関ヶ原の合戦  1600年(慶長5年)   歴史年表    真日本史      人名事典)(用語事典
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1598年(慶長3年)豊臣秀吉の死後、朝鮮半島に渡っていた日本軍は撤退を始めた。

しかし、この朝鮮からの撤兵は、生命を賭して戦った武将たちに大いに不満を残した。

彼らは何の恩賞も得る事はなく、ただ多大な戦費と兵力を徒に浪費したのみであった。


不満の矛先は、秀吉の側近として強権を振るった石田三成に向けられ、険悪な状況になる。

三成は、秀吉の朝鮮出兵という無謀な行動の残した負の遺産に大いに苦しむことになった。


そうした中、豊臣政権の大老職についていた徳川家康は、この内部対立に巧みにつけ込み、

三成に不満を持つ加藤清正や福島正則などの武将を、次々に味方につけることに成功する。

さらに家康は、自らの養女を加藤清正に娶らせ、縁戚関係を結ぶなど、秀吉により禁止

されていた大名間の婚姻を勝手に進めるようになった。



その後、家康は、豊臣家への謀反の兆しがあるとして、会津の上杉景勝討伐に出征する。

家康と同じく大老職にあった上杉景勝は、居城の改修を行うなどして不穏な動きを見せていた。


これを危険視した家康は、秀頼の名において上洛を命じるが、景勝はこれに従わない。

家康にとっては、後方の脅威であった上杉を討伐する格好の大義名分を得たことになる。


しかし、これは三成の挙兵を挑発する策動であった。一連の家康の行動に激怒した三成は、

打倒家康を掲げ、毛利輝元、島津義弘、小早川秀秋など西国大名を糾合して挙兵する。



1600年(慶長5年)9月15日、美濃国関ヶ原(岐阜県関ヶ原町)にて、石田三成を中心とする

「西軍」総勢十万と、徳川家康を大将とする「東軍」総勢七万五千の両軍が激突となった。

西軍は数で勝っていたものの、諸将の足並みが揃わず戦況は芳しく進まなかった。


家康は事前に、西軍諸将に周到な懐柔工作を重ねており、戦局が佳境に入った後も、西軍は

実に総勢の三分の二が、戦況を傍観したまま微動だにしないといった異常な軍容となった。

それでも残る西軍部隊は奮戦し、寡勢ながらも善戦して、次第に東軍を追い詰めていった。


三成は勝利を確信したが、突如として西軍の小早川隊が東軍に寝返り、友軍に襲いかかった。

この小早川隊の造反を引き金として、寝返りを約束していた他の西軍諸将も次々と東軍に加わり、

西軍はたちまちのうちに総崩れとなった。これによって東軍が大勝し、家康の覇権が確立した。


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室町時代(1336年〜1573年)
1338年 (延元3年) 足利尊氏、征夷大将軍となる
1378年 (天授4年) 足利義満、室町に幕府を移す
1392年 (元中9年) 南北朝が合一される
1404年 (応永11年) 足利義満が日明貿易を開始
1428年 (正長1年) 正長の土一揆
1429年 (正長2年) 尚氏によって、琉球が統一される
1467年 (応仁1年) 応仁の乱がはじまる(〜1477)
1485年 (文明17年) 山城の国一揆、守護を追放(〜1493) 
1488年 (長享2年) 加賀の一向一揆(〜1580)
1543年 (天文12年) 種子島に鉄砲が伝わる
1549年 (天文18年) ザビエルがキリスト教を伝える    
1553年 (天文22年) 川中島の戦い
1560年 (永禄3年) 桶狭間の戦い
1568年 (永禄11年) 織田信長が将軍足利義昭を奉じて入京
安土桃山時代(1573年〜1603年)
1573年 (元亀4年) 信長が義昭を追放、室町幕府滅亡
1582年 (天正10年) 本能寺の変
1582年 (天正10年) 豊臣秀吉の太閤検地(〜98)石高制を確立
1585年 (天正13年) 秀吉が関白に就任する
1587年 (天正15年) バテレン追放令 
1588年 (天正16年) 刀狩令によって兵農分離を行う
1590年 (天正18年) 秀吉、全国統一
1592年 (文禄1年) 秀吉、朝鮮に出兵(文禄の役)
1597年 (慶長2年) 秀吉と明との和平交渉が決裂し、
再び朝鮮に出兵(慶長の役)
  1598年 (慶長3年)   豊臣秀吉病没     
1600年 (慶長5年) 関ヶ原の戦い


室町時代

室町時代(1336年〜1573年)は、足利尊氏が建武式目を定め、幕府を開いた
1336年から、足利将軍家15代義昭が織田信長に京都を追放され、
足利幕府が滅亡した1573年まで約240年間を指す。

正長の土一揆

1428年(正長1年)畿内一帯に起きた農民による武装蜂起。酒屋・土倉を襲い、
幕府に徳政(債権・債務の破棄)を要求し、幕府の拒否にもかかわらず、
実力で債務破棄を断行した。一揆は畿内一帯に波及し、その規模の大きさと
社会に対する影響は大きかった。

応仁の乱

1467年(応仁1年)守護大名の細川勝元と山名持豊(宗全)の対立に、
将軍足利義政のあとつぎ問題などがからんで起こった11年間の大乱。
京都は焼け野原になり、幕府の権威はおとろえた。乱の後、戦乱は地方に
広がり、約100年間の戦国時代に入った。

山城の国一揆

1485年(文明17年)山城(京都府)の地侍(じざむらい)らが、守護の畠山氏
を追放した。地侍と農民が連合して、自治による政治を8年近く続けた。

加賀の一向一揆
 
1488年(長享2年)加賀国(石川県)の一向宗信者による一揆。
加賀国守護・富樫政親を攻め、これを同国高尾城で自殺させた。
これによって一揆を指導した僧官や地侍、農民門徒の代表らは、加賀一国の
実質的な支配権を獲得。この守護大名による支配を排除した史上類のない
共和体制は、1575年、織田信長軍によって占領されるまで約100年間続いた。

川中島の戦い     

戦国末期、甲斐(山梨県)から信濃(長野県)に進出した武田信玄が、
越後(新潟県)の上杉謙信と川中島(現・長野市)で、1553年(天文22年)から
5回にわたって争った戦い。最も激戦だった1561(永禄4年)の4度目が有名。
武田軍は「風林火山」、上杉軍は「毘(沙門天)」の旗を使った。

桶狭間の戦い

1560年(永禄3年)織田信長の領内桶狭間に陣取った今川義元を、
信長が奇襲して破った戦い。信長の天下統一の第一歩となった。







安土桃山時代

安土桃山時代(1573年〜1603年)は、足利義昭が信長に追われ、室町幕府が
滅びた1573年から徳川家康が江戸幕府を開いた1603年までを指す。

本能寺の変

1582年(天正10年)明智光秀が織田信長を京都本能寺に襲い、滅ぼした事件。
羽柴秀吉の高松城攻撃を救援するため本能寺に宿泊中であった信長を、
先に増援を命じられて丹波亀山城にいた光秀が引き返して急襲し自害させた。


関ヶ原の戦い

1600年(慶長5年)関ヶ原(岐阜県)で、石田三成らの西軍と、徳川家康らの
東軍とが天下を争った戦い。小早川秀秋の寝返りにより東軍が大勝し、
石田三成らは処刑され、豊臣秀頼は60万石の大名に転落した。
これにより徳川氏の覇権が確立した。