4月19日     フランス革命 (French Revolution)     歴史年表     ヨーロッパ史     人名事典)(用語事典)
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不平等社会フランス


16〜18世紀にかけて、絶対王政時代のフランスは、たいへん不平等な社会でした。

人口のわずか2%ほどの第一身分の聖職者と第二身分の貴族が、国土の半分を支配し、そのうえ、税金をはらわなくてすみました。

人口の98%を占める市民や農民の第三身分が、税金のすべてを負担していました。

ルイ14世(Louis XIV)時代からの戦争やむだづかいにくわえて、ルイ16世(Louis XVI)が、イギリスに対抗するために、
アメリカの独立を助けて軍隊を送ったことなどで、国のお金はぜんぜんありませんでした。


フランス革命の勃発

1789年5月、ルイ16世はベルサイユ宮殿で聖職者、貴族、平民からなる「三部会」を開き、
税金を払わなくてよかった第一身分(聖職者)と第二身分(貴族)にも税金をかけようとしました。

第一身分や第二身分の議員はこれに激しく反対し、議論は全く進みませんでした。

そこで、第三身分(平民)の議員は三部会を見限り、三部会をはなれて国民議会を結成しました。
彼らは、宮殿のテニスコートに集まり、憲法が制定されるまで戦いぬく誓いをたてました。

しかし、ルイ16世は、この動きを武力でおさえつけようと、ベルサイユに軍隊を集結させました。
これを知ったパリの市民たちは、1789年7月14日、武器を取って立ち上がり、バスチーユ牢獄(Bastille)をおそいました。

この知らせは、またたくまにフランス全土に広がり、税金で苦しんでいた農民たちも、領主の館をおそいました。
ここにフランス革命がはじまったのです。



                                     




自由と平等の人権宣言

1789年8月、国民議会は人権宣言を発表し、すべての人間の自由と平等を明らかにしました。
それにもとづいて封建制度の廃止を宣言し、農民を自由にするなどの改革が進みました。

1791年6月、国王一家は、妃マリー・アントワネットの実家のオーストリアに逃亡をはかり、深夜王宮をぬけだします。
しかし、逃亡用の大型馬車はスピードもあがらず、人目をひき、国境近くのバレンヌ村で逮捕されました。

この事件をきっかけに、市民たちから、国を捨てようとした王への信頼は失われました。




王政にかわり共和政が成立

1791年9月、フランスではじめての憲法が制定され、おだやかな共和政治をめざすジロンド党の内閣が生まれました。

すると、自国へ革命がおよぶことを恐れたオーストリアやプロイセンが、フランスへ攻めこんできました。
フランス国民は祖国と革命をまもるために、義勇兵としてたたかいました。

1792年9月、王政は廃止され、新たに国民公会が成立、共和政を宣言しました。
翌年の1793年1月、ルイ16世は処刑されてしまいます。







血で血をあらう恐怖政治

国王処刑後の1793年6月、ロベスピエール(Robespierre)らのひきいる急進派のジャコバン党が、戦時下を理由に独裁化し、
物価の統制、徴兵制の実施など徹底した変革を行い、これに反対する者を次々と処刑します。

(ジャコバン党とは、フランス革命が起こった直後、パリのジャコバン修道院で、貧しい農民や労働者の意見を革命の中で実現しようとしたグループで、ロベスピエールがリーダーでありました)

しかし、ジャコバン党の恐怖政治は、かえって人々の反感を買い、指導者のロベスピエールは、1794年7月、反対グループのクーデターで処刑されてしまいます。

1795年10月、独裁政治の恐ろしさを知ったフランスの指導者たちは、政治の権力を5人の総裁にふり分けた総裁政府をつくりました。
しかし、政治や社会は、まだ安定しませんでした。

やがて、ナポレオン1世(Napoleon)が、1799年11月、クーデターで政権をうばい、強力な指導者として統領政府を打ちたてます。
ナポレオンは、革命の波及を恐れる周辺諸国と戦って領土を拡大しました。




フランス革命の終結

しかしそのナポレオンもロシア遠征の失敗から失脚、ルイ18世(Louis XVIII)が即位をしてようやくフランス革命は終わりを告げました。

しかしこの革命はアメリカ独立に続いて、市民階級の力を誇示するものとなり、絶対君主制の体制が崩れて、民主主義社会へ移行していく先導の役割を果たしました。
7月14日はフランス革命記念日ですが、日本では 「パリ祭」(Bastille Day)の名前で知られています。






歓喜に寄す

1789年、フランスでは民衆が王政を打ち倒す革命が起き、青年ベートーヴェンも大いに刺激を受けた。

この頃、ベートーヴェンは教養の不足を感じボン大学聴講生となっていた。
この時期に、人々に熱狂的に支持されたのが、ドイツの詩人シラーによる 「歓喜に寄す」 の詩だった。

彼は大学で、人類愛を歌い上げたこの詩に、21歳で出会い、いつかはこの詩に曲をつけたいと心に誓う。
それから30年あまりを経て、聴力を完全に失うという試練も乗り越え、最後の交響曲 「第九」 が誕生する。

初演の時、指揮をしていたベートーヴェンは、曲が終わったことがわからず、観客の拍手も聞こえなかった。
彼は歌手に教えられて、やっと振り向き、聴衆の拍手喝采に気づいたという。

過酷な運命にさらされた彼が、絶望から立ち直って生み出した「歓喜の調べ」は、私たちの心に圧倒的な力強さで訴えかけてくる。



            ベートーヴェン 交響曲 第9番 (Symphony No.9)「合唱」(Choral) ニ短調



       

             フランス王国歴代君主、生没年、在位期間 






バレンヌ逃亡事件


フランス革命の先行きに不安をもった国王夫妻は、国外逃亡をはかった。

1791年6月20日の深夜、荷物をまとめ、宮殿を馬車であとにした。
むかう先は、王妃アントワネットの祖国オーストリアである。

だが実のところ、この脱出は予定日よりすでに一か月もズレこんでいた。
というのは、王妃が脱出用の馬車のサイズや内装を特注していたからである。

脱出の当日、国王一家は大型馬車に乗り込んだ。
馬車には、銀食器やワインの樽、その他もろもろが積まれていた。

荷物の積みすぎのため、馬車はスピードを出せなかった。
結局、国王夫妻は、追っ手に捕らえられてパリに連れ戻される。

事件を知った国民は、国王への不信をさらにつのらせた。
その結果、王と王妃はギロチン台に近づくことになってしまった。