小説モーニング娘。 第七章「ふるさと」        Top Page
 

新曲「サマーナイトタウン」の発売後、中澤裕子は事務所の社長に呼ばれた。

「おい中澤、おまえ演歌うたわないか?」

突然の話に驚いて なにもいえない中澤に社長が続ける。

「うちの事務所に所属している堀内孝雄という演歌歌手が、いい曲を書いたんだ。
ついては女性歌手にも歌わせたいというので、中澤に歌わせようかという話が出た。」

「それって、つんくさんも知っていることなんですか?」
「もちろんだ。」


中澤には、じっくり考えるための一週間という時間が与えられた。

だが中澤裕子ソロデビューのニュースは、すでに番組「ASAYAN」で告知されていた。
それは事務所社長の意向であり、ほとんど「決定事項」に近いものであった。


「演歌歌手に転向って、私はモーニング娘。にいらないということなんだろうか。

他のメンバーとの年齢的にも、私がいつまでも娘。にいられないことは感じていた。
いつかはこんな日が来るとは思っていたけれど、こんなに早く言われるとは思わなかった。」


悩み抜いた中澤は、実家の母親に電話で相談をもちかけた。

すると、母から返ってきた言葉は、実に簡単なものであった。
「歌いたくても歌えない人は一杯いる。断るなんて、あんた、贅沢や。」


確かに、ソロデビューは歌手にとって光栄なことなのかも知れない。

だが、中澤にとって演歌は無縁の世界だった。
未知の分野である演歌には、どうしても頑張っていこうという気持ちになれなかった。


中澤に心を決めさせたのは、ファンから寄せられた一通の手紙だった。

「私は演歌が好きではないけれど、中澤さんが歌うことによって演歌を好きになるかも知れません。
ぜひ素敵な歌声を聞かせてください。応援しています…。」


中澤裕子は、ファンの反応を怖がっていた自分に気が付いた。
自分が演歌を歌うことで、今までのファンが離れていってしまうことを恐れていたのだった。


だが、その手紙を読み、ファンの期待に応えられるだけの毎日を積み重ねようと決意を固めた。

一週間後、中澤は社長の元に行き「やってみます。よろしくお願いします。」と自らの決心を伝えた。



2ndシングル「サマーナイトタウン」リリースから2ヵ月後の8月5日、中澤裕子のソロデビューシングル「カラスの女房」が発売された。
事務所側のごり押しの形で通したこの企画であったが、オリコン初登場17位、しかし演歌チャートではダントツの1位を獲得した。


一方、絶好調の本体モーニング娘。は9月9日、3ndシングル「抱いてHOLD ON ME!」をリリース。
結果はオリコン初登場「第1位」を記録!


続いて石黒、飯田、矢口の3人による新ユニット「タンポポ」のデビューシングル「ラストキッス」が11月18日にリリース。
これもオリコン初登場2位という好記録を達成し、絶好のスタートとなった。

さらに12月31日、第40回日本レコード大賞「最優秀新人賞」を受賞、 NHK「紅白歌合戦」に初出場する事になり、
最高の形で最初の1年を締めくくった。



かっての「落ちこぼれ集団」モーニング娘。がついに音楽界の頂点に立ったのである。
1998年後半、モーニング娘。は完全に「社会現象」と化していたといえる。


もともと「モーニング娘。」は、優れた才能を誇るエリート集団ではなかった。
どちらかと言えば、磨かれたダイアモンドの原石のような集団である。

厳しいトレーニングと競争原理の中で磨かれていく過程自体が、ファンの注目を集めるという二重の効果を生み出していた。
ともすれば集団の中で埋もれてしまいがちな個性の育成も派生ユニットを活用する事により行なうことになった。



この派生ユニットという手法自体、アイドルでは「おニャン子クラブ」が既に実践しているが、
幅広いファン層をターゲットとしたユニット展開の面では「モーニング娘。」に軍配が上がる。

中高年世代をねらった中澤裕子の演歌路線、ヤング・アダルト世代にもアピールできる「タンポポ」路線、
後に結成される子供向けの「ミニモニ。」路線という使い分けは見事である。


幅広いファン層をカバーする戦略がなければ、その人気を長期にわたって維持し続ける事は至難の業である。
「おニャン子クラブ」が2年という短命に終わったのは、その派生ユニットが「アイドル」路線一辺倒に終始していたからであろう。