小説モーニング娘。 第三十八章 「迷宮の国のマロン」 Top Page
辻希美 聖誕20周年記念連載小説 「迷宮の国のマロン」
マンションのドアを開けると、愛犬マロンが出迎えてくれた。
飼い主に似て、いつも元気印のミニチュア・ダックスフント。
マロンの頭を撫でながら、片手でウエストポーチからケータイを取り出す。
たーくんから・・・着信・・・今日も無し? 一体どうしたんだろう。
忙しいのかしら? ちょっと気になるし、こっちからかけてあげよぅっと。
部屋のソファに座り込むと、気合いを入れてケータイの発信ボタンを押した。
「もしもし、あたし」 とっさにそう言いながら、のぞみは一瞬戸惑った。
電話の向こうでも驚いて、ハッと息を呑む気配があった。
ソファのかたわらで、愛犬マロンがキョトンとこちらを見ている。
「もしもし、あたしよ、の・ぞ・み」
いつもと違う気まずい沈黙を破るために、のぞみはそうささやいた。
「たーくん・・・でしょ?」
のぞみの問いかけをさえぎるように、落ち着いた女性の声がのぞみの耳に届いた。
「もしもし、主人に何かご用ですの」
「えっ・・・!?」 のぞみは思わず声を上げた。番号をまちがえた? そんなはずは・・・
「ごめんなさい。まちがえました」
「いいえ」 その女性はきっぱりと言い放った。
「こちらは杉浦の部屋です。あなたはのぞみさんね。わかってるわ。私の名前ものぞみです。
杉浦は私と結婚しましたの。あなたの努力も水の泡だったわね」
その勝ち誇ったような冷たい語調に、のぞみはいいしれぬ恐怖を感じて立ちすくんだ。
一瞬の沈黙の後、のぞみは思わず細かく打ち震える指先で電話を切った。
しばらくの間、のぞみの胸は激しく波打っていた。あの女性はいったい誰?
彼の部屋で妻と名乗る、あの 「のぞみ」 という女。なぜあたしを知っているの?
彼が妻帯者でないことは、自分もよく知っているつもりだった。でも・・・
彼に会えなかったのは、ほんの一週間。いったいどうしてこんなことに?
その晩、のぞみは一夜を泣き明かした。
そして翌日、彼女はすべての仕事をキャンセルした。表向きは急病ということにして・・・。
新ユニットのキャンペーンやCDジャケットの衣装合わせ、CM撮影や雑誌のインタビュー、そして舞台のリハーサル
・・・思えば毎日が殺人的スケジュールだった。
仕事がなくなると、一日がとても長く感じられた。
朝は9時に起床、そして食事の準備。部屋の中では、マロンが元気よく這い回っていた。
のぞみは飛び回っているマロンを捕まえて、そっと抱きかかえる。
「…そんなに嬉しい?」 そして抱き上げたマロンに向かって言う。
「ごめんね。いままであまり面倒を見てやれなくて・・・これからはずっと一緒。
そう、たとえ結婚したって、ずっとずっとマロンと暮らすからね」
そのとき、マロンの目から涙がひとすじ流れた。のぞみは驚いて言った。
「へえっ!マロンって、泣くんだ?」 その瞬間、すごく愛おしく感じた。
夜になってもよく眠れなかった。そんな時に考えてしまうのが、彼と過ごした、あの幸せだった日々のことだった。
今となっては、あの幸せだった日々は、本当は夢だったのではないかとさえ思えてしまう。
3日目に、2度ほどケータイが鳴った。彼にちがいなかった。のぞみは電話に出なかった。
彼の声を聴くのがこわかったからだ。
4日目になると、一時間おきにケータイが鳴った。彼が心配しているのかもしれない。でも・・・
5日目の朝、彼はとうとうのぞみをたずねて来た。
「のぞみ!」 思いつめたように彼が叫んだ。「どうしていたんだ? 何があった」
泣き疲れてうつむくのぞみを抱きしめて、彼は問い詰める。
答えるかわりに、のぞみは泣きじゃくった。
「もういい。のぞみ、結婚しよう。もう離れ離れはたくさんだ。・・・いいね?」
あれからちょうど一年がすぎた。彼はいまだに首をかしげる。
のぞみ以外の 「のぞみ」 っていう女性、いったい誰だろう、と。
のぞみは、そのかたわらでくすんと笑う。
いいのよ、その女性のおかげで、あたし今、とても幸せなんだもの・・・。
そんなある日の朝。窓の外は雨。のぞみは食事の準備をしていた。
部屋の中では、家族の一員となったマロンが元気よく飛び回っている。
するとふいに電話が鳴った。のぞみがあわてて受話器をとった瞬間、声が流れてきた。
「もしもし、あたし」
驚いてハッと息を呑む。これは・・・きっと、あの娘ね!
「あたしよ、の・ぞ・み。・・・たーくん?」
のぞみはできるだけ落ち着いて言った。
「もしもし、主人に何かご用ですの」
かたわらで、愛犬マロンがキョトンとこちらを見ていた・・・。