12月15日 歴史のヒーロー (4) ナポレオン (Napoleon)   歴史年表      ヨーロッパ史
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英雄ナポレオン

「余の辞書に不可能の文字はない」(There is no such word as "impossible," in my dictionary)

1769年8月、コルシカ島(Corsica)のイタリア系下級貴族の家に生まれたナポレオン。
彼が最初に軍務についたのは1785年のこと。肩書は砲兵少尉でした。

地位も名声もなかった彼でしたが、フランス革命の動乱に乗じ、イタリア遠征軍隊長、エジプト遠征軍司令官を経て、最後は皇帝にのぼりつめました。

ナポレオン自身、ノートルダム大聖堂(Notre Dame de Paris)で皇帝の戴冠式(1804年12月)が挙行されたときが生涯最大の至福のときだったに違いありません。
確かに、このときの彼は、不可能なことなど何もないと思うに十分な勝利と栄光の真っただなかにあったのです。



対仏大同盟


1789年7月、フランス革命が起こると、イギリスをはじめとする諸外国は、1793年2月、第一次対仏大同盟を結成し、連合してフランスをせめました。
これらヨーロッパ諸国の君主は、革命の波が自国におよぶことをおそれたためでした。

これに対して、フランス臨時政府(国民議会)は、各地から兵士をつのって国民義勇軍を結成し、諸外国の攻撃に対抗しました。
しかし、その一方で、1795年10月、国内で王政の復活をのぞむ王党派らの反革命内乱がおこり、フランスは内外の危機にさらされることになりました。

このようなときに登場したのが、ナポレオン・ポナパルトだったのです。

ナポレオンが率いた鎮圧部隊は、王党派の反乱をたった一晩で制圧してしまいます。
軍事の天才としてのナポレオンの評判は、国民の間に鳴り響くこととなりました。

1796年3月、ナポレオンはイタリア遠征軍隊長としてオーストリアが支配する北イタリアに遠征。
彼は各地でオーストリア軍を破り、北イタリアの諸都市を解放して市民から大歓迎を受けました。

フランス軍がウィーンに迫ると、オーストリアは第一次対仏大同盟を破棄して講和条約を結びました。

この条約によって、フランスはイタリア北部に広大な領土を獲得しました。
パリに帰還したナポレオンは熱狂的な歓迎を受けます。


エジプト遠征

イタリア遠征に成功したナポレオンは、1798年7月、エジプト遠征を行います。
この目的はイギリスとインドの連絡路を断つことでありました。

エジプトに上陸したフランス軍はアレクサンドリアを占領し、エジプトのマムルーク軍に圧勝してカイロに入城、その後、数週間でエジプト全土を征服しました。

1798年12月、イギリスは、ナポレオンのエジプト遠征を機に、オーストリアとロシアに第二次対仏大同盟を呼びかけ、フランス国境を脅かしました。

この報を受けると、ナポレオンは単身フランスに舞い戻ります。
エジプトから戻ったナポレオンを民衆は歓喜で迎えました。

1799年11月、革命後の混乱が残っていた臨時政府(総裁政府)をクーデターでたおし、実権をにぎったナポレオンは、統領政府を樹立して自ら第一統領に就任し、事実上の軍事独裁を始めます。

この頃、イギリスでは、戦争のために財政窮乏がひどく、また産業革命のさなかにあってヨーロッパ市場を失うことを恐れて和平を望む声が高まっていました。

1802年3月、イギリスとフランスはアミアンの和約(Treaty of Amiens)を結び、相互に占領地の多くを返還しあいます。
アミアンの和約によって、第二次対仏大同盟は解消し、ヨーロッパには久々の平和が訪れました。


ナポレオン法典

ナポレオンは19世紀でもっともすぐれた軍事的、政治的才能の持ち主でありました。
西ヨーロッパの大部分を版図にくわえる一方、これらの新しい領土で数々の改革を実施し、市民的自由を保障するとともに、生活水準を向上させようとこころみました。

1804年5月、フランス皇帝の地位につくと、ナポレオン法典の制定、教育制度の再建など各種の改革を導入し、革命で分断された国家を統一しようとしました。
ナポレオンの導入した改革の多くは、現在のフランスでも実施されています。

1805年4月、フランスの強大化を恐れたイギリスは、ロシア、オーストリアと第三次対仏大同盟を結成しました。
これに対してナポレオンは、イギリス侵攻作戦をたてドーバー海峡に大軍を集結させます。

1805年10月、ネルソン率いるイギリス艦隊は、フランス・スペイン連合艦隊をトラファルガーの海戦(Battle of Trafalgar)で敗り、イギリス侵攻を食い止めました。
この海戦でネルソンは戦死します。

しかし陸上ではフランス軍が快進撃し、ウィーンに迫りました。
1805年12月、オーストリア軍はロシア軍とともにアウステルリッツ郊外(Battle of Austerlitz)で迎え撃ちましたが、ナポレオンの前に完敗しました。

この戦いは3人の皇帝が戦ったことから三帝会戦とも呼ばれています。
この結果、第三次対仏同盟は崩壊しました。


大陸封鎖令

さらにナポレオンは、プロイセンを攻めベルリンを占領、1806年7月、西南ドイツ一帯をライン同盟として保護国化します。
これにより神聖ローマ帝国は崩壊し、ライン同盟、プロイセン、そしてオーストリアの三大領邦に分かれることになりました。

1806年11月、ナポレオンは、大陸封鎖令を出し、イギリスとの交易を禁じて経済的な打撃を与え、フランス産業を育成しようとします。

続いて、ポーランドに侵攻し、プロイセン・ロシア連合軍を破りました。
1807年7月、ティルジット条約(Treaties of Tilsit)が結ばれ、プロイセン領ポーランドにはワルシャワ大公国を建国。

これにより、プロイセンは約半分の領土を失い、さらに多額の賠償金を課せられました。
この頃はナポレオンの絶頂期で、イギリスを除く全ヨーロッパを支配しました。

しかしその後、イギリスとの穀物貿易で栄えていたロシアは、大陸封鎖令を無視して貿易を再開しました。
1812年6月、ナポレオンは、これを封じるために、ついにロシア遠征を決意します。


ロシア遠征

だがこの遠征は、ナポレオンの終焉の始まりでありました。

兵士65万人のナポレオン軍は、ロシアの厳しい寒波と飢餓によりほぼ全滅。
ナポレオンは、わずかな兵士に守られ、やっとの思いで、パリに帰着します。

1814年5月、敗走を重ねたナポレオンは、ロシア・プロイセン・オーストラリア連合軍によってパリを制圧され、ナポレオンは皇帝の座から失墜し、地中海のエルバ島へ流罪となりました。

その後、ナポレオンの後に政権についたルイ18世でしたが、王政などフランス国民が許すはずも無く、1815年3月、エルバ島を脱出したナポレオンがパリに帰還した際には、国民は大歓迎し、再び彼を皇帝の座に据えたのです。


百日天下

1815年6月、イギリス軍司令部の置かれたワーテルローにナポレオン軍は攻め込みました。
イギリス・オランダ・プロイセンの連合軍相手に戦ったナポレオンに、往来の輝きはもうありませんでした。

ナポレオンは、ワーテルローの戦い(Battle of Waterloo)で連合軍に敗れ、わずか3か月ほどの「百日天下」は終わりました。
1815年10月、大敗したナポレオンはセント・ヘレナ島(Saint Helena)に流されてしまいます。

1821年5月、ガンで亡くなったナポレオンの最後の言葉は「フランスよ、進め、我につづけ…」でした。


エトワール凱旋門(Arc de Triomphe del Etoile)

凱旋門は、シャンゼリゼ通り(Champs-Elysees)終着点のシャルル・ド・ゴール広場(Place Charles de Gaulle)に建っています。
第二次世界大戦時、パリはナチス・ドイツに占領されます。

このとき、義勇軍を組織して戦い、パリを解放したのがシャルル・ド・ゴールです。
 
かつて、この場所はエトワール広場と呼ばれていました。
凱旋門を中心にシャンゼリゼ通りを含む12本の道が、星(エトワール)のように放射状に広がっていたためです。

1805年12月、ナポレオン率いるフランス軍は、アウステルリッツの戦いで、ロシアとオーストリアの連合軍に大勝利をおさめます。
この勝利を祝ってナポレオンは古代ローマ帝国にならった凱旋門の建設を命じます。

凱旋門は、フランスの建築家シャルグラン(Chalgrin)の設計に基づいて1806年に着工、ナポレオン政権の崩壊により中断し、工事開始から30年を経た1836年に完成しました。
しかしこのとき、ナポレオンはすでにセント・へレナ島で亡くなっていました。



               フレデリック・ショパン「ポロネーズ」(Heroique)第6番 変イ長調






不敬罪

フランスの法律で豚にナポレオンと名前をつけてはいけないというのがある。

事の発端は、反抗的なフランス人の男が豚にナポレオンという洗礼名を付けたことがきっかけだという。

ナポレオンはこれに対して怒り、市民に豚の名前をつけることを禁じる法律を作った。

この法律は現在も有効だが、ほとんどのフランス人はもはやこれをジョークとみなしているそうである。