五社協定とテレビ局の海外ドラマ依存


放送開始の段階では日本テレビだけだった民放も、 1955年4月にラジオ東京テレビ(略号は KR テレビ、のちの TBS )、

1959年2月に日本教育テレビ(略号は NET 、のちのテレビ朝日)、1959年3月にフジテレビなどが続々と開局した。


一方、NHKのテレビ受信契約数は、1955年に10万世帯に達し、その後も年々倍々のペースで伸び「ミッチーブーム」を

巻き起こした皇太子御成婚の前年の1958年には、あっさり100万世帯を突破した。


家電のトップメーカー、松下電器はテレビの将来性に着目し、業界に先駆けて本社のある大阪・門真市にテレビ専門工場を建設した。

辛口評論家の大宅壮一が「一億総白痴化」とテレビを批判したのは「週刊新潮」が発刊された1956年である。



テレビが「大衆の娯楽」として成長する過程で、危機感を覚えたのが映画業界であった。


大手映画会社は、テレビ放送が映画の存在そのものを脅かし映画を衰退させるものと危惧した。

その帰結として大手映画会社五社(松竹、大映、東映、東宝、新東宝)は、テレビ局に映画を売らず、

また俳優も供給しない方針を取った。(五社協定)

1956年4月、 KRテレビへの映画の提供を中止。1956年10月からは NHK に対しても提供中止。

その後、日活も五社に追随し、1958年9月以降、邦画六社の作品はテレビから姿を消した。



その穴理めとなったのが、アメリカ製のテレビ映画である。


1956年 4月の「カウボーイ Gメン」(KRテレビ)を第一号として、「ローン・レンジャー」(1958年 KRテレビ)

「ガンスモーク」(1959年 フジ)「ローハイド」(1959年 NET)「拳銃無宿」(1959年 フジ)

「ララミー牧場」(1960年 NET)などの西部劇、

「スーパーマン」(1956年 KRテレビ)「ハイウェイ・パトロール」(1956年 NHK)などのアクション、

「アイ・ラブ・ルーシー」(1957年 NHK)といったコメディ、「名犬リンチンチン」(1956年 NTV)

「名犬ラッシー」(1957年 KRテレビ)「パパは何でも知っている」(1958年 NTV)

「うちのママは世界一」(1959年 フジ)などのホーム・ドラマ、

「ヒッチコック劇場」(1957年 NTV)「ミステリー・ゾーン(未知の世界)」(1960年 NTV)

といったサスペンスなど、数多くの作品が輸入された。



映画界の抵抗をよそにテレビは着実に成長を続け、 1959年には、ラジオ全体の売り上げが162 億円だったのに対して、

テレビは 238億円と、営業的にもテレビがメディアの王座につくことになった。


この頃の主な番組としては、1955年が「私の秘密」(NHK)、「日真名氏飛び出す」(KRテレビ)、

1956年に「お笑い三人組」「チロリン村とくるみの木」(NHK)、「日曜劇場」(KRテレビ)など。

1957年、「日本の素顔」「きょうの料理」「私だけが知っている」(NHK)、「ダイヤル110番」(NTV)、

1958年に「事件記者」「バス通り裏」(NHK)、「光子の窓」、「私は貝になりたい」「月光仮面」(KRテレビ)。

1959年、全局で「皇太子ご成婚パレード中継」、「スター千一夜」(フジ)などである。


カラー放送の開始と衛星中継によるテレビのグローバル化