モーレツからビューティフルへ
1970年代は、大阪万国博覧会(1970年3月)で幕を開けた。
敗戦から25年、日本が立派に復興し成長してきたことを、世界にアピールするイベントとなった。
だがその一方、国内では公害問題がクローズアップされ、経済成長の歪みが指摘され始めていた。
そんなとき、テレビから新鮮なメッセージが流れてきた。
「モーレツからビューティフルへ」それは、富士ゼロックスの企業CMだった。
そのコピーは、従来の高度成長の波に乗った拡大一辺倒、モーレツ主義へのアンチテーゼであり、
新しい生き方、価値観の提案だった。
それは、これまでの日本人たちの頑張りに、ちょいとここらで一休みしませんか、もっと美しく
生きてみませんか、といったメッセージを込めたものだった。
さらに1970年10月、当時の国鉄が「ディスカバー・ジャパン」というキャンペーンCMを流した。
これは日本を再発見するという意味を超えて「自分を見つめ直す」「自己発見」のニュアンスさえ
漂わす秀逸なコピーだった。
これらは、モーレツ時代を生き抜くために忘れてしまっていた大切なもの「人間らしさ」「人間回復」
を教えてくれたCMだった。時代の転換期が見事に表現されていたのである。
こうした人間性を追求する時代のテーマは、「ありがとう」(TBS)、「時間ですよ」(TBS)、
「だいこんの花」(NET)などといった家族の絆、人情の機微を描くホームドラマブームを現出した。
そのほか1970年代前期の代表的番組としては、1970年、「遠くへ行きたい」(読売テレビ)、「全日本歌謡選手権」(NTV)、
「大岡越前」(TBS)、「あしたのジョー」(フジ)。
1971年、「天下御免」(NHK)、「スター誕生!」(NTV)、「天皇の世紀」(朝日放送)。
1972年、「中学生日記」(NHK)、「オーケストラがやって来た」(TBS)、「木枯し紋次郎」(フジ)、「必殺仕掛人」(TBS)。
1973年、「刑事コロンボ」(NHK)、「うわさのチャンネル」(NTV)、「ドラえもん」(NTV)「それぞれの秋」(TBS)、
「ひらけ!ポンキッキ」(フジ)、「非情のライセンス」(NET)。
1974年、「ニュースセンター9時」「未来への遺産」(NHK)、「傷だらけの天使」(NTV)、「赤い迷路」(TBS)、
「パンチDEデート」(関西テレビ)など。
1978年9月28日、日本テレビが世界に先駆けてテレビ音声多重放送をスタートさせた。
これにNHK、在京・在阪の民放各社が続き、1979年12月に音声多重放送用の全国回線が開通したのを機に、
各地の民放で実地されるようになった。
これによって、音楽番組はステレオ放送で、外国映画はオリジナル・サウンドで楽しめるようになった。
この音声多重放送は、白黒放送、カラー放送に続く「第三の放送」という側面だけではなく、同年4月の
実験用放送衛星「ゆり」の打ち上げ、1979年12月のキャップテンシステム(電話回線によるネットテレビ)
の稼働とともに、ニューメディア時代の到来を告げるものでもあった。
1970年代後期の代表的番組は、1975年、「俺たちの旅」「前略おふくろ様」「テレビ三面記事ウィークエンダー」(NTV)、
「まんが日本昔ばなし」(TBS)、「欽ちゃんのドンとやってみよう」(フジ)、「独占!男の時間」(テレビ東京)。
1976年、「男たちの旅路」(NHK)「クイズダービー」(TBS)、「徹子の部屋」(テレビ朝日)。
1977年、「岸辺のアルバム」「海は甦る」(TBS)「アメリカ横断ウルトラクイズ」(NTV)。
1978年、「歴史への招待」「ウルトラアイ」(NHK)、「24時間テレビ愛は地球を救う」「熱中時代」(NTV)、
「ザ・ベストテン」(TBS)、「暴れん坊将軍」(テレビ朝日)。
1979年、「クイズ100人に聞きました」「3年B組金八先生」(TBS)、「花王名人劇場」(フジ)、「西部警察」(テレビ朝日)。
赤信号みんなで渡れば怖くない