の四月から九月まで花を絶やさぬことに由来する。

作者が朝早く、ひなびた茶店を訪れたところ、まだ湯も沸かさず、茶も用意されていない。
街道筋に僅か二三軒が点在するにすぎない田舎の店だから、客のもてなしが行き届かぬのは
やむを得ないと思ったが、ふと店先に置いてある青磁の花瓶に活けてある紫薇(さるすべり)
の花に気付き、今度は逆に、店の主人の趣味のよさを褒めることになったというもの。



楊万里  yáng wàn lǐ   (ようばんり)  (1124~1206年)
南宋の詩人。字は廷秀(ていしゅう)江西省吉水(きっすい)の人。
1154年、科挙に及第したが、金(1115~1234年)に対する抗戦を唱え、また剛直な性格と時政への直言のため、
中央ではあまり出世できず、地方官を転々とすることが多かった。

詩風は、俗語を多用した軽妙闊達な表現と意表をつく発想に特色がある。
陸游(りくゆう)・范成大(はんせいだい)・尤袤(ゆうぼう)とともに南宋四大家と称される。
著作に詩集「誠斎(せいさい)集」(百三十二巻)




(朱熹)


偶成  ǒu chéng (宋)朱熹    

少年易老学难成 shào nián yì lǎo xué nán chéng
一寸光阴不可轻 yí cùn guāng yīn bù kě qīng
未觉池塘春草梦 wèi jué chí táng chūn cǎo mèng
阶前梧叶已秋声 jiē qián wú yè yǐ qiū shēng




【注 釈】

偶成(ぐうせい) 

少年(せうねん)老(お)い易(やす)く学(がく)成(な)り難(がた)し
一寸(いっすん)の光陰(くわういん)軽(かろ)んず可(べ)からず
未(いま)だ覚(さ)めず 池塘(ちたう)春草(しゅんさう)の夢(ゆめ)
階前(かいぜん)の梧葉(ごえふ)已(すで)に秋声(しうせい)


【口語訳】

少年(せうねん)老(お)い易(やす)く 学(がく)成(な)り難(がた)し
一寸(いっすん)の光陰(くわういん)軽(かろ)んず可(べ)からず

池のほとりの春草(しゅんさう)の 萌(も)え出る夢も 覚(さ)めやらず
はや階(きざはし)の 淡(あは)く色めく桐(きり)の葉に 秋の気配(けはひ)を覚(おぼ)えけり


【偶成】 ǒu chéng    たまたまできた詩
【梧叶】 wú yè    青桐(アオギリ)の葉

「たまたまできた詩」というタイトルだが、作者の学問に対する真剣な態度が伺われる。



朱熹  zhū xī  (しゅき)(1130~1200年)
南宋の儒学者。字は元晦(げんかい)徽州(きしゅう 安徽省)の人。
19歳で科挙に合格したが、生涯のほとんどを地方の下級官僚ですごした。
その間思索を深め、宋代に始まった新しい儒学(宋学)を首尾一貫した体系にまとめ朱子学として完成させた。

その理論と思想は後代の中国のみならず、朝鮮・日本の思想にも影響を与えた。
日本では、鎌倉時代に伝わり、後醍醐天皇の倒幕思想に影響を与え、建武の新政の理念とされた。
また、江戸時代の幕末においては尊王攘夷論と結びつき、桜田門外の変を引き起こすなど、多大な影響を与えた。
著作に、朱子学の手引書「近思録」、論語など四書の注釈書「四書集注しっちゅう」などがある。




(葉紹翁)


游园不值 yóu yuán bù zhí (宋) 叶绍翁    

应怜屐齿印苍苔 yìng lián jī chǐ yìn cāng tái
小扣柴扉久不开 xiǎo kòu chái fēi jiǔ bù kāi
春色满园关不住 chūn sè mǎn yuán guān bú zhù
一枝红杏出墙来 yì zhī hóng xìng chū qiáng lái



【注 釈】

園(ゑん)に遊びて値(あ)わず

応(まさ)に憐れむべし 屐歯(げきし)の蒼苔(さうたい)に印するを
小(すこ)しく柴扉(さいひ)を扣(たた)くも 久しく開かず
春色(しゅんしょく) 園(ゑん)に満ち 関(とざ)し住(とど)めず
一枝(ひとえだ)の紅杏(こうきゃう) 牆(しゃう)を出で来たる


【口語訳】  訳詩:松枝茂夫(中国名詩選)

友人の庭園を訪れたが 出会えなかった

きっと青い苔をいとおしんで 下駄の歯の跡がつくのを 心配しているのだろう
柴の折り戸を しばらく叩いても 一向に開けてくれない
春の景色は 庭いっぱいにあふれて 閉じ込めおおせるものではなく
赤いアンズの花が一枝 そっと塀から顔をのぞかせている


【不值】 bù zhí  (園の主人に)出会っていない(園に入れずにいる)
【憐】 lián  (園の青苔が荒れてしまうことを)心配する
【屐齿】 jī chǐ  木の下駄
【苍苔】 cāng tái  青い苔
【关不住】 guān bú zhù  (漲る春の景色は)閉じ込めておくことはできない

友人の庭園を拝見しようと訪ねたが、結局中に入れてもらえなかった。
がっかりして引き返そうとしたその時、塀の外に伸びた杏の花の一枝が、不意に目に入る。
この一本の枝のみで、庭一杯に溢れた春の息吹が確実に作者に伝わった、その感動を詠う。


 
葉紹翁 yè shào wēng (ようしょうおう)(1194~1250年)
南宋の詩人。字は嗣宗(しそう)福建省浦城(ほじょう)の人。
南宋の儒学者、葉適(しょうせき 1150~1223年)に儒学を学び、後に杭州文書館に
史官として勤務し、南宋の初代から第四代に渡る四人の皇帝(高宗、孝宗、光宗、寧宗)
の治世に関する歴史書「四朝見聞録」を執筆。

南宋後期には「江湖派」と呼ばれる民間詩人たちが活躍したが、葉紹翁は戴復古(たいふくこ)
劉克荘(りゅうこくそう)と共に江湖派の代表的詩人とされる。
その詩は七言絶句にすぐれ、田園の風物をうたった作品が多い。
著作に詩選集「靖逸(せいいつ)小集」(一巻)




(詹義)


登科后解嘲  dēng kē hòu jiě cháo  (宋)  詹义    

读尽诗书五六担 dú jìn shī shū wǔ liù dān
老来方得一青衫 lǎo lái fāng dé yī qīng shān
佳人问我年多少 jiā rén wèn wǒ nián duō shǎo
五十年前二十三 wǔ shí nián qián èr shí sān



【注 釈】

登科(とうか)の後(のち)解嘲(かいてう)す

詩書(ししょ)を読み尽(つ)くすこと  五六担(ごろくたん)
老来(ろうらい)方(まさ)に  一青衫(いちせいさん)を得たり
佳人(かじん)我(わ)れに問う 年は多少(たせう)なるや
五十年前(ごじうねんまえ)二十三(にじうさん)


【口語訳】    「訳詩:井波律子(中国名詩集)」

書物を 読み尽くすこと 五 六担(ご ろくたん)
老いさらばえて ようやく 下っ端の 役人になった
美しい女性に おいくつかと 聞かれたら
五十年前には 二十三歳だった と答えよう


【登科】 dēng kē  科挙に合格する
【解嘲】 jiě cháo   他人から受けた嘲りを取り繕う
【五六担】 wǔ liù dān  数百キロの重さ
【青衫】 qīng shān  下級官吏の服

73歳になって、ようやく科挙に合格した詹義(せんぎ)という人物の作品で、
南宋時代の叢書集「清夜録(せいやろく)」に収録されている。

当時の役人の定年は70歳だったため、官吏としての資格だけを得たのだが、
科挙に合格することは、ひとつの名誉でもあった。



詹義 zhān yì (せんぎ) 生年没不詳
南宋の詩人。生没年、経歴、いっさい不詳。よく知られたこの詩の作者としてのみ名が伝わる。




(曾幾)


三衢道中 sān qú dào zhōng  (宋) 曾几    

梅子黄时日日晴 méi zi huáng shí rì rì qíng
小溪泛尽却山行 xiǎo xī fàn jìn què shān xíng
绿阴不减来时路 lǜ yīn bù jiǎn lái shí lù
添得黄鹂四五声 tiān dé huáng lí sì wǔ shēng



【注 釈】

三衢(さんく)の道中

梅子(ばいし) 黄ばむ時 日日に晴れやかなり
小渓(せうけい) 泛(うか)び尽くして 却(かへ)りて山行(さんかう)す
緑陰(りょくいん) 減ぜず 来時(らいじ)の路(みち)
添へ得たり 黄鸝(くわうり)の四五声(しごせい)


【口語訳】

梅の実が 熟れて黄いろに 染まるころ 空は日々に 晴れわたる
谷川に 舟を浮かべて 川上に至れば またも山道をゆく
木蔭の緑 来たりし時の 道そのままに 生い茂り
うぐいすの声 そこかしこ 新たに興を 添えている


【三衢】 sān qú    山の名。浙江省衢州(くしゅう)
【泛尽】 fàn jìn    川に舟をうかべて終点まで行く
【却】 què  再び
【四五声】 sì wǔ shēng    鳥の鳴き声があちこちから聞こえる

早春に咲き出した梅は、やがて青い実をつけ、夏の訪れとともに黄色く熟しはじめる。
本作は、爽やかな初夏における山中の散策を詠ったもの。



曾幾  céng jǐ  (そうき)(1084~1166年)
南宋の詩人。字は吉父(きっぽ)江西省贛州(かんしゅう)の人。
その詩は、陶淵明を始祖とする江西詩派の流れに属し、風格は軽快で清新。
陸游の師としても知られる。著作に詩集「茶山(さざん)集」(八巻)




(文天祥)


过零丁洋 guò líng dīng yáng   (宋)  文天祥   

辛苦遭逢起一经  xīn kǔ zāo féng qǐ yì jīng
干戈寥落四周星  gān gē liáo luò sì zhōu xīng
山河破碎风漂絮  shān hé pò suì fēng piāo xù
身世浮沉雨打萍  shēn shì fú chén yǔ dǎ píng
皇恐滩头说皇恐  huáng kǒng tān tóu shuō huáng kǒng
零丁洋里叹零丁  líng dīng yáng lǐ tàn líng dīng
人生自古谁无死  rén shēng zì gǔ shuí wú sǐ
留取丹心照汗青  liú qǔ dān xīn zhào hàn qīng



     
【注 釈】

零丁洋(れいていやう)を過ぐ

辛苦(しんく)遭逢(さうほう)一経(いっけい)より起る
干戈(かんくわ)寥落(れうらく)たり 四周星(ししうせい)
山河破砕し 風絮(じょ)を漂(ただよ)はし
身世(しんせい)浮沈(ふちん) 雨 萍(へい)を打つ
皇恐(くわうきょう)灘辺(だんへん) 皇恐(くわうきょう)を説き
零丁(れいてい)洋裏(やうり)に 零丁(れいてい)を嘆く
人生(じんせい)古(いにしへ)より誰か死無からん
丹心(たんしん)を留取(りゅうしゅ)して 汗青(かんせい)を照さん


【口語訳】

祖国の難におもむくは 禄食む者の常の道 
さればぞ筆を剣にかへ 馳駆(ちく)する ここに四星霜(しせいさう) 
戦ひわれに利のあらず 山河は敵にくだかれつ
風に柳絮(りうじょ)の散るごとし
 
昨日はひがし 今日は西 雨にうたるる浮草の
身はあてもなくさ迷ひて かの皇恐(くわうきょう)に浮かびては
いのち危ふき瀬戸(せと)わたり うらぶれ果てし 今はただ
零丁洋(れいていやう)に浮き沈む

さあれ嘆かじ 悔いもせじ 人生誰れか 死せざらん 
祖国にささぐ誠心を 長く歴史にとどめてむ


【过零丁洋】 guò líng dīng yáng     零丁洋(れいていよう)を過ぎる。零丁洋は海の名。広東省珠江(しゅこう)

作者は、20歳で進士に及第、官途を得て国事に奔走したものの、宋末の戦乱に遭遇する。
わが身の不遇を嘆きつつも、祖国に死をもって尽くそうとする、至誠の心を詠ったもの。

【起一经】 qǐ yì jīng     科挙に及第し、士官する
【四周星】 sì zhōu xīng     四年
【丹心】 dān xīn     赤誠の心
【皇恐滩】 huáng kǒng tān     早瀬の名。江西省贛江(かんこう)
【零丁】 líng dīng     落ちぶれる
【汗青】 hàn qīng     書籍。歴史書



文天祥  wén tiān xiáng   (ぶんてんしょう)  (1236~1282年)
南宋の政治家、詩人。字は宋瑞(そうずい)江西省吉水(きっすい)の人。
1255年、科挙に及第、理宗に仕えた。1275年、元軍の侵入に際して勤王の軍を起こし抗戦を続けた。

やがて捕らえられ、その間に宋は滅亡(1279年)。のち脱走して抗戦したが、再び捕らえられて刑死した。
南宋の岳飛とともに愛国の英雄とされる。詩人としてもすぐれ、特に獄中での「正気(せいき)の歌」は古来有名。
著作に詩集「文山(ぶんざん)全集」(二十巻)




(元好問)

(贈羅友卿) (納涼張氏荘)


赠罗友卿
 zèng luó yǒu qīng (金)元好问  

闲中日月病中身 xián zhōng rì yuè bìng zhōng shēn
寂寞相求有几人 jì mò xiāng qiú yǒu jǐ rén
莫怪门前可罗雀 mò guài mén qián kě luó què
诗家所得是清贫 shī jiā suǒ dé shì qīng pín



【注 釈】

羅友卿(らゆうけい)に贈る
          
閑中(かんちう)の日月(じつげつ) 病中(びゃうちう)の身(み)
寂寞(せきばく) 相(あ)ひ求(もと)むるは 幾人(いくにん)か有る
怪(あや)しむ莫(な)かれ 門前(もんぜん) 雀(すずめ)を羅(ら)すべきを
詩家(しか)の所得(しょとく)は 是(こ)れ 清貧(せいひん)


【口語訳】

むなしく時を過ごしつつ なすこともなく身は病めり
世の寂しさをかこつとも おとなふ友のありやなし

久しく人の訪(と)はざれば 門にあそぶや むら雀

食ふや食わずの詩人(うたびと)なれど 
詠(うた)ひ惚(ほう)けて 我が心 足るひとときよ


【罗友卿】 luó yǒu qīng   羅友(らゆう)長官。モンゴルの官僚・耶律楚材(やりつそざい)のことか。
【寂寞】 jì mò  ひっそりしてもの寂しいさま
【可罗雀】 kě luó què  門前に網を張り雀を捕る。訪れる人の無いことを言う  
【诗家所得】 shī jiā suǒ dé  詩人の取り柄は(そもそも清貧にあり)

元好問の祖国である金は、1214年、モンゴル軍に攻撃され、作者は兄を失い、母と共に戦禍を逃れて各地を転々とした。
1234年、金滅亡後、作者の文名は高かったが、元には仕えず、故郷の太原で詩作に専念した。本作は、この時期の作品。
なお成語となっている「门可罗雀」(門前雀羅じゃくらを張る)は、本作に由来する。




纳凉张氏庄  nà liáng zhāng shì zhuāng  (金) 元好问    

小桥深竹午风便 xiǎo qiáo shēn zhú wǔ fēng biàn
一道垂杨带乱蝉 yí dào chuí yáng dài luàn chán
山下行人遮日去 shān xià xíng rén zhē rì qù
却从茅屋问瓜田 què cóng máo wū wèn guā tián



【注 釈】

張氏(ちゃうし)の荘(さう)に納涼(なふりゃう)す

小橋(せうけう)深竹(しんちく)午風(ごふう)便(べん)なり
一道(いちだう)垂楊(すいやう)乱蝉(らんせん)を帯(お)ぶ
山下(さんか)行人(かうじん)日(ひ)を遮(さへぎ)りて去り
却(かへ)って茅屋(ばうおく)に従(したが)ひ 瓜田(くわでん)を問ふ


【口語訳】

小さな橋は 生い茂る 竹に囲まれ 心地よく 風 吹きわたる
道沿いに 並ぶ柳の そこかしこ 思い思いに鳴く 蝉の声

手をかざし 照りつける 日差しをよけつ 山すそを 歩きつれ
ふと茅ぶきの 家に立ちより 尋ぬるは 目指す張氏の うり畑


【纳凉】 nà liáng     風通しのよいところで涼をとる
【便】 biàn    風が人間の気もちにそって吹く
【却】 què    (然后)それから、そのあと

瓜畑のある家といえば、俗世を避け郷里や山奥に隠れて暮らす隠者の家を指す。
本作はある夏の日、作者の友人である張姓の隠者を訪ねた時の詩である。
 


元好問  yuán hǎo wèn (げんこうもん)(1190~1257年)
金末・元初の詩人。字は裕之(ゆうし)号は遺山(いざん)太原(山西省)の人。
1221年、32歳のとき進士に及第、地方官を歴任した。

1234年、モンゴルに攻められ金が滅亡。以後仕官せず、遊歴と著述の生活を送った。
また詩人として、亡国の悲劇と民衆の苦悩を題材にしてすぐれた詩を数多く作った。
著作に詩文集「元遺山(げんいざん)先生集」(四十巻)