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「三国演義」 です。1994年、中国中央電視台制作の連続TVドラマ。
中国飛天賞最優秀作品賞ほか、数々の映像大賞を受賞した超大作です。
1991年7月に国家的事業として撮影開始。製作費は当時の日本円で100億円超。
動員されたエキストラは延べ10万人以上と中国映像史上空前の規模で行われました。
日本では1995年、NHK衛星第2TVで日本語吹き替え版が放送されています。
本課では三国演義でもっとも有名な場面の一つ 「三顧の礼」 を題材としました。
さて物語は二世紀後半の後漢末期、中国には魏・呉・蜀の三国が乱立していました。
魏の曹操、呉の孫権は主君として勢力を拡大しつつありました。
その一方で蜀の劉備は部下に恵まれず、己が地盤を固めることに苦慮していた。
彼は諸葛亮という優れた軍師の噂を聞き、彼のもとを訪れるが門前払いをくらってしまいます。
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【第十四課 第一節】
刘备自从听到卧龙的名声, 就有意寻访; 除庶去时, 又告知他卧龙就是住在隆中的诸葛亮。
刘备大喜, 正在安排礼物, 要往隆中去求见, 忽然小军来报, 门外到了客人。
小 军: 主公,门外有一先生,腰系博带, 松形鹤骨,相貌非常,特来相探。
刘 备: 莫非是孔明先生,打开中门, 请。
(门外,司马徽等候在门口。刘备把司马徽请进后堂)
刘 备: 水镜先生, 自别仙颜,因军务繁忙,有失拜访,今得光临,大慰仰慕之心。请。
司马徽: 闻元直在此,特来一会。
刘 备: 元直已回了许都。
司马徽: 不对呀? 元直最恨曹操, 何故会去许都?
刘 备: 曹操, 因禁其母,徐母派人持手书召唤,故元直便去了许都。
司马徽: 哎呀, 中计了, 此乃曹操之计矣!
张 飞: 怎讲?
刘 备: 先生请坐下叙谈。
司马徽: 素闻徐母贤明,纵然被囚绝不肯持书召其子前往随曹操。
此书定然有诈。元直不去,其母尚存; 若去,其母必死无疑矣!
刘 备: (惊问) 何故?
司马徽: 徐母高义,深恶曹贼, 而且禀性, 刚烈,
今见其子奔明投暗, 定然羞愧难当。将以一死明大义呀。
关 羽: 生得其名, 死得其所。
司马徽: 元直糊涂, 元直糊涂啊。
(刘备听了, 半信半疑。谈了一会, 谈到了诸葛亮)
刘 备: 元直临行前,曾回马举荐南阳诸葛亮,请问先生其人如何?
(司马徽忽然笑道:)
司马徽: 元直要去,自去便了,又何必惹诸葛亮出来呕心沥血呢?
刘 备: 先生何出此言?
司马徽: 孔明与崔州平、石广元、孟公威、徐元直四人为密友。此四人才智过人,
惟孔明更识雄才大略,他曾对四人戏言 :诸君为官可至刺史、郡守!
四人反问孔明之志如何,他笑而不答, 平日常自比管仲乐毅,其才不可量也!
(刘备还未答话, 关羽道:)
关 羽: 哼, 水镜先生, 关羽不才曾读过 「春秋」, 管仲、乐毅乃春秋战国名人,功盖寰宇,
孔明倘以此二人自比,是否太过了吧?
司马徽: (微笑道:) 依我看来,非但可比此二人,而且还可以与另外二人相比。
关 羽: 噢?哪二人?
司马徽: 兴周八百年之姜子牙、开汉四百年之张子房。
将军有事, 不便打搅, 告辞。
刘 备: 先生, 实不相瞒,备正要同二位兄弟去卧龙岗求见孔明先生。
司马徽: 卧龙虽得其主,不得其时也,可惜,可惜呀!
(司马徽言罢,出门仰天大笑, 飘然而去)
刘 备: (叹了口气) 真乃隐居贤士也, 隐居贤士也。
次日,天气明朗,刘备带着关羽和张飞前往隆中山。
路过山边, 看见农民们一边种田, 一边唱歌; 那歌词非常动听。
苍天如圆盖,陆地似棋盘; 世人黑白分,往来争荣辱;
荣者自安安,辱者定碌碌; 南阳有隐居,高眠卧不足。
(刘备心旷神怡,兴奋异常地说:)
刘 备: 此歌谣看尽人是世炎凉,不知何人所作。
(一农夫荷锄赶牛迎面走来,刘备勒住马恭敬地问:)
刘 备: 敢问一声, 方才听见田畴歌声悦耳,词句情雅高深,不知何人所作?
农 夫: 乃卧龙先生所作。
刘 备: 卧龙先生住在何处?
农 夫: 此路往南,就是卧龙岗。岗前竹林中有茅庐,便是诸葛先生高卧之地。
刘 备: 多谢指点。
刘备大喜,匆匆谢过农夫,急急打马而去; 张飞、关羽紧随其后。
这里山峦叠嶂,树木高大、挺拔、葱绿,风景很美,很迷人。
其中有一座山蜿蜓曲折,真象一条静卧的苍龙,准备随时飞上天空。
关 羽: 真是好地方啊!
刘备三人骑马继续前行,来到一座山岗下,看到了几间掩映在苍松翠竹间的小屋。
刘备下马亲自敲打房门,里面出来一位小童。
小 童: 何人叩门?
刘 备: 有劳禀报,汉左将军、宜城亭侯、领豫州牧、皇叔刘备,特来拜见诸葛先生。
小 童: (一皱眉)罗罗嗦嗦,我记不得这许多名字!
刘 备: 你只说刘备求见便是。
小 童: 先生今早已出门了。
刘 备: 先生去了何处?
小 童: 踪迹不定,不知往何处去了。
刘 备: 先生几时能归?
小 童: 归期不定,或三五日,或十数日。
(刘备一时没了主意; 张飞此时来劲了,嘴里唠叨:)
张 飞: 大哥,既然不在,不如回去罢了。
刘 备: 再等片刻・・・。
关 羽: 大哥, 小童已说,先生归期不定,我等先回去,再使人来打听,
得知先生回来时再拜见不迟!
(刘备向童子:)
刘 备: 如先生归来,烦请禀报刘备拜访之事。礼物且收下。
小 童: 礼物不能收,话已记下。
(小童吱呀一声关了柴门进去)
刘备无奈,上马,一步一回头,恋恋不舍地离去。
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【注 釈】
【三国演义】 sān guó yǎn yì
三国志演義(さんごくしえんぎ)羅貫中が著した明代の長編歴史小説(全120回)
晋の陳寿が書いた正史の「三国志」に基づき、虚構を交えて通俗的な読み物風にしたもの。
魏を正統王朝とする正史に対し、その初代皇帝・曹操を悪玉に仕立て上げ、民衆の感情であった蜀漢正統論に立ち、
漢の末裔である劉備、武人の典型・関羽、生一本な野人の張飛、知謀の諸葛孔明らの活躍を生き生きと描いている。
「水滸伝」「西遊記」「金瓶梅」とともに四大奇書の一つとされる。
【罗贯中】 luó guàn zhōng
羅貫中(らかんちゅう)(1330~1400年)明初の歴史小説家。山西省太原(たいげん)の人。
「三国志演義」「隋唐演義」「平妖伝」などの通俗小説や戯曲などを多く書き残した。
【刘备】 liú bèi
劉備 (りゅうび)(161~223年)
蜀の国主。字は玄徳。河北省涿県出身。漢の景帝の子、中山靖王劉勝の子孫と称した。
関羽、張飛を得て、後漢末の黄巾の乱討伐に参加。
頭角を現し、諸葛亮 (孔明) を得て天下三分の計をめぐらし、呉の孫権と結び、赤壁の戦で南下する曹操の軍を破った。
のち荊州,益州 (四川省) を奪って三分の計を完成したが、孫権の攻撃により荊州を失い益州のみを根拠地とした。
221年漢室の復興を称して皇帝に即位、国号を漢とした。
【卧龙】 wò lóng
臥龍 (がりゅう) 伏龍(ふくりゅう)ともいう。
地に伏して隠れている龍、まだ雲雨を得ないため天に昇れない龍を指す。
三国時代、司馬徽 (しばき)が諸葛孔明を臥龍にたとえたことから、 まだ世に知られていない
年若い英才をさす言葉として用いられた。
【除庶】 chú shù
徐庶 (じょしょ) (生没年不明)
軍師。字は元直。当初、単福 (ぜんふく)と名乗り、軍師を探していた劉備に仕官した。
曹仁軍を打ち破るものの、曹操の策による、母親の筆跡を真似た偽手紙を受け取り、
止むなく劉備の元を離れるが、去り際に劉備に諸葛孔明を推薦する。
【诸葛亮】 zhū gé liàng
諸葛亮 (しょかつりょう)(181~234年)
軍師。字は孔明。山東省琅邪郡陽都県出身。
劉備の知遇に感じてこれに仕え、天下三分の計をたて、劉備を蜀の国主とした。
劉備の死後はその子の劉禅をたすけ、魏と戦いつつ雲南までも出兵した。
その出征のとき奉った「出師表」(すいしのひょう)は名文として名高い。
のち魏軍と対陣中、五丈原で病死した。
【隆中】 lóng zhōng
隆中 (りゅうちゅう) 現在の湖北省襄樊市 (じょうはんし)。
後漢末に若き頃の諸葛亮が住んだ土地として有名。(真偽不明)
後世の時代になり、古隆中と呼ばれるようになり、襄陽 (じょうよう)、
樊城 (はんじょう) の2つの名所を持つ名所として整備された。
【莫非】 mò fēi (is it possible that 不是~吗)
〔副詞〕(推測・懐疑)ではないだろうか。にちがいないのでは。
【司马徽】 sī mǎ huī
司馬徽 (しばき) (生没年不明)
導師。字は徳操。号は水鏡。 諸葛孔明と龐統 (ほうとう)の師。
劉備が襄陽の司馬徽を訪問した際に 「諸葛孔明、龐統のいずれかを手中に出来れば
天下を取れる」 と自分の弟子を評価し、彼らのうちいずれかを劉備の軍に仕官させることを勧めた。
【许都】 xǔ dū
許昌 (きょしょう)
河南省中部にある都市。
後漢末の196年、曹操が献帝を奉じてここを都とした。
旧名を許都といい、魏建国後に、許昌に改名された。
【曹操】 cáo cāo
曹操 (そう そう) (155~220年)
魏の国主。字は孟徳。沛国譙 (しょう) 県 (安徽省亳州市) 出身。権謀に富み、詩をよくした。
後漢に仕えて黄巾の乱を平定、袁紹を滅ぼし、華北を統一。
しかし赤壁の戦に敗れ、江南へ進出できず三国分立の形勢となった。
【南阳】 nán yáng
南陽 (なんよう)
荊州北部の南陽郡。現在の河南省南陽市。
後漢の光武帝こと劉秀の出身地であり、洛陽の南方にあるためこの名が付いた。
三国時代は別名、宛(えん)と称され、魏のほぼ南端に位置した。
劉備が駐屯していた新野城や、諸葛孔明が隠れ住んでいたといわれている
臥龍岡(がりゅうこう)がある。
【刺史】 cì shǐ 州の長官。
【郡守】 jùn shǒu 郡の太守。
【管仲】 guǎn zhòng
管仲 (かんちゅう) (? ~前645年)
春秋時代の斉の桓公の宰相。字は仲・敬仲。
富国強兵策を採り、桓公を覇者たらしめた。
貧時から終生変わらなかった鮑叔牙(ほうしゅくが)との交友は「管鮑の交わり」として有名。
「管子」 はその名に託した後世の書。
【乐毅】 lè yì
楽毅 (がっき) (生没年不明)
戦国時代、燕の武将。賢にして戦いを好む。
昭王の招きで燕にゆき、将軍となる。
のち斉を破り昌国君に封ぜらる。
昭王が没し恵王が立つと趙に逃れて重用された。
【关羽】 guān yǔ
関羽 (かんう)(? ~219年)
蜀の武将。字は雲長。司隷河東郡解良県 (現在の山西省運城市) 出身。
張飛とともに劉備に仕え、勇名をはせる。
魏を攻撃中、呉軍に背後をつかれ謀殺された。
後に、軍神、財神として神格化され、関帝と呼ばれ、民衆の信仰があつい。
【不才】 bù cái 〈謙〉不肖.
【功盖寰宇】 gōng gài huán yǔ 功績が天下に轟く。
【春秋】 chūn qiū
春秋 (しゅんじゅう)
古代の史書。五経の一つ。前480年頃成立。
魯の隠公の初年(前722年)から哀公の14年(前481年)まで12代242年間の年代記。
「孟子」によれば、孔子またはその門人の編纂(成立は前5世紀初め)とされ、
儒家の教科書に用いられた。
注釈に左氏・穀梁・公羊(くよう)の三伝があり、左氏伝が最も有名。
【孔明倘以此二人自比】
もし孔明が此の二人を自分に例えているとしたら。
「倘 」 tǎng もし……ならば.(= if 如果)
「以 」 行為の拠り所を示す介詞。・・・を/・・・で (= 拿, 用)
【姜子牙】 jiāng zǐ yá
太公望 (たいこうぼう) (生没年不明)
周の建国の功臣。姓は姜。名は呂尚、または呂望、字は子牙。
釣をしているところを文王に見いだされ周の軍師となる。
日本で釣人を太公望というのはこれにちなむ。
のち文王の子、武王を助けて殷を滅ぼし、封ぜられて斉国の基礎を築いた。
兵書 「六韜 (りくとう)」 は彼に仮託した後世の書。
【张子房】 zhāng zǐ fáng
張良 (ちょうりょう)(? ~前168年)
漢朝建国の功臣。字は子房。秦の始皇帝の暗殺に失敗。
のち黄石公から太公望の兵書を授けられ、劉邦の謀臣となって秦を滅ぼし、
鴻門の会に劉邦の危難を救い、遂に項羽を平らげ、漢の統一後、留侯に封ぜられた。
【实不相瞒】 shí bù xiāng mán (to tell you the truth 表明真相)
実を言えば。本当のことを言うと。
【张飞】 zhāng fēi
張飛 (ちょうひ)(? ~221年)
蜀の武将。字は益徳、または翼徳。河北省涿県出身。
劉備に仕え、大いに軍功を立て、その武勇は関羽と並び称された。
同郷に住む劉備が黄巾の乱にのぞんで義勇兵を集めようとした時、
関羽と共にその徒党に加わり、身辺警護をつとめた。
以後は終生、劉備から兄弟の様な親愛の情を受けることとなった。
また関羽が年長であった為、関羽を兄のように敬愛して仕えた。
【心旷神怡】 xīn kuàng shén yí
〈成〉心がゆったりとして愉快な気持ちである。
【炎凉】 yán liáng
〈喩〉人情の移り変わりの激しさ.
【山峦叠嶂】 shān luán dié zhàng
〈書〉幾重にも重なり合った山々。
【掩映】 yǎn yìng (= 配在一起很好看)
(二つのものが)互いに引き立て合う。
<用例> 黑白互相掩映。(黒白がいいコンストラストをなす)
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【口語訳】
臥龍(がりゅう)の名声を聞いた玄徳(劉備)は、是非とも彼を尋ねてみたいと願っていた。
折しも玄徳のもとを去った軍師、除庶(じょしょ)は、別れ際に、臥龍とはまさしく隆中(りゅうちゅう)に住む
諸葛孔明のことであると告げる。
玄徳は喜び勇み、孔明への贈り物を用意して、まさに隆中に向かわんとしていた。
ちょうどその時、城門の番兵から、客人がやって来たとの知らせがあった。
番 兵: 城外に客人がおみえです。痩身痩躯の身に広い帯を纏(まと)い、常人ならざる容貌の隠士で、
是非とも将軍に目通り願いたいとのこと。
玄 徳: よもや孔明先生ではあるまいか。中門を開き、丁重にお通しせい。
(城外で待っていたのは、水鏡先生司馬徽(しばき)であった。玄徳は導師を堂上に迎え入れた)
玄 徳: これは水鏡先生、軍務繁忙の折、仙顔を拝したくも無沙汰を重ね汗顔の至り、
このたび先にお尋ねを賜っては恐縮に耐えませぬ。
司馬徽: なに実は、此の所に、徐庶が仕えておると聞き、一見せんと立ち寄ったのじゃ。
玄 徳: その儀なれば、如何せん、徐庶は先刻、曹操のもと許昌(きょしょう)に向けて出立致しました。
司馬徽: そんなはずはあるまい。奴は曹操を憎んでおったゆえ、どうして許昌まで赴く理由があろうか。
玄 徳: 先頃、徐庶の田舎の老母が曹操の手に囚われ、その母より人づてに招きの手紙が届き、
それ故、徐庶は許昌に呼び戻されてございます。
司馬徽: 何と、それはまんまと曹操の計にはまったと言うわけじゃな。
張 飛: それは何故に?
玄 徳: 先生、こちらに座ってお話くだされ。
司馬徽: 徐庶の母なら、わしも知っとる。あの婦人は、世にいう賢母じゃ。
たとえ囚われようとも、自分の子を曹操のもとへ行かせるような婦人ではない。
おそらく偽の手紙であろう。もし徐庶が行きさえしなければ、老母も無事だったろうに。
徐庶が行っては、老母もかならず生きてはおるまい。
玄 徳: (驚いて問う) それはまたどうして?
司馬徽: 徐庶の母は、その義高くして、曹操を心底憎んでおる。
その気性は竹を割ったような一本気。息子が明主を捨てて昏(くら)きに走ったと知れば、
死をもって天下に詫びるだろう。
関 羽: 生きてその名を得、死してその栄誉を残す ・・・ か。
司馬徽: 徐庶の愚か者、己が母を知らずとは全くもって愚か者よ。
(玄徳は半信半疑の想いで聞いていたが、しばらくして諸葛孔明の話に言い及んだ)
玄 徳: 実は徐庶が暇を乞うて去る折に、南陽の諸葛孔明と申す人物を薦めておりましたが、
その孔明殿とは如何なる御仁であろうか。
(司馬徽は突然笑いだして言う)
司馬徽: おのれは他国へ去るくせに、無用な言葉を吐いて、孔明に迷惑をかけよるとは。
徐庶もしょうのない男じゃな。
玄 徳: 水鏡先生、そのお言葉の意味は?
司馬徽: 博陵(はくりょう)の崔州平(さいしゅうへい)、穎州(えいしゅう)の石広元(せきこうげん)、
汝南(じょなん)の孟公威(もうこうい)、そして徐庶、この四人は道友にして高学の士と知られておる。
ひとり孔明のみ才智に優れ、よく大略を心得ていた。
五人がかつて酒席を囲んで談笑している中、孔明はふと他の四人にこう語った。
「諸君が士官したあかつきには州長官か或いは郡の太守まで出世されることであろう」
これに対して他の四人が 「それでは孔明、貴殿の志や如何に」 と問うたところ、
孔明はニコリとしただけで何も答えなかったという。
平素より孔明はみずから、自分を管仲、楽毅(がっき)に擬して、甚だ自重していると聞いておる。
何とその才智はかり知れぬことであろうか。
(玄徳が言葉を返そうとする前に、関羽がひとつ問いかけた)
関 羽: ああ、水鏡先生。それがし不肖ながら、 「春秋」 には目を通しており申す。
管仲、楽毅は戦国時代の優れた宰相にて、その名も天下に聞こえし戦上手。
彼らに比べるとはその孔明という男、やや過分な矜持ではありますまいか?
(司馬徽はにこやかに笑って言う)
司馬徽: わしからいわせれば、この二人と比べるだけではなく、
さらにまた別の二人とくらべてもよい気がするのじゃが。
関 羽: なんと? してその二人とは。
司馬徽: 周の世八百年を興した太公望、或いは、漢の創業四百年の基礎をたてた
張子房にくらべても (孔明は) 決して劣るものではない。
・・・ さて忙しいところをとんだ邪魔をした。これにて失礼いたす。
玄 徳: 水鏡先生、実はこれからこの両名と臥龍岡に参り、孔明殿のご尊顔拝見したく思いまする。
司馬徽: ああ、臥龍先生、その主を得たりといえども、惜しい哉、その時を得ず!
(司馬徽はそう云いながらおもむろに天を仰ぎ、呵々大笑しながら、諷然と立ち去った)
玄 徳: (深く嘆じて) 孔明殿は、まさしく隠れた賢者に違いあるまい。
翌日、天気晴朗、玄徳は関羽と張飛を引き連れ、一路、隆中へ向かった。
山辺を行く道すがら、ふと見ると百姓たちが農作業のかたわら、なにやら歌を唄っていた。
歌の内容は何か人を引き付けるものがあった。
蒼天は円(まる)く、まん円く
地上は狭く、碁盤に似たり
世上は黒白(こくびゃく)に分ちありて
栄辱を争い、往来して戦いたり
さかえる者は、安々(やすらか)に
敗るるものは、碌碌(ろくろく)とあえぐ
ここ南陽はまさに別天地
高眠して臥するは誰ぞ
臥してまだ足らぬ、そは誰ぞ
(心が洗われるようなその歌を聴き、玄徳はやや興奮気味に語った)
玄 徳: 荒れすさんだ世上を見極めたこの歌、一体誰が作ったのか。
(一百姓が鋤を抱え牛を追いながらこちらへやって来た。玄徳は馬から降り、その百姓に一礼して問う)
玄 徳: お尋ね申す。さきほど耳に心地よき歌を聴いたが、詞もまた気高く高尚であった。
一体誰の作なのであろう。
百 姓: 臥龍先生の謡(うた)でごぜえます。
玄 徳: その臥龍先生はどこにお住まいか?
百 姓: あれに見える南の岡を、臥龍の岡と申しまする。
その岡の手前に一叢の竹林があって、その竹林の中の茅葺(かやぶき)の庵が
臥龍先生のお住まいでござります。
玄 徳: かたじけない。
玄徳はあわただしく百姓に礼を言い、喜び勇んで、馬に乗り、急いで走りだした。関羽と張飛もすぐ後を追う。
此のあたり、山々は幾重にも重なりあい、樹木は高々とそびえたつ。
その青々とした美しい風景は行く人を魅了せずにはおかなかった。
そのなか、延々と連なる山々の姿は、あたかも一条の伏せる青竜が、まさに天に昇らんかと身構えているようであった。
関 羽: ここはなんと美しい地方であることか。
玄徳たち三人は引き続き駒を進め、ひとつの岡のふもとにたどり着いた。
ふと見ると、松と青竹の対比がひときわ鮮やかな庵の小屋が目に入った。
玄徳は馬を降り、みずから庵の扉を叩いた。中から現れたのは一人の童子であった。
童 子: 誰だい? 扉を叩いているのは。
玄 徳: 童子、大儀ながら、取次いでもらいたい。自分は、漢の左将軍、宜城亭侯(ぎじょうていこう)
領は予州の牧(ぼく)、皇叔(こうしゅく)劉備というもの。
諸葛先生にまみえんため、みずからこれへ参ったのであるが。
童 子: 待っておくれよ。そんな長い名は、おぼえきれやしない。
玄 徳: それでは、劉備が先生にお会いしたいと、そう伝えてくれればよい。
童 子: おあいにくさま。先生は今朝早く出かけたまま、まだ帰っておりません。
玄 徳: 先生は、いずこへお出でなされたか。
童 子: どこへお出かけやら、ちっとも分りません。踪蹟不定(そうせきさだまらず)ということで。
玄 徳: 先生は、いつ頃、お帰りであろうか。
童 子: さあ、いつお帰りになるやら。時によると三、五日。あるいは十数日かかるやも知れません。
(玄徳は、一時、落胆のあまり茫然とした。そうすると、そばから張飛がぶつぶつ口を挟んだ)
張 飛: いないものは仕方がない。早々と帰ろうじゃありませんか。
玄 徳: いやもうしばらく待ってみたいが ・・・。
関 羽: 兄者、童子が言っているように、先生はいつお帰りになるやら、ここはいったん戻って、
また他日、使いでも立てて、在否を訊かせた上、改めてお越しあってはいかがです。
(玄徳は童子に向いて言う)
玄 徳: 先生がお帰りになったら、劉備が参ったことをお取次ぎ願えまいか。
そして先生への贈り物はここに。
童 子: お取次ぎは致しますが、贈り物は受け取るわけにはまいりません。
(童子はそう言うと、柴の扉をばたんと閉めてしまった)
玄徳はやむなく、馬に乗り、何度も振り返って、後ろ髪を引かれながらも、ついにその場を立ち去った。