ののとゆかいな仲間達 (その228)       Top Page


1998年3月7日 めちゃイケ 「爆烈お父さん」




バラエティ番組初出演となったモーニング娘。

「爆烈お父さん」 は、加藤一家が織りなすめちゃイケの人気コーナー。
毎回ゲストが加藤家の人々を相手に近況や新作への意気込みを語るというもの。

ところが、ある言葉をきっかけに父親 (極楽トンボの加藤浩次) が逆上し、加藤家家訓を訓示
した上でゲストをジャイアントスイングでお仕置きするというのがウリ。

番組では、趣味を聞かれた福田明日香が 「ドラム」 と答えて箸で茶碗をチンコンしたところ(笑)
爆裂お父さんの怒りを買ってジャイアントスイングで回されることに。





このとき福田明日香は、スカートの下にジャージを履いてガードしてました。しかし、ミラクルは起こった。
ジャイアントスイングの途中そのジャージがズルッと脱げてしまい、彼女の太ももがあらわに。

さすがにキレて、脱げたジャージをお父さんに投げつける明日香でしたが、デビューしたてのアイドルが
パンツ(ブルマ)丸出しということで、全国の視聴者に相当なインパクトを植えつけたのは間違いないでしょう。

お母さん役の光浦靖子は 「ミラクルよミラクル」 と興奮してました。
でも、これってシナリオどおりなんでしょうか?(笑)


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1998年3月11日 笑っていいとも!


「笑っていいとも!」 テレフォンショッキングにモーニング娘。が出演。

初出演お約束の故郷トークからはじまって、上京後のホテル住まいでのエピソードや
東京で人が多くてびっくりしてしまった話題とかで盛り上がっていました。

つんくからの花束に小躍りする初々しい娘。たちの姿がとても印象的でしたね。


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1998年4月7日  太陽娘と海




記念すべきモーニング娘。初出演ドラマ 「太陽娘と海」 (全13回)

1998年4月7日から、テレビ東京系の深夜枠でスタートしました。
内容は、茅ヶ崎を舞台にした少女たちのひと夏の恋模様を描いた青春ストーリー。

当時の娘。メンバーは役者としては、まったくのド素人。
でも、ドラマという新たなジャンルにチャレンジする彼女たちの一生懸命な姿は初々しく輝いていました。




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(番組には、初代カントリー娘。の 「柳原尋美」 (やなぎはら ひろみ) さんも出演していました。

彼女は、残念ながら1999年7月、デビューを直前に交通事故で他界してしまいました。
大きな事故ではありませんでしたが、シートベルトをしていなかったのが直接の死因でした。

彼女の事故をきっかけに、その後のカントリー娘。は波乱の一時期を過ごすことになります。

モーニング娘。が国民的アイドルとして絶頂の時代を迎えていたかげには、このような仲間の
不幸な歴史があったことを忘れてはならないと思われます)



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1998年4月8日 デビューシングル 「poker face」 発売 (浜崎あゆみ)


浜崎あゆみの記念すべきデビュー・シングル。

アップテンポのリズムに乗って、彼女の伸びやかなハイトーンの歌声が心地よく響いています。
心にストレートに訴えかけてくる歌詞も素敵です。 聴いていてすごく元気になれる曲ですね。

TBS系の人気音楽番組 「CDTV」 のエンディングテーマにも採用されています。
カップリング曲はさわやかなミディアムナンバー 「FRIEND」


♪ 人はみんな いつだって ひとりぼっちな 生きモノ だから そう 誰かが必要 
   支えられたくて 支えていたくて  確かなモノは 何もないけれど 信じてる 心がある

   「poker face」  作詩:浜崎あゆみ  作曲:星野靖彦




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1998年4月20日  HEY!HEY!HEY! 初出演!(浜崎あゆみ)


デビューを果たしたばかりのあゆちゃんが初登場。

あゆちゃんは、自宅に近いこともあり、歌舞伎町によく遊びにいくそうです。
トークでは、ダウンタウンの松本さんを、歌舞伎町で見かけたという話から。



見かけた場所が、なんと 「エッチビデオ屋」 とか。
現場をあゆちゃんに目撃され 「確かに行きました」 と素直に白状した松本さん。(会場爆笑)

でもその場所は、今田耕司さんから教わった店とのこと。
で、今田さんは、その店を誰に教わったかといえば、実は浜ちゃんからだと暴露!(会場大爆笑)

「その店に、松本さんが入ってくの何回も見ました」 と、あゆちゃん。
「お前もなんでそんなとこにしょっちゅう居るんねん!」 と、松本さん。

「ひょっとして働いてんのか?」 と、逆にツッコまれてしまったあゆちゃんでした。


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弱肉強食


1998年01月23日 (金)

メジャーデビューまであと1週間。 和田マネージャーが 「きょうは見学に行くから」 と言う。
彩っぺが 「見学ってどこへですか?」 と聞き返す。

「ミュージックステーション」
「えっ? あのタモリさんのですか?」 みんなの驚く声が重なった。


夕方、スタジオに行く。 和田さんがスタジオ中のスタッフに私たちを紹介して回る。
私たち5人は声を合わせて挨拶する。「よろしくお願いします」

まだデビューしてないけど、CDも発売になってないけど、もう何回このことばを言ってきただろう。

「おはようございます」 「よろしくお願いします」
芸能界ってこの2つのことばから始まるんだな、ってつくづく実感した。


やがて出演するアーティストが集まってリハーサルが始まった。
「すごいよ!生だよ、生」  なっちやカオリがはしゃいでいる。

私は和田さんに聞いてみた 「あとでサインをもらってもいいでしょうか?」

和田さんが小声で叱責する 「バカヤロー! ここはみんな仕事で来てるんだ。
そんなところでサインくれなんて言ったらいい恥さらしだ。
それよりもお前たちがサイン欲しいなー、と言われる立場にならなければダメだろ」


ランスルーも終わって本番が始まる。
さきほどリハーサルをしていたアーティストたちがステージの中央に出て歌いはじめる。

「ぜんぜん違う! リハーサルなんかよりずーとかっこいい!」
私はスターといわれる人たちのライブの魅力にひきつけられた。 それとともに不安になった。

(私たち来週あそこに立つんだ。 あんなすごい人たちと一緒のステージに立つんだ。 大丈夫だろうか?)




1998年01月25日 (日)

「HEY!HEY!HEY!」 のビデオ収録。ステージの中央に立たされた私たちをダウンタウンの二人が囲む。

「さぁー問題はコイツらです」 浜ちゃんのトークが始まった。
私たちは浜ちゃんと松ちゃんの問いに 「はい」 と答える。

松ちゃんが明日香に向かって 「おまえアレだな、銀杏みたいやな」 と容貌について話す。
明日香がビクッとする。 浜ちゃんが 「こいつ泣きそうやでー」 と話しを続ける。

目をうるませた明日香が 「とつぜん大きな男の人2人に囲まれたらコワイです」 って答えている。
私たちは、そんなやりとりを聞きながら下を向いて笑っていた。

メジャーデビュー曲をうたって歌手になれたんだって、弾む気持ちで楽屋に戻った。


戻るなり、和田さんにすごい顔で怒られた。

「お前たち、なに勘違いしているんだ? あんなトークで話しが続くと思っているのか?
せっかくダウンタウンの2人が話しをふってくれているのに 『はい』 と 『いいえ』 しか言えてなかっただろう? 

もし松ちゃんが福田に話しをふってくれなかったらと思うとオレはぞっとするよ。
番組でトークの時間をもらえるってことはラッキーなんだ。 せいいっぱい有効に使うんだ。いいな、わかったな?」


和田さんが怒っていた理由はよくわかった気がした。

私たちは今まであこがれていたアーティストと一緒のステージに立てて嬉しいと思っていた。
ラッキーだと思っていた。しかし違っていた。

ラッキーなのは、新人歌手の私たちがトークの時間をもらえたということで、その分時間を削られた人がいる。
歌だけで返された人がいる。 私たちのトークの時間がなくなれば喜ぶ人が別にいる。


先週の 「ミュージックステーション」 の見学のとき、和田さんに 「ここは仕事場だ」 といわれた理由もわかった。
私たちはテレビに出られて、デビュー曲を歌えて喜んでいたけど、一緒のステージに立つ人はすべてライバル。

私たちのテレビに映る時間が少なくなれば、その分増えると悦んでいる人たちだったんだ。
自分たちは、私たちが消えてしまえばいいと思っている人たちに 「サインください」 って甘えようとしていたんだ。

芸能界ってホントはこわいところだったんだ ・・・。



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和田 薫

「ステージは戦場。一緒に出てる誰よりも自己アピールせよ!」
オリメンたちは 「一人称は私とかじゃなくて名前を言え」 って教育されたらしい。

「うたばん」 でも 「HEY×3」 でも、オイラわぁ ・・・ なっちねぇ ・・・ カオリは ・・・
などと自作のニックネームが定着していた。

TV出演後に、トーク内容の反省会をするほどの徹底ぶりだったという。

本番で声が出てない飯田圭織は和田マネにビール瓶で頭殴られたこともあったとか。
(現在だったら暴力なんとかで、エライことになるかも知れないが)


アイドルの寿命は短い。 ちょっと歌がうまくて可愛いだけのアイドルはゴマンといる。

和田マネの真意は、この世界で生き残るための 「プラスアルファ」 を彼女たちに
徹底的に教え込もうとしたのかも知れない。

現在はUFAを離れ、芸能事務所の代表取締役を務めている和田薫さん。
歌番組やバラエティに出演する現メンのパフォーマンスを見てどう感じておられるのだろうか。








                 







In 1993, At the age of 14, Hamasaki Ayumi moved to Tokyo and signed with the talent agency SOS.
Hamasaki worked as a model, doing many swimsuit photoshoots for magazines like BOMB, Takarajima, and Up To Boy.

However, her career as a model did not last very long as she was deemed too short to be a model.
Hamasaki decided that her time was best to spent shopping in the Shibuya district
of Tokyo and dancing at Velfarre, a club owned by Avex.

One fateful night at Velfarre in 1997, Hamasaki was introduced to Matsuura Max (松浦勝人 her future producer) by a friend.
After hearing Hamasaki sing karaoke Matsuura told her she had a nice voice.
He wanted to send her to voice lessons and sign her to his label, avex trax.

She found him to be shady and rejected the offer at first.
However, Matsuura persisted and convinced Hamasaki to sign with the label in the following year.
Hamasaki was then sent to New York for voice lessons .

While in New York she exchanged letters with Matsuura, oddly displaying a remarkable talent for expressing her feelings.
Finally she returned to Japan to record her debut single, "poker face".

Up until the day of recording, Hamasaki had been dissatisfied with the lyrics.
Matsuura, remembering Hamasaki's letters, suggested she try writing new ones.

Her lyrics were the used in the final recording of the song. "poker face" was released on April 8th, 1998.






滨崎步在中学2年级时,参加了朝日电视台电视剧“twins 教师”的试镜,
最后获得一个名为“立花桃”的配角。在拍摄此剧时认识了前男友长濑智也,并且开始对演戏产生浓厚兴趣。

于是完成初中学业后离开故乡福冈,孤身远赴东京进军演艺圈。

1995年,与日本哥伦比亚唱片公司签约并推出了首张单曲及同名迷你专辑“NOTHING FROM NOTHING”,
歌曲全是饶舌风格的音乐,就此踏出了成为歌手的第一步。

由于完全缺乏宣传,唱片销量不理想,单曲只登上公信榜第198位,而专辑排于第200位,所以很快便被唱片公司放弃。

由于作品都不太受欢迎,她很快便感到灰心,并经常于涉谷街头购物消磨时间和唱卡拉OK,
也是这段时候,磨练了滨崎步对人生许多的看法。

在此时,她被当时仍为音乐制片人的松浦胜人(后来担任爱贝克思总经理)发掘,并签下一份试音合约。
与此同时,在松浦胜人的建议下,她亦开始尝试作词。1998年,滨崎步决定发行在爱贝克思旗下的首张单曲。

于04月08日发行了在爱贝克思的首张单曲“poker face”,登上了日本Oricon公信榜第20位,获得一个不俗的成绩。










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