カラー放送の開始と衛星中継によるテレビのグローバル化


1960年(昭和35年)9月10日、NHK、NTV、ラジオ東京テレビ(11月にTBSと改称)、朝日放送、読売テレビの五社が

一斉にカラー放送を開始。テレビ普及をさらに促進させた。

1962年になると、テレビの受信契約がついに 1000万件を突破した。

世帯普及率は 48.5%。この年、テレビ各局は午前七時前後から夜十二時まで、一日中切れ目なく放送する全日放送体制を完成。


獅子文六の「娘と私」に始まるNHK朝の連続テレビ小説(1961年)、NET系「木島則夫モーニングショー」(1964年)は午前帯の、

また、フジテレビ系「日日の背信」(1960年)に代表される昼メロは午後帯の視聴習慣形成に大きな役割を果たした。


テレビのカラー化と共に、この時期のエポックは「衛星中継」の開始である。

1963年11月23日、日米間の衛星中継の実験が行われた。

このとき、飛び込んできたのが「ケネディ大統領暗殺」という衝撃的なニュースだった。

国内からではなく、海外からリアルタイムで映像・音声が送られてくる時代に入ったことは、事件と共に視聴者を驚かせた。



1964年10月には、東京オリンピックが開催された。女子バレーボールやマラソンなどでの日本人選手の活躍を、

飛躍的な普及率となったテレビを通じて多くの人が見たと同時に、その映像は日本から海外へと中継された。



1960年代前半の主要番組としては、 1960年の「安保報道」(全局)、「きょうのニュース」(NHK)、「日日の背信」(フジ)、

「ただいま正午・アフタヌーンショー」(NET)。

1961年、「夢で逢いましょう」「若い季節」(NHK)、「シャボン玉ホリデー」(NTV)、「七人の刑事」(TBS)、

「特別機動捜査隊」(NET)。

1962年、「隠密剣士」(TBS)、「てなもんや三度笠」(朝日放送)など。

1963年、「花の生涯」(NHK)、「エイトマン」(TBS)、「鉄腕アトム」「鉄人28号」(フジ)。

1964年、「七人の孫」「ただいま11人」(TBS)、「ミュージックフェア」(フジ)、「木島則夫モーニングショー」(NET)。



これだけテレビが日本の家庭に浸透したことは、その影響力もまた放送開始の頃に比べて格段に大きくなったことを意味する。


テレビ CM にも、ヒットが生まれていた。「なんである、アイデアル」は 1965 年、「レナウン・イエイエ」が 1967 年。

ほかにも「ハナマルキ・おかあさん味噌」(1968年)、「森永エールチョコレート・大きいことはいいことだ」(1968年)、

そして「丸善石油・オー、モーレッ!」(1969年)など、1960年代後半はテレビ CM から多くの流行語が生まれた。

これは、テレビ自体の成熟と共に、 CM もまたひとつの文化として育ってきたことの証拠でもある。



またこの時期、テレビがリアルタイムで伝えた大きな出来事が、多く発生している。


1966年に起きた全日空機の羽田沖墜落事故。「ビートルズ日本公演」は日本テレビで放送され、 56.4%の視聴率をマークした。

1968年、金鎮老事件。 1969 年、東大安田講堂の攻防戦。そして、同年 7月には、アポロ 11号による月面からの生中継が行われた。

わずか 6年前、アメリカからの中継に目を見張った視聴者は、今度は宇宙からの生放送を体験した。


テレビジョンのもともとの意味が「遠くを見ること」だったことを思うと、居ながらにしてはるか月面の出来事を

「目撃」することを可能にしたテレビという装置は、まさに「テレビジョン」を具現化したことになる。






この頃の主な番組は、 1965年の「11PM」「青春とはなんだ」「踊って歌って大合戦」(NTV)、「オバケのQ太郎」(TBS) 、

「ジャングル大帝」(フジ)。

1966年、「おはなはん」(NHK)、「笑点」(NTV)、「ウルトラマン」(TBS)、「日曜洋画劇場」(NET)。

1967年、「スパイ大作戦」(フジ)、「インベーダー」(NET)。

1968年、「巨人の星」(読売テレビ)、「キイハンター」(TBS)、「夜のヒットスタジオ」(フジ)。

1969年、「コント55号!裏番組をブッ飛ばせ!!」「巨泉・前武ゲバゲバ90分」(NTV)、「8時だョ!全員集合」

「サインはV」(TBS)、「サザエさん」「アタックNo.1」(フジ)。



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