マリア・テレジア  (Maria Theresia)  歴史年表     ヨーロッパ史    人名事典)(用語事典)
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女帝マリア・テレジア


マリア・テレジアは、広大な領土をヨーロッパにもつオーストリア・ハプスブルク家に生まれ、若くしてそれを相続しました。

オーストリアは、13世紀からハプスブルグ家によって支配され、15世紀には、代々、神聖ローマ皇帝の地位を受けつぐほど成長していました。
1760年、マリア・テレジアの父カール6世が亡くなり、男子の後継者がいなかったため、23歳の彼女が、父の領土や地位を受けつぐことになったのです。

しかし、周辺諸国は彼女の相続を認めず、領土を分割しようと攻め込んできました。
特にプロイセン(現ドイツ)のフリードリヒ2世(Frederick II)とは、生涯にわたってライバル好敵手となりました。



侵略が相次ぎ、窮地に立たされましたが、マリア・テレジアは子供を連れてハンガリーに単身乗り込み支持を求めました。

ハンガリーでは猛反発を食らいましたが、半年近くにわたる熱意ある弁論と悲しみに沈む彼女の姿は、ハンガリー議会の支持を得て、
ついにハンガリーは、マリア・テレジアを心の底から女王として認めることになります。

次いで、彼女は、300年以上も敵対していたフランスとも同盟を結び、またロシアとも同盟を結ぶなど、次々と有効な手をうち、戦争を優位に進めていきます。

こうして、同盟軍を加え強力となったオーストリア軍は、プロイセンをはじめとする侵略軍を撃退していったのです。
彼女は、政治手腕と戦争共に秀でた才能を発揮し、オーストリア帝国を守りぬきました。



               
マリア・テレジアは、ハプスブルグきっての才媛でしたが、心やさしい女王でもありました。
シェーンブルン宮殿内に作られた庭園や動物園を一般市民に開放するなどし、オーストリアの母とも呼ばれ、民衆から慕われました。

また家柄にこだわらず優秀な人材を登用して義務教育の導入、医療制度の改善、税制の見直しなど次々と国内改革を行い、オーストリアの近代化に努めました。


彼女の娘の一人に、フランス王室に嫁いだマリー・アントワネットがいます。

マリア・テレジアは生涯をとじるまで末娘のマリー・アントワネットの身を案じていました。
しかし、結果として母の不安は的中することになります。

その悲劇的な最期を知ることなく世を去ったことは救いだったのでしょうか。
しかし、マリア・テレジアが生きていてくれたら、マリー・アントワネットの運命も変わっていたかもしれません。




マリア・テレジア年表

カール6世(神聖ローマ皇帝)の娘でハプスブルク家の家督を相続したハプスブルク帝国の女帝。
フランツ1世(神聖ローマ皇帝)の皇后として、夫と共同統治を行った。(在位1745~1765年)

また、ハンガリー女王(在位1740~1780年)、ボヘミア王冠領女王(在位1740~1741年、
1743~1780年)も兼務した。マリー・アントワネットの母としても知られる。


1717年 神聖ローマ皇帝カール6世とエリザベート・クリスティナの長女として生まれる。
1736年 ロートリンゲン公フランツ・シュテファンと結婚

1740年 皇帝カール6世逝去。ハプスブルク家の全領土を相続
    プロイセンがシュレジエンに侵攻。オーストリア継承戦争はじまる

1756年 ハプスブルク家、フランス、ロシアと同盟を締結
1760年 オーストリア連合軍、プロイセンの首都ベルリンを攻略
1780年 マリア・テレジア死去






ハプスブルク家(Habsburg)

13世紀から20世紀初頭までの約700年間、汎ヨーロッパ的な性格と重要性を持っていた王朝。

その影響範囲はオーストリアばかりではなく、ヨーロッパ全域に及びました。戦争ではなく、
結婚政策で版図を拡大していったことも特徴的。

ハプスブルグ家には「汝は戦争せよ、我は結婚する」という有名な言葉があります。
戦争して相手の領土を奪うと、国は荒れ果て、多くの犠牲が出てしまいます。

そのため、土地を持った貴族と結婚して、その領土を相続するほうが得だと考えられたのです。

マリア・テレジアも、激務に忙殺されるかたわら、せっせと子宝づくりにはげみ、実に16人の子の母となりました。
ハプスブルク家の結婚政策を支えた一つの要因は、その多産の伝統でした。



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ヨハン・セバスティアン・バッハ(Johann Sebastian Bach)(1685~1750)


ドイツの作曲家・オルガン奏者。
200年続いた音楽家の家系の中でもひときわすぐれ、大バッハと称されています。

ヘンデルと並ぶバロック時代最大の音楽家の一人で、バロック音楽のすべての様式を総合し、多声音楽の極致を完成しました。
作品には、多数のオルガン曲やカンタータのほか「マタイ受難曲」「ブランデンブルク協奏曲」「平均律クラビア曲集」「フーガの技法」などがあります。

バッハが55歳のとき、フリードリヒ2世(Friedrich Ⅱ)がプロイセン王に即位。
フリードリヒ2世は、音楽や文学を好み、ベルリンのサンスーシ宮殿(Sanssouci Palace)には、当時の第一級の学者や音楽家が招かれていました。

1747年、ザクセンの宮廷作曲家に任命されたバッハは、フリードリヒ大王の宮殿を訪問、王の前でオルガンやチェンバロの妙技を披露しています。


                 「無伴奏チェロ組曲」(Cello Suites)第1番 ト長調


伴奏を伴わないチェロ1台によって演奏される独奏曲。
バッハが30代の頃の作品で、長らく練習曲とされてきましたが、20世紀のはじめにチェロ奏者パブロ・カザルスによって再評価され、チェロ定番曲として定着しました。




   
               神聖ローマ帝国 歴代君主、生没年、在位期間






プロイセン小史

ポーランドの古都、グダニスク(Gdansk)から車で約1時間。

煉瓦造りの巨大な城がヴィスワ川(Vistula)河畔に現れる。その名もマルボルク城(Malbork Castle)

13世紀に建てられたドイツ騎士団(Teutonic Order)ゆかりのこの城は、今も威風堂々。

この地方は、中世の時代にプロイセン(Prussia)と呼ばれ、激しい戦場となったところである。

ドイツ騎士団は、かつて十字軍に参加した修道士たちの武装集団であった。

彼らは、聖地エルサレム巡礼者の保護を目的として結成され、十字軍の中核として活躍した。



ドイツ騎士団はその後、バルト海沿岸の異教の地プロイセンへ進出。

先住民のプロイセン人たちは多神教的な信仰を持っていた。
そのため、異教徒を改宗させる使命を帯びたドイツ騎士団の格好の標的となった。

1274年、騎士団は活動拠点としてマルボルク城を築き、プロセインのキリスト教化を開始。
その後プロセインは、ドイツ騎士団領となり、プロイセン人たちも徐々に改宗していった。


1410年、勢力拡張を図ったドイツ騎士団は、隣国のリトアニアに侵攻した。
以降、ドイツ騎士団とリトアニアとポーランド連合軍との戦争状態が継続することになる。

1457年、ドイツ騎士団の敗退により、騎士団領はポーランド王国の支配下となった。
マルボルク城も明け渡され、ポーランド王の居城となる。

1525年、ポーランド王は、騎士団長であるホーエンツォレルン家(Hohenzollern)のアルブレヒト(Albert)をプロイセン公に任命。

これによりドイツ騎士団領は消滅、新たに「プロイセン公国」が成立し、後のドイツの母体となったのである。