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西蔵(チベット)自治区概要 (http://wiki.chakuriki.net)
チベット族 (チベット自治区)
(チベット自治区までの交通)
成田から成都双流国際空港 (CTU) まで5時間。
成都からラサゴンカル国際空港 (LXA) まで2時間。
チベットの噂
1.国民全てがお坊さん。
2.ブラッド・ピットが7年間住んでいた。
セブン・イヤーズ・イン・チベットでな。
3.ダライラマの宮殿はメチャメチャ大きい。
ポタラ宮のことか?
絶壁のようにそびえている。
歴代のお墓も兼ねる。お墓部分は非公開ゾーン。
巡礼者がポタラに向かって土下座ならぬ土下寝している。
4.世界最高地の鉄道が開通! もうちょっとかかります。
もう開通してますが。
中国政府がチベットは中国領であることをアピールする目的も、あるとかないとか。
皮肉にも軍事輸送が容易になってしまう。
その為に作ったんだろ。
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略称
蔵 zang
省都
拉薩 ラサ
位置
北は新彊ウイグル自治区、青海省、東は四川省、南東は雲南省。
南と西はミャンマー、インド、ブータン、シッキム、ネパールなどの国と隣接している。
面積
122万8,400平方キロメートル。(日本の面積の3.2倍)
気候
年間を通じて気温が低めで乾燥している。
季節は冬が長く、夏らしい季節がない。
最も暖かい7月の平均気温は15度以下、最も寒い1月の平均気温は0度前後。
高度が上がると-20度から-40度というところもある。
偏西風の影響で、冬季は風が強い。暖かい季節には夜間の雨が多く、時に雹を伴う。
人口
人口 262万人。
主にチベット族が住む。ほかにメンパ、ロッパ、回族などの少数民族が住んでいる。
主な都市
ラサ市 (拉萨市)、ナクチュ地区 (那曲地区) 、チャムド地区 (昌都地区)、ニャンティ地区 (林芝地区) 、
山南地区 、シガツェ地区 (日喀則地区)、アリ地区 (阿里地区) 。
概要
五世紀頃チベット高原にチベット王朝が成立。
王は 「ツァンポ」 の称号で呼ばれ、支配階級は遊牧生活を基調とした。
七世紀に32世ツァンポのソンツェン・ガンポがチベット諸部族を統一し吐蕃 (とばん) 王朝を開いた。
641年、唐の太宗は文成公主をソンツェン・ガンポに嫁がせ、両国の和睦を図った。
ソンツェン・ガンポは一方でインドからも夫人を迎え、インドの文字をもとにチベット文字を作らせている。
中国とインドの双方の文化の影響を受けながらチベットで独自に発達した宗教がチベット仏教である。
1447年、チベット仏教ゲルク派の開祖ツォンカパの高弟であるゲンドゥン・トゥプ (ダライ・ラマ一世) がゲルク派の教主となった。
ゲルク派の教主は、ダライ・ラマ (達頼喇嘛) と称し、同時に政治的にもチベット民族の最高指導者とされた。
1913年、辛亥革命で清朝が倒れると、チベットはダライ・ラマ13世の下で独立を宣言した。
1950年、中国によるチベットへの武力侵攻が始まる。
1959年、身の危険を感じたダライ・ラマ14世がインドへ亡命。
1966年、チベット自治区が発足した。
チベット問題
世界の屋根といわれる青海西蔵高原の中心をなし、海抜は平均で4千メートル以上もある。
ネパールとの国境地帯にあるチョモランマ=エベレスト山は海抜8848メートルの世界最高峰。
ヤルツァンポ河はチベット最長の川で、2002年になって発見された。
ヤルツァンポ河大峡谷の深さは5382メートル。
グランドキャニオンを抜いて、世界で最も深い峡谷である。
山間でも一年の約半分は雪と氷に閉ざされ、気温の日較差が大きい。
一般に平均気温は七月でも 10℃以下で、年降水量は 200mmにすぎない。
しかし日照時間が長く、雪どけ水が豊富であるため、夏季には草原が広がる。
ヒツジ、ヤギ、ヤク、ウシの飼育が多い。
ヤクは高原の舟と呼ばれ、高原・雪山での運輸の中心となっている。
自治区の主要な農業地域で、ラサ市、シガツェ (日喀則) 市、ギャンツェ (江孜) 市などが立地している。
チンクオと呼ばれるハダカムギと、ユワンケン (円根) と呼ばれるダイコンが伝統的作物であるが、
コムギ、ソバ、エンドウ、ソラマメ、アブラナ、アサ、テンサイなども導入された。
東部では山腹にトウヒ類、モミ類などが繁茂し、谷底では水稲と果樹などを栽培する。
レアメタルをはじめ多くの鉱物資源が豊富。
冬虫夏草、バイモ (貝母)、麝香 (じゃこう) などの漢方薬材、セメントなどの産地でもある。
中央部がチベット語で 「ツァン」 と呼ばれた。
このことから、中国語では中国の西にあるツァンという意味で西蔵と名付けられた。
「チベット」 の語源は唐代の吐蕃 (とばん)、元代の図伯特 (とおぼと) (それぞれ当時、チベットにあった国家) からといわれる。
チベット仏教 (ラマ教) の中心地であり、ポタラ宮殿、大昭寺などの名所が多い。
特産品は、酥油茶 (バター茶)、トゥクパ (チベット風塩味うどん)、冬虫夏草、ギュマ (チベットソーセージ)、
モモ (チベット風餃子)、雪蓮 (薬草)、マニ石、マニ車、チベットナイフ、タンカ (布に描かれた宗教画)、
プル (チベットの毛織)、カシミヤウール、蔵毯 (絨毯)など。
観光スポット
拉薩 (ラサ) 市 は、チベット自治区の行政、商工、交通、文化教育の中心都市。
中国歴史的名城で、ラサはチベット語で聖地の意を表す。
海抜は3,650mで、日照が豊かで、「日光の城」 と呼ばれている。
唐時代に町作りが始まり、現在まで1300年あまり経過している。
1960年に市を初設置し、現在は観光、建材、エネルギー、農・畜産物の加工、民族手工業など、産業が多分野に及んでいる。
市の人口は50万人。特産物は蔵香、掛け絨毯など。
観光地はポタラ宮、大昭寺、布林卡 (ロブリンカ) など。
① ポタラ宮 (布達拉宮) (拉薩市城関区北京中路35号) (世界遺産)
ポタラの名は観音菩薩の住むとされる補陀落のサンスクリット語名 「ポタラカ」 に由来する。
ポタラ宮は、紀元七世紀頃、ラサ市にある紅山の上に造営されたダライ・ラマの冬の宮殿である。
チベット仏教及びチベットの在来政権における中心的な役割を果たしている。
面積13万平方メートル、13階建て、海抜3700メートルの場所にある荘厳で巨大なチベット宮殿である。
内部は白壁の白宮と赤壁の紅宮、二つの部分に分けられ、部屋数は一万を越す。
白宮は政治活動や生活の場所で、紅宮は宗教活動の場所である。
紅宮には金箔で覆われた八つの歴代ダライ・ラマ霊廟があり、ミイラが安置されている。
エジプトのピラミッドにも匹敵するといわれる。
五世ダライ・ラマから、すべての重大な 宗教行事や政治儀式は例外なくここで行われている。
また、チベット仏教の総本山として、現在でも熱心な信者が全国各地から巡礼に訪れる場所でもある。
七世紀に造営されたジョカン寺は例外的に仏教との混合建築である。
18世紀に構築されたダライ・ラマの旧夏宮殿であるノブリンカは、チベット芸術の傑作である。
これら三つの建造物の独自の美しさと、迫力のある例をみない地理的景観美が調和。
歴史と宗教の総合芸術として興味がつきない。
② 大昭寺 (拉薩市城関区八廓街) (世界遺産)
市街の中心部にある、647年創建のチベット最古の寺で 「ジョカン寺」 とも呼ばれる。
チベット仏教の聖地で、多くの巡礼者が訪れる。
ソンツェン・ガンポ王が唐から文成姫を妃に迎えるため、ネパールからの先妃・ティツン妃が建てられたといわれ、持参した釈迦牟尼像が本尊。
金瓦の屋根をもつ四つの堂が東西南北に置かれ、文化財も多く保存されている。
③ 羅布林卡 (ロブリンカ) (拉薩市城関区羅布林卡南路21号) (世界遺産)
チベット語で 「ノルブ・リンカ」 と呼ばれるポタラ宮の西2.5kmにある、ダライ・ラマの夏の離宮。
「ノルブ・リンカ」 は宝 (ノルブ) の庭 (リンカ) という意味である。
18世紀中頃にダライ・ラマ七世が造ったもので、36万㎡の敷地は美しい庭園になっており、宮殿の棟が点在する。
1959年のチベット動乱の際に、ダライ・ラマ14世はここからインドへ亡命している。
チベット自治区アラカルト
1. マニ車 (摩尼車)
信仰厚いチベット人が真言を唱えながらいつもまわしているチベット仏教用具。
形は、円筒形で、手に持てる大きさのものから、寺院に設置される数十メートルもある大きな物までさまざま。
中にお経の書かれた巻物が入っていて、これを右回りに回すことによりお経を読んだことになるすぐれもの。
チベットの老人たちは時間が許す限り、この 「マニ車」 を回す習慣があります。
みんな、悟りを開いて仏陀になることを目指しているのですね。
マニ車は、一説では日本の 「でんでん太鼓」 のもとだと言われていますが、形状はむしろ子供の玩具 「ガラガラ」 に似ています。
多分子供が生まれて最初に持たされる玩具でしょう。音がすること、回る事で子供の興味が集中します。
色も形も綺麗で、「子供が幸せに育って欲しい」 そんな思いが込められているように思います。
2. チベット族 (蔵族)
チベット族の祖先は大昔からヤルツァンポ河中流一帯で生活し、子孫を増やしてきた。
考古学調査によって、旧石器時代、新石器時代及び金石時代の古代文化遺跡が発見されている。
六世紀、チベットのロカ地区のヤルン部落の首領が部落同盟の指導者になり、「ツァンポ」 と名乗り、奴隷制社会に入った。
七世紀に至って、ソンツェン・ガンポがチベット全域を統轄した。
これは歴史上 「吐蕃 とばん」 と呼ばれている。
ソンツェン・ガンポと唐朝の文成公主との成婚は、チベット族の発展の上で積極的な役割を果たした。
現在チベット族の総人口は約 620万と推定され、そのうち中国領に約 460万 (1990年) が居住している。
社会組織は近年まで僧侶、貴族、商人、交易商、農夫、遊牧民、賤民などの諸階級に分れ、婚姻は一夫多妻婚、
上層階級では兄弟による一妻多夫婚もみられたが、概して単婚制によっている。
仏教が伝わる前は、シャーマンを中心とするポン教が盛んであったが、八世紀以後、仏教が移入され、15世紀よりダライ・ラマによる政治、宗教の支配が行われている。
3. 鳥葬 (ちょうそう)
鳥に死体を食べさせることによって死体を処理する葬法。
チベット人にとって、最も一般的な方法が鳥葬である。
魂が解放された後の肉体はチベット人にとっては肉の抜け殻に過ぎない。
その死体を山の中腹に運び、僧たちが刀で死体を骨ごと切り刻み、頭は石で砕くなどして鳥が食べやすいようにする。
死体の解体作業が終わると、僧たちは死体を残して山を下り、ハゲタカのついばむに任せる。
この方法だと、毛髪とか骨のごく一部だけを残して死体のほとんど全部は鳥に食べられてしまう。
このような鳥葬の風習の背景には、死者は鳥に食べられることによって天へ運ばれるのだとする観念がある。
日本では鳥葬という訳語が採用されているが、中国語では天葬 (tiān zàng) と呼ぶ。
また、多くの生命を奪ってそれを食べることによって生きてきた人間が、せめて死後の魂が抜け出た肉体を、他の生命のために布施しようという思想もある。
土葬は、寒冷なチベットにおいては微生物による分解が完全に行われず、かつ土が固くて穴掘りが困難なこともあり、伝染病の死者に対し行われる方法である。
伝染病患者を鳥葬にすると病原体の拡散が起こりうるからである。
西蔵自治区当局は鳥葬は非衛生的だとして火葬を奨励していたが、2006年に鳥葬について撮影や報道を禁ずる条例を公布して、伝統文化を保護することになった。
チベットには約1000箇所の鳥葬用石台があるが、関係者以外による撮影や見物、および鳥葬用石台近くの採石など開発行為は禁じられている。
4. チベット シンギングボウル
シンギングボウルとは、チベット、インドを中心として、癒しの道具として人気が高まっているアイテムのひとつである。
その音色は、深く低く、徐々に波打つような倍音となり、その内からなる響きは、聴く者に心の平穏をもたらすとされる。
5. チベット仏教
チベット仏教は、7世紀にインドから伝えられた密教的な要素が強い仏教と、土着の宗教であるボン教 (祈祷宗教) とが結びついて展開したものである。
(チベット人はもともとボン教という巫女を通じて心霊や祖霊と交信するシャーマニズムを信じていた)
ラマ (師匠) を崇敬し、師弟関係を通じて教えが伝えられることから、ラマ教とも呼ばれる。
現在、ゲルク派、カギュ派、サキャ派、ニンマ派の四大宗派がある。
ダライ・ラマはゲルク派の最高位で、同時にチベット仏教の最高位にある。
第2位にあたるのがパンチェン・ラマである。
両者は共に転生霊童 (生まれ変わり) の活仏として崇拝され、どちらか一方が死亡した場合、もう一方がその転生者を認定する。
1989年1月、パンチェン・ラマ10世が死去し、1995年5月、ダライ・ラマ14世はゲドゥン・チョエキ・ニーマ少年 (当時6歳) を転生霊童として認定。
それに対して、同年11月、中国政府はギャインツァイン・ノルブ少年 (当時6歳) を選び、2人のパンチェン・ラマが並立することになった。
チベット仏教における後継者問題は、国際問題として今後も注目される。
ダライ・ラマ14世
6. チョモランマ (珠穆朗瑪峰 zhū mù lǎng mǎ fēng)
チョモランマは中国とネパールの国境に位置し、海抜8848m。
ヒマラヤ山脈の主峰であり、世界一の山である。
チベット語では、チョモ (珠穆) は女神の意味、ランマ (朗瑪) は3番目の意を表す。
周囲に4つの峰があり、チョモランマ峰は3番目に位置するためである。
毎年の3月初旬~5月末、9月初旬~10月末の季節の変わり目が晴天が比較的多く、チョモランマ峰が見れる季節もこの時期である。
11月中旬~2月中旬は北からの寒気団で気温は零下60度になる場合もあり、平均気温はマイナス40度。最大風速は90m。
この期間は積雪の為、登山ルートは通行止めとなる。
チョモランマに登るためには入山料なるものが必要になる。
ネパール側からの入山料は一人2万5,000ドル。
一方、チベット側からの入山料は、10人までのパーティで5,000ドル (以降、一人増える毎に500ドル)と、ネパール側よりかなり安価に設定されている。
しかし、チベット側ルートは頂上付近の岩肌で約30mの懸垂上下降が必要となる事から、高度なクライミングの技術が要求され、
ネパール側より難易度が高いとも言われている。
中国語講座 「ポタラ宮」
在中国西藏拉萨海拔3700多米高的红山之巅 diān,有一座举世闻名的宫堡 gōngbǎo 式古建筑群,
这就是唐代初年,松赞干布 sōngzàngānbù 任藏族吐蕃 tǔbō 王时修建的布达拉宫 bùdálāgōng,距今已有1300多年的历史。
布达拉宫依山而筑,气势磅礴 pángbó,是一座集宫殿、城堡和寺院于一体的宏伟建筑,也是世界上海拔最高的建筑。
公元七世纪初,喜爱唐朝文化的松赞干布完成统一大业后,于公元640年派遣 pàiqiǎn 使者前往长安,
要求与大唐联姻 liányīn,次年唐太宗把文成公主许配给他。
如今在布达拉宫保存的壁画中,还有文成公主进入西藏时一路上遇到的艰难险阻,以及抵达拉萨时受到吐蕃人民热烈欢迎的场面。
松赞干布非常喜欢贤淑 xiánshū 多才的文成公主。
据说,布达拉宫就是为了迎接公主而特意修建的。
当年所建的布达拉宫富丽壮观,高9层,有999间宫室,加上山顶的修行室一共有1000间。
但后来饱受天灾和战火的劫难 jiénàn,历尽沧桑 lìjìncāngsāng,破败不堪,现在的布达拉宫是十七世纪后重新修建的。
才华出众,具有远大理想的文成公主进入西藏时,带去了许多有关医药 yīyào、生产技术及佛教等方面的书籍,还有谷物、蔬菜的种子以及大唐精美的工艺品。
她向吐蕃人推行历法,和一同进藏的工匠 gōngjiàng、侍女们把汉族的养蚕、酿酒 niàngjiǔ 以及纺织、刺绣的技术传授给当地的藏民。
文成公主在西藏生活了40年,为汉藏两族人民的友谊做出了很大的贡献。
藏族人民非常爱戴文成公主。
直到现在,布达拉宫中还保留着她的塑像。
长期以来,布达拉宫以其雄伟壮观的建筑和优美动人的佳话 jiāhuà,吸引大批的中外游客前来参观。
1994年被列为世界文化遗产。
【注 釈】
【举世闻名的宫堡式古建筑群】 宮殿と砦を兼ねた有名な古建築群。
【松赞干布】 sōng zàn gān bù ソンツェン・ガンポ。[581-649年]
古代チベット王 (在位593-638年)。
チベット初の統一王国 (吐蕃) を樹立し、チベットに初めて仏教を導入した人物として知られる。またチベット文字を制定したと伝えられる。
【吐蕃】 tǔbō 吐蕃 (とばん)
ソンツェン・ガンポが建てたチベット民族の王朝名。
また唐・宋朝に青海チベット高原に住んでいたチベット民族の呼称。
【文成公主】 wén chéng gōng zhǔ 文成公主 (ぶんせいこうしゅ) [623-680年]
吐蕃ソンツェン・ガンポ王に嫁した唐の王女。
チベット族に政治的統一をもたらしたソンツェン・ガンポが唐に公主の降嫁を請い、
いったん拒絶され、638年の戦いとなったが和が成り、640年秋に吐蕃に迎えられた。
【口語訳】
中国のチベット拉薩地区、海抜3700mの紅山山頂に、世界的に有名な宮殿と砦を兼ねた古建築群がある。
これは唐代初年、ソンツェン・ガンポがチベット吐蕃王に任ぜられた際に建造したポタラ宮で、すでに1300年余りの歴史を有している。
山肌に集宮殿、砦、寺院が一体となって建設されたポタラ宮は気勢壮大であり、世界最大の海抜を有する雄壮宏大な建築物である。
紀元七世紀初め、唐の文化に好感を抱いていたソンツェン・ガンポは、チベット統一を完成した後、紀元640年、使者を長安に派遣し、
唐と婚姻関係を結ぶことを要請、翌年、唐の太宗は文成公主を彼に送ることとなった。
ポタラ宮に保存される壁画の中に、文成公主がチベットへ向かう道中出会った困難と障害、そして拉薩に到着した際、吐蕃人民の熱烈な歓迎の様子が描かれている。
ソンツェン・ガンポは、賢くしとやかな文成公主をたいそう気に入った。
ポタラ宮は彼女を迎えるために特に建造されたといわれている。
その年建てられたポタラ宮は華麗にして壮観、九層の高さで、999座の宮殿があり、山頂の修行室は全部で一千室あった。
しかしその後、天災と戦火の災禍を受け、世の変転を経て非常に壊れ果て、現在のポタラ宮は17世紀以降に再建したものである。
才知にあふれ、理想高遠な文成公主がチベットにやって来た時、たくさんの医薬、生産技術、仏教方面の書籍、さらに穀類、野菜の種、唐の精美な工芸品などを持参してきた。
彼女は吐蕃人に暦法を奨励し、一緒にチベットにやって来た職人、侍女達とともに、漢族の養蚕、醸造、紡織、刺繍の技術を現地のチベット人たちに伝授した。
文成公主はチベットで40年間暮らし、漢族とチベット族、両人民の友好のために大いに貢献した。
チベット人民は文成公主をとても敬愛していた。
現在に至るまで、ポタラ宮の中には、彼女の塑像が保存されている。
長い間、ポタラ宮はその雄大壮観な建物と美しく感動的な物語により、多くの国内外観光客を引き付けている。
1994年、世界文化遺産に認定された。
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