小説モーニング娘。 第二十章 「シャボン玉」         Top Page
   

2002年9月23日、横浜アリーナ、後藤真希ファイナルライブ。

ごっちん、ごっちん、ごっちん ... ごっちんコールが鳴り止まない。

いつものライブとは比べ物にならない会場の興奮を、後藤はひしひしと肌で感じていた。
ダンスのキレも、歌詞の一言ひとことにも、自然に力が入った。

モー娘。、プッチモニ、ソロを含め全15曲を、堂々としたステージで歌い切った。


1999年8月23日、後藤はこの横浜アリーナで初めてステージに立った。

1万1000人から唯一選ばれたシンデレラだったが、弱冠13歳の彼女にとってプレッシャーは大きかった。
緊張の中で歌った「サマーナイトタウン」。

当時、何度練習を積んでも先輩たちの動きに合わせることができず泣いたこともあった。
そんな後藤が、同じステージの中央で、歌い踊り、グループを引っ張っている。

後藤の加入でモー娘。の勢いは何倍にも加速され、国民的アイドルグループに成長した。
辻希美、加護亜依以降の後輩メンバーには憧れられる存在で、常に目標とされてきた。


フィナーレで、後藤は1人でステージ中央に進み出た。
「モーニング娘。として最後のステージ。メチャメチャ大成功でした。すごくうれしかったよ」と涙ながらに挨拶。

最後はプロデューサーつんくが後藤を育てるためにつくったといわれる「赤い日記帳」をソロで、
「手を握って歩きたい」をメンバー全員と手をつなぎながら涙の熱唱。

そして彼女はついに、初ステージから3年間のモーニング娘。としての生活に終止符を打ったのである。



過去5年間、増員、脱退、ソロデビュー、ユニットデビューと、常に何らかの波乱という「イベント」を迎え、
それに前向きに対処し、ついに国民的アイドルと呼ばれるまでに成長してきた娘。たち。

結成当時の5人のままで続けていたら、これほどの人気を得ることが出来ただろうか?
後藤が加入せずに「LOVEマシーン」を歌っていても、国民的アイドルになり得ただろうか?

仮定の話は誰にもわからない。
しかし、厳然たる事実として、モーニング娘。は5年の時を経てもなお輝き続けているのである。