6月22日    桶狭間の戦い 1560年(永禄3年)   歴史年表     真日本史       人名事典)(用語事典
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永禄3年(1560年)5月12日、今川義元は2万5千の大軍を率いて駿府を発した。

時は梅雨の最中、不安定な天候が続いた。

5月18日、今川義元は自らの勢力下にある沓掛城に到着。

信長の居城、清洲城までおよそ25キロ。半日の行程である。


同日夕刻、清洲城の信長のもとに「今川軍接近!」の報が届く。

だが彼は軍議すら開かず世間話をするだけであった。

今川義元の大軍を前に、作戦の立てようもなく、ふてくされたように世間話にふけるのも当然だったのだ。


明けて19日、今川軍は攻撃を開始。

信長の前線基地である丸根、鷲津の砦に攻撃を開始し、相次いでこれを落とした。

一方、信長は、丸根、鷲津あいついで陥落の報を受け、突如出陣を決意。


途中、辰の刻(午前8時)熱田神宮で軍勢を整え、戦勝を祈願。

熱田神宮の主神は天照大神、そして神体は草薙剣(くさなぎのつるぎ)信長にとって必勝を期す祈願であった。



                                 




清洲城を出陣したときは、主従わずかに6騎、戦勝祈願をした頃は1000人余りに増えていた。

そのまま街道を走って前線基地、中嶋砦に到着した。この時の軍勢は3000人ほどになっていた。


牛の刻(昼12時)今川の本陣が桶狭間で休息しているとの報が届く。信長はただちに総攻撃を命じる。

信長軍は、桶狭間に連なる小丘陵に軍勢を進める。そして一列縦隊で伸びきった隊列の中に、今川義元の本陣を発見。


突如、桶狭間一帯を急雨が襲う。大木をなぎ倒すほどの暴風雨が西から東へ、信長勢から今川勢に向かって降りかかる。

「すわ、かかれ、かかれ!」信長の大音声が響き、突然の豪雨に呆然としている今川本陣に信長勢が襲い掛かった。


一列縦隊で手薄になっている側面からの攻撃で、信長と義元の戦いはほぼ同数の一騎打ちとなった。

今川の先鋒部隊は、狭い一本道と突然の豪雨で、本陣の急を知っても駆け付けることすらできない。


まもなく信長の家臣が槍で義元を刺し、もう一人が後ろから組み付いて首を取った。将を失った今川勢は算を乱して退却。

この戦いの死者は、今川軍2500人、信長軍800人 ほどで、要した時間は2時間という一瞬の出来事であった。



孫子の兵法に「天を知り地を知れば、すなわち勝、窮まらず」という言葉がある。「天」は好機であり「地」は地勢である。

機を逃さず、地の利を活かした信長の知略が、圧倒的な大軍であった今川義元を打ち破ったのだ。

この戦いの勝利は信長の躍進の契機となり、家康の自立、甲斐の武田、越後の上杉の台頭など数多くの影響を及ぼす事になる。


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軍勢の編成


軍勢は、先陣、本陣、後陣の三隊に分かれ、最後尾に、補給部隊である荷駄隊が配された。


先陣(先鋒)は、最初に敵と接触する可能性が高いので比較的戦闘能力の高い部隊が配置された。

また偵察の任も兼ねており、常に斥候(物見)を出して敵情を探っていた。


少し離れて、総大将がいる本陣が続く。本陣は軍勢における本隊であり、直属の旗本勢が脇を固めた。

戦はこの本陣を壊滅させるか、退却させるかを勝利条件としている。


続いて後陣が続く。主たる任務は、後方に対する警戒であるが、特に城主が兵を率いて出陣した場合に

留守を守る部隊は「後詰」と呼ばれた。


このほか隊列外にあって、不意に敵を襲うために、隠れて待機する遊撃部隊(伏兵)が配置されることもあった。

荷駄隊は、合戦用具や兵糧を運ぶ部隊で、主に農民が徴用され、その任にあてられた。





行軍において、総大将は通常は馬に乗って移動したが、今川義元が桶狭間の戦いのときに

輿に乗って出陣したように、輿も移動手段のひとつとして用いられた。


だが桶狭間では、その目立つ輿により、総大将の居所を、信長にいち早く知らせることになった。

信長軍は迷わず本陣に攻め入り、輿に乗ったことが、義元にとって命取りになってしまった。