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十六課
十六课
有的日本学生
前几天,我和丈夫在十三路汽车站看到了两名背着大旅行袋的日本青年。
他们一边看地图,一边望着站牌对照,脸上露出为难的样子。
我丈夫会说日语,便主动走过去跟他们打招呼。通过谈话,才知道他们是想在附近找一家饭店住。
我们向他们介绍了北京饭店。他们回答:“已经问过了,价钱太贵。”
于是又向他们介绍了民族饭店,告诉他们“那里的房间还可以,价钱也比较便宜,只是稍微远些。”
他们俩非常高兴地接受了这个建议,并急忙打听坐车路线及下车地点。
我说:“坐出租汽车只要十块钱就能到,而且你们都背着这么大旅行袋,上下车很不方便。”
两名日本青年听后马上说:“如果坐公共汽车不方便的话,我们就走着去。
因为在旅行计划中没有这笔费用。
旅行袋虽然很重,但算不了什么,这对我们也是一种锻炼。”
语气中充满了乐观和信心。
我们只好为他们画了一张详细的路线图。
他们俩用汉语说着谢谢和我们告别了。
望着那两名日本青年渐渐离去的背影,我想了很多很多・・・・・・。
他们不怕吃苦的精神给我留下了难忘的印象。
通过谈话,才知道他们是想在附近找一家饭店住。(通过交谈得知,他们在这附近找一家可以住的酒店)
話をしてみると、彼らは、この近くで泊まるホテルを探していることがわかった。
副詞「才」は、前節の条件が備わってはじめて、後節の情況が成立することを表す。(~してはじめて)
(用例)看报纸才知道。新聞を読んではじめて知った。
(用例)听了他的解释,才明白是怎么回事。説明を聞いて、どういうことなのかがやっと分かった。
(用例)一个人生活之后,我才明白父母的可贵。一人暮らしをしてはじめて、親のありがたさがわかった。
只是稍微远些。(不过多少远些)ただちょっと遠いが。
副詞「稍微」「多少」は、数量・程度が少ないことを表す。(数量少或程度浅)
(用例)稍微等一会儿。ちょっとお待ちください。
(用例)稍微知道一些汉语。中国語なら少し知っている。
(用例)多少会说汉语。いくらか中国語が話せる。
(用例)多少舒服了一些。いくぶん気分がよくなった。
「多少」は、否定文でも用いられ、数量・程度が少ないことを表す。
この場合「多少」は数詞である。(さほど、それほど)
(用例)不会说多少汉语。中国語はいくらも話せない。
(用例)用不了多少个日子。さほど長い日数はかからない。
(用例)在日本没有多少人知道。日本ではそれほど知られていない。
但し「多少」は、限定副詞「只」と共起できない。
(用例)那个比这个只稍微便宜一点儿。あれはこれより少しだけ安い。
(用例)他什么也没说,只是稍微笑了笑。彼は何も言わずに、少しだけ微笑んだ。
但し「多少」は、命令文には用いられない。
(用例)稍微小点声!声を小さくしてくれ。
(用例)请稍微安静点!ちょっと静かにしてくれ。
(十六課 ある日本人学生)
先日、私と夫は十三番のバス停で大きな旅行バッグを背負った二人の日本人青年を見かけた。
地図を見ながら、バス停の標識と照らし合わせている。だが彼らは困った顔をしている。
主人は日本語が話せるので、歩み寄ってこちらから声をかけた。
話をしてみると、彼らは、この近くで泊まることのできるホテルを探していることがわかった。
我々は彼らに北京飯店を紹介した。彼らは答えた。「すでに訪れました。でも値段が高すぎます」
そこでまた、彼らに民族飯店を紹介して言った。
「あそこの部屋はまあまあだし、値段も割と安い。ただちょっと遠いが」
二人はとても喜んでこの提案を受け入れた。そして急いでバスの路線と下車する場所を尋ねた。
私は言った。「タクシーに乗ればたった十元で行ける。
それに君たちは、こんな大きなバッグを背負っているので、乗り降りが大変だと思う」
それを聞いた二人の日本人青年は、「バスで都合が悪いなら、私たちは歩いて行きます。
なぜなら旅行の計画にはバスの費用が含まれていないからです。
重いけど、たいしたことはありません。これも私たちにとっては、ひとつの鍛錬です」
彼らは楽観的で自信に満ちた口調だった。
我々は彼らのために詳細な路線図を一枚書いてあげるしかなかった。
彼ら二人は中国語でありがとうと言って私たちと別れた。
去っていく二人の日本人青年の後ろ姿を見ながら、私はいろいろと考えた。
彼らの苦労を恐れない精神は私に忘れ難い印象を残した。
十七課
十七课
不正确的表现
我们的报纸天天改进,但是语言方面还是有些问题。
比如,有一个标题:“积极建设无水草原”。草原是需要水的,怎么“建设无水草原”呢?
这很怪。看底下的文章,我才明白。原来是有些草原缺水,现在进行建设,要使它有水。
再想一想,“建设无水草原“,可能吗?
还有一个标题,叫“鼓舞我们为明天而战斗”。语法完全正确,用词也不能说它有什么毛病。
但是细想一想,意思不大合适。我们说“为什么而战斗”,总是有个东西要争取。
但是这个明天呢,你只要今天晚上睡一觉,明天自然就来了。你为什么为明天而战斗呢?
这些毛病属于语法的问题,还是属于用词的问题呢?说不出来。
我看,以上两个例子不是语法用词的问题,这是没有用脑子好好想造成的。
生活中我们也常常看到一些不正确的语言表达现象。
在一个游泳池的衣柜上写着:“衣服放在箱内,锁上自己带钥匙”。
这句话也很奇怪。衣服放在箱内,怎么还要把自己锁上?
当然,仔细想,能懂得它的意思,是“衣服放在箱内,锁上以后自己带着钥匙”。
这种毛病也是只要好好想一想就可以解决的。
我提到的都是最简单、最初级的问题。我们应该尽量不要犯这一类的错误。
看底下的文章,我才明白。(读了下面的文章,我终于明白了)下の文章を読んでみて、私はようやくわかった。
副詞「才」は、前節の条件が備わってはじめて、後節の情況が成立することを表す。(~してはじめて)
(用例)看报纸才知道。新聞を読んではじめて知った。
(用例)听了他的解释,才明白是怎么回事。説明を聞いて、どういうことなのかがやっと分かった。
(用例)一个人生活之后,我才明白父母的可贵。一人暮らしをしてはじめて、親のありがたさがわかった。
语法完全正确,用词也不能说它有什么毛病。文法は完全に正しいし、言葉遣いにもこれといった問題があるとは言えない。
疑問代詞「什么」は、動詞「有」の目的語となり、兼語文を構成し、強調の語気を表す。(并没有)
(用例)这部电影没有什么精彩的场面。映画はこれといった見せ場がなかった。
(用例)提高外语水平没有什么特别的秘诀。外国語の上達にはこれといった秘訣はない。
(用例)周围找不到有什么奇特的景观。周囲にはこれといった珍しい景観は見当たらない。
衣服放在箱内,怎么还要把自己锁上?(衣服放在柜子里,为什么还要给自己上锁呢?)
服はロッカーの中に入れて、どうして更に自分に鍵をかけなければならないのか。
結果補語「上」は、動詞の後に用い、事物を一定の場所に添加・定着させることを表す。
(用例)往花瓶里插上花。花瓶に花を挿す。
(用例)在院子里种上树。庭に木を植える。
(用例)在色拉上倒上调味汁。サラダにドレッシングをかける。
(十七課 不適切な表現)
我々が読んでいる新聞は日々改善されているが、言語の面ではまだ若干問題がある。
たとえば、「水のない草原を積極的につくる」というタイトルがある。
草原には水が必要なのに、どうやって「水のない草原をつくる」のか。
これはどうもおかしい。下の文章を読んでみて、私はようやくわかった。
もともと一部の草原では水が不足していた。そこで現在、水を供給するための建設を進めているという。
だがよく考えてみれば「水のない草原をつくる」という表現は、果たして適切といえるのだろうか?
「明日に向けて戦う」というタイトルもある。文法は完全に正しいし、言葉遣いにも問題があるとは言えない。
でもよく考えてみると、意味がしっくりこない。
我々が「何かのために戦う」と言えば、常に勝ち取らなければならないものがあるはずだ。
しかしこの「明日のために戦う」というのはどうしたものだろう。
今夜寝さえすれば、自然に明日がやって来る。どうして明日のために戦う必要が生じるのだろうか?
これらは文法の問題なのか、それとも用語上の問題なのか? なんとも言えない。
以上二つの例は、文法や用語の問題ではなく、頭でよく考えていないことから生じた問題だと思う。
我々は生活の中でしばしば一部適切を欠く言語表現を耳にすることがある。
あるプールのロッカーには、「服をロッカーに入れ、自分に鍵をかけて鍵を持つこと」と書いてある。
これもおかしい。服はロッカーの中に入れて、どうして更に自分に鍵をかけなければならないのか。
もちろん、よく考えれば、「服はロッカーの中に入れ、鍵をかけて自分で鍵を持つ」と理解できる。
これも、よく考えさえすればすぐに解決できる問題である。
私が語ったことは最も単純で初歩的な問題だ。我々はできるだけこの種の間違いを犯さないようにすべきである。
十八課
十八课
汉语和日语
中日两国文化交流的历史十分悠久,特别是在语言方面,日语不但使用着许多汉字,而且还从古代汉语中吸收了不少词语。
当我们一打开日文报纸,就会发现日语里有许多用汉字的词语,在词形和意思上,都跟汉语里的词语基本相同。
根据日本学者的统计,在3805个常用词中,日语和汉语同形的竟有1013个。这些同形词的意思大都相同。
这点有利于中日两国人民互相学习日语和汉语。
此外,还有不少词语虽然词形不完全相同,但是由于用的是汉字,所以双方都很容易理解它们的意思。
在上述3805个常用词当中,属于这类词形不同,不过可能猜出词义的也有741个。
把1013和741这两个数字加起来,一共是1754个,已经占3805个常用词的百分之四十六了。
有时我们在一份普通的日文报纸上,能够看见许多“面熟“的词语,即使不懂日语,也能猜出它们大概的意思。
所以有人说如果掌握一点儿日语的语法,那么要看懂日文报纸,就不是太难的事了。
然而,日语到底是日语,在上述常用词中还有一半以上是不能词形上猜出意思的。
这一部分词语,对于中日两国人民互相学习对方的语言,却是极大的难点。
日语不但使用着许多汉字,而且还从古代汉语中吸收了不少词语。(日语不仅使用了很多汉字,还从古代汉语中吸收了很多词语)
日本語は多くの漢字を使用しているだけでなく、古代中国語からも多くの語句を吸収している。
接続詞「不但~还」は、事柄が増加または範囲が拡大することを表わす。(~ばかりでなく、さらに)
(用例)不但有啤酒,还有洋酒。ビールもあれば洋酒もある。
(用例)她不但会英语,还会汉语。彼女は英語だけでなく、中国語もできる。
(用例)他不但成绩好,还擅长体育。彼は成績がいいばかりでなく、さらにスポーツにも長じている。
当我们一打开日文报纸,就会发现日语里有许多用汉语的词语。(打开日语报纸一看,日语中有很多使用汉字的词语)
日本語の新聞を開いてみると、日本語には漢字を用いた語句がたくさんある。
副詞「一~就」は、前節を条件として常に後節が成立することを表わす。(いったん~すれば)
(用例 一看就明白。見ればわかる。
(用例)一喝酒,就脸红。酒を飲むとすぐ顔が赤くなる。
(用例)一到冬天就感冒。冬になるときまって風邪をひく。
把1013和741这两个数字加起来,一共是1754个。1013と741を足すと1754個になる。
結果補語「起来」は、分散している事物を結合・集中させることを表す。
(用例)把两条绳子接起来。二本の縄を繋ぎ合わせる。
(用例)把零钱拼凑起来买衣服。小銭をかき集めて服を買う。
(用例)那个国家有德、法两国合起来那么大。その国はドイツとフランスを一緒にしたくらい大きい。
即使不懂日语,也能猜出它们大概的意思。日本語がわからなくても、だいたいの意味を推測することができる。
接続詞「即使~也」は、前節で仮定の事柄を述べ、後節でそれでも変わらぬ判断が提示される。(たとえ~であっても)
(用例)即使下雨也要举行。雨天決行。
(用例)即使不看也知道。見なくてもわかる。
(用例)即使如此,地球也转动的。それでも地球は動く。
如果掌握一点儿日语的语法,那么要看懂日文报纸,就不是太难的事了。
日本語の文法を少しでもマスターすれば、日本語の新聞を読むのは、それほど難しいことではない。
接続詞「如果~那么就」は、前節で仮定の事柄を述べ、後節でそれにもとづく判断・結果を示す。(~ならば、それでは)
(用例)如果森林没了,那么小动物就会灭亡了。森がなくなれば、そこで小動物は滅びてしまう。
(用例)如果他一定要去,那么就让他去。彼がどうしても行きたいというのであれば、彼に行かせよう。
(用例)如果还是打平那么就要罚点球决胜了。それでも引き分けた場合はペナルティーキックで勝負を決める。
却是极大的难点。実際上、きわめて大きな難関となっている。
副詞「却」は、事実が一般的道理や予想に反することを表す。(実のところ)
(用例)本来是相扑冠军,却经常输。横綱なのに、実際よく負ける。
(用例)虽然年轻,却有丰富的专业知识。若いとはいえ、専門知識は豊富だ。
(用例)这件衣服虽然贵,质量却不太好。この服は高いのに、品質があまり良くない。
(十八課 日本語と中国語)
中日両国の文化交流の歴史はとても古く、特に言語の面では、日本語は多くの漢字を使用しているだけでなく、
古代中国語からも多くの語句を吸収している。
日本語の新聞を開いてみると、日本語には漢字を用いた語句がたくさんある。
語形も意味も、中国語の語句とほぼ同じである。
日本の学者の統計によると、常用語3805語のうち、日本語と中国語が同形なのはなんと1013語。
これらの同形語の意味はおおむね同じである。
これは中日両国民がお互いに日本語と中国語を学ぶ上で大いにプラスとなる。
また、語形はまったく同じではなくても、漢字を使っているので、お互いに意味がわかりやすい語句も少なくない。
常用語3805個のうち、語形は異なるが、意味を推測できる語も741個ある。
1013と741を足すと1754個になり、常用語3805語の46パーセントになる。
普通の日本語の新聞には、「見覚えのある」語句がたくさん載っていて、
日本語がわからなくても、だいたいの意味を推測することができる。
そのため、日本語の文法を少しでもマスターすれば、日本語の新聞を読むのは、
それほど難しいことではないという人もいる。
しかし、日本語はあくまでも日本語であり、上記常用語の半分以上は、語形から意味を推測できない。
中日両国の人々がお互いに相手の言葉を学ぶ際に、これらの語句の修得は実際上、きわめて大きな難関となっている。
十九課
十九课
从今天开始寒假。
早晨醒来,我觉得屋子里有点儿冷。
抬头往窗外一看,原来下雪了。
我真不想起床,可一看表,不马上起床非误了汽车不可,上课会迟到的。
我只好穿上衣服,吃了点儿早饭,拿着雨伞就出门了。
刚走几步,我发现忘了带书包,赶紧又回去,拿了书包,然后匆匆忙忙向汽车站走去。
我家离汽车站不远,走五分钟就可以到。
我有一个同班同学姓铃木,也住在这附近,我们俩每天一起上学。
可是今天汽车来了,铃木却没来。
我只好一个人上了车。
平时十分拥挤的汽车,今天人倒不多,我心理想:铃木为什么没来呢?
他是感冒了还是发生了什么事?
我决定放学后顺便去他家看看。
汽车开得比较慢,九点多才到学校。
我下了车就向校门跑去。
奇怪,校门锁着。
这时候有一个同学走了过来,我正想告诉他校门锁着进不去,他倒先问我:
“你来学校干什么,你不知道从今天起学校放寒假了吗?”
不马上起床非误了汽车不可。(不马上起床的话就赶不上公交车)すぐに起きないとバスに乗り遅れてしまう。
「非~不可」は、必然性や必要性を強調する副詞。(必须,一定)
(用例)非去不可。行かねばならぬ。
(用例)他非要看不可。どうしても見たがる。
(用例)并不是非干不可的。強いてやれとは言わない。
只好穿上衣服,吃了点儿早饭。やむなく服を着て、軽く朝食をとった。
結果補語「上」は、服や靴などを身に着けることを表す。
(用例)围上围巾。マフラーを巻く。
(用例)披上大衣出门。コートを引っかけて出かける。
(用例)鞋子太小穿不上。靴が小さすぎてはけない。
平时十分拥挤的汽车,今天人倒不多。(平时公交车很挤,今天却不怎么挤)
いつもは混んでいるバスだが、今日はたいして混んでいない。
「倒」と「却」は、道理や予想に反する語気を表す副詞。
(用例)春天到了,天气倒冷起来了。春になったのに、かえって寒くなった。
(用例)明明是四月,却下雪了。四月なのに雪が降った。
「倒」には、語気を和らげる婉曲の用法がある。
(用例)倒也是。それはそうですね。
(用例)明天还要下雪? 那倒不一定。明日も雪が降るって? それはどうかなあ。
汽车开得比较慢,九点多才到学校。(公交车迟迟不进,九点多才到学校)
バスは遅々として進まず、9時過ぎにやっと学校に着いた。
時間副詞「才」は、時間を表す語句の後に置かれると時間が遅いことを表し、前に置かれると時間が早いことを表す。
① (時間が遅い)
中午才走了。(お昼になってようやく出かけた)
二十岁才结婚了。(二十歳になってやっと結婚した)
② (時間が早い)
才中午就走了。(まだお昼なのに、もう出かけた)
才二十岁就结婚了。(まだ二十歳なのに、もう結婚した)
(十九課 今日から冬休み)
朝目覚めると、部屋の中が少し寒いような気がした。
窓の外を見上げると、雪が降っていた。
起きたくはなかったが、時計を見ると、すぐに起きないとバスに乗り遅れて授業に遅刻してしまう。
やむなく服を着て、軽く朝食をとり、傘を持って出かけた。
数歩歩いたところで鞄を忘れたことに気づき、急いで戻って鞄を取り、バス停に向かって急いだ。
私の家はバス停からそう遠くはない。歩いて5分で着ける。
この近くに住んでいる鈴木というクラスメートがいて、毎日一緒に学校に通っている。
今日はバスが来たのに鈴木は来なかった。私は一人でバスに乗り込んだ。
いつもは混んでいるバスだが、今日はたいして混んでいない。「鈴木はどうして来なかったんだろう」と思った。
風邪を引いたのか、それとも何かあったのか。放課後、彼の家に寄ることにした。
バスは遅々として進まず、9時過ぎにやっと学校に着いた。
私はバスを降りるとすぐ校門に向かって走った。校門には鍵がかかっていた。
その時一人のクラスメートがやって来たので、鍵がかかっていて入れないことを伝えようとした。
だが、彼が先に言った。「何しに学校に来たの、今日から学校が冬休みだと知らなかったのかい?」
二十課
二十课 大冰箱
在我们小镇上,冰箱、彩电、洗衣机是结婚时不可缺少的三大件。
可是由于我们工作时间短,两个人都没存多少钱,双方的老人又没钱帮助我们。
所以,结婚时,我们家里除了彩电,别的电器都没有。
丈夫说:“没有洗衣机没关系,我就是咱们家的全自动洗衣机,还省电呢!”
我一笑,心想:那么没有冰箱呢?
春天,丈夫在院子里开出一小片地,种上黄瓜、西红柿,栽上茄子和辣椒。
经过我们精心地施肥浇水,不长时间,我家的小菜院子就开始出“产品”了。
想吃凉菜时,就随手摘几根黄瓜,想吃炒菜也特别方便,把油倒进锅里再去摘一把辣椒、茄子都来得及。
天热的时候,下班回到家里,摘个西红柿用水一冲就可以吃。
小小的菜园就成了夏季我家省钱省时又保鲜的大冰箱了!
穷家有穷家的欢乐,没钱有没钱的办法。
两个人都没存多少钱。(两个人都没有存下多少钱)二人ともあまり貯金ができていなかった。
不定数量を表す数詞「多少」は、平叙文で用いられた場合、数量・程度が多いことに重点がある。(かなりの、どれだけ多くの)
(用例)喝多少酒都不会醉。どれだけ酒を飲んでも酔わない。
(用例)为夺得冠军,流出了多少汗水啊! 優勝するために、彼はどれだけ汗を流したことだろう。
否定文で用いられた場合は、逆に数量・程度の少なさを表す。(たいして、いくらも~ない)
(用例)没喝多少酒,脸就红了。酒をいくらも飲まないのに顔が赤くなった。
(用例)没走多少路,我就累得走不动了。たいして歩かないうちに、疲れて歩けなくなった。
双方的老人又没钱帮助我们。お互いの親たちも、私たちの面倒をみる金がないときてる。
副詞「又」は「さらに、その上」の意味で、新たな情況が加わるという累加関係を表す。
(用例)天很黑,路又滑,真难走! あたりは暗いし、道は滑るし、歩きにくいったらありゃしない。
(用例)天很冷,又没有穿厚衣服,所以感冒了。寒いし、そのうえ厚い服も着ていないので風邪をひいた。
(用例)孩子多,又有两位老人,生活很困难。子供が多く、そのうえ二人の老人もいるので生活はとても苦しい。
我就是咱们家的全自动洗衣机,还省电呢。俺が我が家の全自動洗濯機だから節電にもなるよ。
副詞「还~呢」の形式は、やや誇張して、事実を相手に確認させる語気を表す。
(用例)还说呢。よく言うよ。
(用例)回家还早呢。帰るにはまだ早いよ。
(用例)脸上还写着呢! 顔に描いてあるじゃない。
种上黄瓜、西红柿,栽上茄子和辣椒。キュウリやトマトを植え、ナスや唐辛子を植えた。
結果補語「上」は、動詞の後に用い、事物を一定の場所に添加・定着させることを表す。
(用例)往花瓶里插上花。花瓶に花を挿す。
(用例)在院子里种上树。庭に木を植える。
(用例)在色拉上倒上调味汁。サラダにドレッシングをかける。
把油倒进锅里再去摘一把辣椒、茄子都来得及。油を鍋に入れてから唐辛子やナスを摘んでも充分まにあう。
副詞「再」は、ある動作・状況の後、引き続きある動作を行うことを表す。(~してから、然后)
(用例)天晴了我们再走吧。晴れたら出かけよう。
(用例)看看东西再买。買うのは実物を見てからにする。
(用例)看完电影,再去买东西。映画を観てから買い物に行く。
摘个西红柿用水一冲就可以吃。トマトをもぎ取って水でさっと流せばすぐ食べられる。
副詞「一~就」は、前節を条件として常に後節が成立することを表わす。(いったん~すればすぐ)
(用例)一看就明白。見ればすぐわかる。
(用例)一喝酒,就脸红。酒を飲むとすぐ顔が赤くなる。
(用例)一到冬天就感冒。冬になるときまって風邪をひく。
小小的菜园就成了夏季我家省钱省时又保鲜的大冰箱了!
こうして小さい菜園は、夏の我が家のお金と手間を省き、さらに鮮度を保つ大きい冷蔵庫にもなった。
副詞「就」は、前節の条件・原因を受け、後節で判断・結論を導く。(そこで、すると、于是)
(用例)实验就这样终于成功了。かくして実験はついに成功した。
(用例)他们就成了好朋友。彼らはこうして仲の良い友達になった。
(用例)一所医院就这么办起来了。こうして一つの病院が設立された。
(二十課 大きな冷蔵庫)
うちの町では冷蔵庫、カラーテレビ、洗濯機が結婚には欠かせないビッグ3だ。
だが私たちは働く時間が短いので、二人ともあまり貯金ができていなかった。
また、双方の両親も私たちを援助するだけのお金がなかった。
だから、結婚したとき、うちにはカラーテレビ以外の電化製品はなかった。
夫は「洗濯機がなくても大丈夫、俺が我が家の全自動洗濯機だから節電にもなるよ」と言う。
私は笑って、じゃあ冷蔵庫はどうなの、と心の中で思った。
春になると、夫は庭に小さな畑を耕し、キュウリやトマトを植え、ナスや唐辛子を植えた。
肥料や水をていねいにやった結果、しばらくして我が家の庭先から「収穫物」が得られるようになった。
おひたしが食べたいときには、キュウリを何本か摘みとる。
炒め物を食べたいときにも手間隙はいらない。油を鍋に入れてから唐辛子やナスを摘んでも充分まにあう。
暑い日などに仕事から帰ってきたら、トマトをもぎ取って水でさっと流せばすぐ食べられる。
こうして小さい菜園は、夏の我が家のお金と手間を省いてくれた。さらに鮮度を保つ大きい冷蔵庫にもなった。
貧しい家には貧しい家なりの楽しみがあり、またお金がなければないで、それなりの方法があるものだ。
二十一課
二十一课 文化与文化(1)
中国人最普遍的问候语是“您吃饭了吗”这句话不知道说了多少年了。
我们只知道说这句话之前,中国人见面问的是“先生无恙乎。”
人是保守的,一句问候语,说了那么久也不觉得烦。
人有时候也是固执的。
当我们明白了地球绕着太阳转之后,我们还说:“太阳出山了”,
“太阳落山了”,而不必担心别人笑我们没有天文学的常识。
同样,到了现在“您吃饭了吗?”还是最普遍的问候语。
有些西方人对“您吃饭了吗?”有些反感。
他们认为,吃饭是我的私事,你管不着,你管,就是干涉我的自由。
有些中国人因此有点儿惭愧、脸红,似乎中国人太庸俗,还是英国人见面谈天气高雅、文明。
这句话不知道说了多少年了。この言葉は、いつごろから使われてきたのか、確かなところは分からない。
文中の動態助詞「了」は完了を意味し、文末の語気助詞「了」は事態の継続を暗示している。
現在に至るまで使われ続けてきたが、これからも続きそうだというニュアンスを含んでいる。
(用例)学了一年汉语。中国語を一年学んだ。
(用例)学了一年汉语了。中国語を学んで一年になる。(現在も学んでいる)
(用例)在北京住了三年。北京に三年住んだ。
(用例)在北京住了三年了。北京に住んで三年になる。(現在も住んでいる)
(二十一課 文化と文化1)
中国人の最も一般的な挨拶は「食事はすませたか?」である。
この言葉は、いつごろから使われてきたのか、確かなところは分からない。
この言葉が使われる以前、中国人が顔を合わせると「ご達者ですか?」という言葉が使われたことだけは知っている。
人というものは本来保守的なのだろう。同じ挨拶を長い間繰り返したとしても、それほど煩わしいとは思わない。
また人は時に旧態依然な一面もある。
地球が太陽の周りを回っていることが明らかになっても「太陽が山から昇った」「太陽が山に沈んだ」などと言う。
それでも天文学の常識がないと人に笑われる心配はない。
だから現在に至っても「食事はすませたか?」という挨拶が定着しているのは、やはり同様の理由によるものなのだろう。
一部の欧米人は「食事はすませたか?」という挨拶に、いささか反感を感じるようだ。
彼らにとって食事はプライベートに属することである。
だから中国人が、いちいち食事のことに口を出すのは、他人のプライベートに干渉することだと考えているのだ。
そのため中国人の中には、いささか恥じ入って顔を赤らめ、自分たちは文化的に遅れているように思う者もいる。
彼らは、英国人同士が顔を合わせて天気の話などをするのは、やはり上品で、文明的だと思っているようだ。
二十二課
二十二课 文化与文化(2)
这都是误解。中国人问 “您吃饭了吗?”跟英国人见面谈天气一样,都是一种习俗,一种文化现象。
如果中国人说,我又不出门航海,又不洗被子,大谈天气,乱费时间,这当然是可笑的。
那么英国人反感中国人问“您吃饭了吗?”,同样是可笑的。
作为一种文化现象,“您吃饭了吗?”“您到哪儿去?”都只是一种礼貌用语。
中国人认为,人和人应当互相关心和爱护,吃饭是你的事,到哪儿去,也是你的事,
我问,表示我关心、爱护、尊重你、如果我瞧不起你,恨你,那就我不问了。
所以,我们学习一种语言时,也要尊重这一种文化,而不是用自己的文化来代替或改造这一文化,
这样,就会更加深彼此的了解和友情。
我又不出门航海,又不洗被子。船で海に出るわけでなく、また布団を洗濯するわけでもない。
副詞「又~又」は、動作・状況の並列関係を表す。
(用例)又吃又喝地花钱。飲んだり食ったりして金を使う。
(用例)又在写小说又在做诗。小説を書いたり詩を作ったりしている。
(用例)他又会説汉语,又会説英語。彼は中国語も話せるし、英語も話せる。
ただし、主語が異なる場合は「也」が用いられる。
(用例)他会説汉语,我也会説汉语。彼は中国語が話せるし、私も中国語が話せる。
那么英国人反感中国人问“您吃饭了吗?”,同样是可笑的。
それならば、英国人が中国人の「食事はすませたか?」に反感を抱くことも、同じくおかしな話だ。
「那么」は、接続詞として、結論や判断を表す文の冒頭に用いる場合がある。(では、それでは、それならば)
(用例)那么,再见。(では、また)
(用例)那么,开始吧。(それでは、はじめよう)
(用例)如果他一定要去,那么就让他去。(彼がどうしても行きたいというのであれば、彼に行かせよう)
動詞「用~来」の形式は、ある方法・手段を用いてある目的を達することを表す。
(用例)用钱来解决。金で解決する。
(用例)用三个人来搬运。三人掛かりで運ぶ。
(用例)不知道该用什么话来形容。どういう言葉で形容すればいいかわからない。
(二十二課 文化と文化2)
だがこれは思い過ごしというものだ。
中国人の「食事はすませたか?」は、英国人が会って天気の話をするのと同様、ひとつの慣習であり、文化的な現象である。
船で海に出るわけでなく、また布団を洗濯するわけでもないのに、天気の話題を持ち出すのは、時間の浪費じゃないか。
もし中国人が、このように言ったら、それは認識不足だと笑われるに違いない。
それと同様に、英国人が中国人の「食事はすませたか?」に反感を抱くことも、筋違いな感情といえるだろう。
文化現象としての「食事はすませたか?」「どちらへ出かけるのか?」などは、全てある種の礼儀上の言葉に過ぎないのだ。
中国人は、人と人とはお互いに関心と愛情を持つべきだと考えている。
もちろん食事はあなた自身のことであり、どこへ行くのもあなた自身の勝手である。
それをわざわざ尋ねるのは、相手に対して関心や気遣いを示し、相手を尊重しているからこそである。
もし相手を見下したり、恨んでいたりしたら、それこそ尋ねることなどしないだろう。
それゆえ、我々はある一つの言語を学ぶ時、その文化というものを尊重しなければならない。
自らの文化で相手の文化を置き換えたり、修正を加えたりすることのないよう心掛けるべきであろう。
そうすれば、お互いの理解と友情を更に深めることが出来るはずである。
二十三課
十三课 老母鸡
过年前,爸爸单位办的养鸡场把一批不爱下蛋的老母鸡分给了每个职员。
爸爸带回家一只,准备过几天杀掉。
小敏特别喜爱小动物,见到那只老母鸡,高兴得很,玩儿了很久也不肯去睡觉。
爸爸只好答应她养两天再杀。
过了两天,爸爸要杀那只老母鸡,小敏眼里含着泪水请求,
爸爸妈妈知道小敏对老母鸡已经有点儿“感情”了,就勉强再推迟一天。
真巧,第二天老母鸡意外地下了一个蛋。
但蛋壳是软的。
“这只鸡确实还能下蛋,喂得好是不会下软壳蛋的。”看得出来爸爸也有点儿动心了。
可能是老母鸡确实还能下蛋,也可能是爸爸喂得好,每隔两三天小敏就能拣回一个蛋。
一天晚上,当妈妈打开冰箱取鸡蛋时,觉得鸡蛋吃得比上个月要快。
她问爸爸:“我不在家时你们吃鸡蛋了吗?”“没吃啊。”爸爸说。
“那鸡蛋怎么少了?”难道是……。
为了证明猜测,爸爸把冰箱里的鸡蛋都作了不明显的记号。
第二天,爸爸下班回家,小敏拿着一个鸡蛋交给爸爸,说:“爸爸,老母鸡又下蛋了!”
爸爸仔细看了看那个鸡蛋,又看了看妈妈。妈妈接过来一看,全明白了。
那个鸡蛋还有一点儿凉气呢。
“小敏,为什么骗我们?”妈妈严肃地问。
小敏哭了,说:“我怕爸爸把鸡杀了,就想了个办法……。”
妈妈笑了,爸爸把小敏紧紧地抱在怀里……。
见到那只老母鸡,高兴得很,玩儿了很久也不肯去睡觉。
その鶏を見ると、大喜びをして、いつまでも遊んで寝ようとしなかった。
副詞「也」は、逆接譲歩を表す(~にもかかわらず)
前提や仮定にかかわらず、結果は同じであることを表す。
(用例)说也白说。言ってもむだだ。
(用例)想了很久也没想起来。長い間考えたが思い出せなかった。
(用例)这件衣服洗了三遍也没洗净。この服は三回も洗ったのにきれいにならない。
爸爸只好答应她养两天再杀。パパはやむなく彼女が二日飼ってから絞めることにした。
副詞「再」は、ある動作・状況の後、引き続きある動作を行うことを表す。(~してから、然后)
(用例)看看再说吧!様子を見てから考えよう。
(用例)天晴了我们再走吧。晴れたら出かけよう。
(用例)看完电影,再去买东西。映画を観てから買い物に行く。
就勉强再推迟一天。そこで仕方なくもう一日延ばすことにした。
副詞「再」は、ある時間を経た後に、再び動作が繰り返されることを表す。(再び、引き続き、重新,继续)
(用例)再坐一会儿吧。もう少しおかけください。
(用例)再喝就要醉了。これ以上飲んだら酔っぱらってしまう。
(用例)以后,他不再跟同学们打架了。これ以後は、彼はもう同級生とけんかしなくなった。
每隔两三天小敏就能拣回一个蛋。敏ちゃんは二、三日に一度は卵を手に入れることができた。
副詞「每」は、動詞の前に用いて、動作の反復を表す。
(用例)每隔一天洗一次澡。一日おきに風呂に入る。
(用例)每到星期日就出去玩。日曜はいつも外出する。
(用例)每上一道菜,就被服务员问菜怎么样。料理が出るたびに、ウエイターに料理はどうですかと聞かれる。
觉得鸡蛋吃得比上个月要快。先月より卵の減り方が早いように感じた。
助動詞「要」は、比較文に用いて断定的な推測を表す。(~らしい、~そうだ)
(用例)他看起来比他实际年龄要大。彼は実際の年齢より年上に見える。
(用例)明天可能比今天还要冷。明日は今日よりもっと寒くなりそうだ。
(用例)比我想的要健康,所以放了心。思ったより元気そうなので安心した。
那个鸡蛋还有一点儿凉气呢。その卵はまだ少しひんやりとしていた。
副詞「还」は、動作や状態の持続・未変化を表す。(まだ、引き続き、なお、仍然)
(用例)还有一点疼。まだ少し痛む。
(用例)晒的衣服还有一点潮。洗濯物がまだ湿っぽい。
(用例)十年没见了,她还那么年轻。十年も会っていなかったが、彼女は相変わらず若々しい。
我怕爸爸把鸡杀了。パパが鶏を絞めるんじゃないかと心配した。
語気助詞「了」は、これから事態に変化が起ころうとする事を表す。(いよいよ、いまにも)
(用例)吃饭了。これから食事だ。
(用例)雷阵雨马上就来了。いまにも夕立がやってきそうだ。
(用例)一到九月,早晚就凉爽了。九月になると朝晩は涼しくなる。
(二十三課 年老いた雌鶏)
正月前、パパの職場は従業員ひとり一人に鶏を支給した。
会社は養鶏場を経営しているが、これらは卵を産まなくなった鶏だった。
パパは一羽家に持ち帰り、数日後に絞めるつもりだった。
娘の敏ちゃんは小働物が大好きで、その鶏を見ると、大喜びをして、いつまでも遊んで寝ようとしなかった。
パパはやむなく彼女が二日飼ってから絞めることにした。
二日過ぎて、パパが鶏を絞めようとすると、敏ちゃんは目に涙を浮かべるのだった。
パパとママは、敏ちゃんが鶏に情が移ってしまったのだと知り、仕方なくもう一日延ばすことにした。
すると翌日、その鶏は思いがけず卵を一つ産んだ。だが卵の殻は柔らかかった。
「この鶏は確かにまだ卵を産めるようだ。うまくエサをやれば柔らかい殻の卵は産まないはずだ」
パパはどうやら思い直したようだった。
鶏は確かにまだ卵を産めるのかも知れない、或いはパパのエサのやり方がよかったのかも知れない。
敏ちゃんは二、三日に一度は卵を手に入れることができた。
ある晩、ママが冷蔵庫を開けて卵を取りだすと、先月より卵の減り方が早いように感じた。
ママはパパに「私の留守中に卵を食べましたか」と尋ねた。「食べてないよ」パパは言った。
「じゃあ、どうして卵が減ったのかしら?」
もしかして……。推測を裏付けようと、パパは冷蔵庫の全ての卵に目立たない印をつけた。
次の日、パパが仕事から帰ると、敏ちゃんは卵をひとつパパに渡して言った。「パパ、鶏がまた卵を産んだよ!」
パパはその卵を注意深く見てから、ママのほうを見た。ママが受け取ってよくみると、すべてがわかった。
その卵は少しひんやりとしていた。「敏ちゃん、どうして嘘をつくの?」ママが真顔で言った。
すると敏ちゃんは泣きながら言った。「パパが鶏を絞めるんじゃないかと心配で、方法を考えたの……」。
ママは笑い、パパは敏ちゃんをぎゅっと胸に抱きしめた。
二十四課
二十四课 流行词
近来,在语言交际中出现了不少流行词。
有些流行词原来是专门用语,也就是术语。
术语一般在专门领域里使用,而这些流行的术语的词义发生了这样那样的变化。
使用范围大幅度地扩大了。
如“休闲”,原来是农业生产的术语,指“可耕地闲着,一季或一年不种作物”。
近来,“休闲”不断出现在人们的日常生活中,像“休闲服装”、“休闲文化”等等。
一两年前,休闲一词还不很常见。
九五年五月一日我国开始实行每周双休日的制度,休息时间增多了,
加上人民生活水平普遍提高,人民对休息的方式和质量,有了更高的要求。
休息不再仅仅是“暂时停止工作消除疲劳”而是包含了更丰富的内容。
如旅游、购物、娱乐、健身、社交等。
更高品位的休息成为人们生活的一种享受和追求,“休息”一词不能完全表达这种变化了的观念。
人们就借用农业生产的术语“休闲”。
于是“休闲”就“忙”起来。
休息跟一般的休息不同,它需要更多的条件,既要用“闲”空,又要有“闲”钱和“闲”情。
试想,如果人们的生活水平还像以前那样低,休息时间还像以前那样少,
每天要为吃穿去奔走,怎么会大谈特谈“休闲”呢?
可以说流行词是社会需要的产物,是有时代特征的。
可耕地闲着,一季或一年不种作物。耕地を休ませておき、一季あるいは一年作物を植えない。
動態助詞「着」は、ある動作行為の結果が、そのまま持続することを表す。
(用例)书在桌上放着。本が机に置いたままになっている。
(用例)屋子里灯一直亮着。部屋の明かりがずっとついている。
(用例)窗玻璃上停着一只小蝴蝶。窓のガラスに小さなチョウが一匹とまっている。
休息不再仅仅是“暂时停止工作消除疲劳”。(休息已经不仅仅是“暂停工作消除疲劳”)
休息はもはや「仕事を一時休止して疲れをとる」だけではなくなった。
副詞「不再」は、動作・状況を再び繰り返さないことを表す。(二度と、再也不继续)
(用例)不再抽烟。二度とタバコは吸わない。
(用例)不再下蛋的鸡。もはや卵を産まなくなった鶏。
(用例)以后,他不再跟同学们打架了。これ以後は、彼はもう同級生とけんかしなくなった。
既要用“闲”空,又要有“闲”钱和“闲”情。(“闲”是必要的,而且金钱上的“闲”和心情上的“闲”也是不可缺少的)
「暇」が必要であり、さらに金銭上の「余裕」と気持ちの上での「余裕」も欠かせない。
副詞「既~又」は、二つの状況の同時存在を表す。
(用例)那个店既便宜又好吃。あの店は安くてうまい。
(用例)既是诗人又是政治家。詩人である上に政治家でもある。
(用例)他既会说英语,又会说法语。彼は英語も話せるし、フランス語も話せる。
(用例)父亲既严厉但又有慈祥的一面。父は厳しさのなかにも優しさがある。
ただし、述部が1音節の場合は「又~又」が用いられる。
(用例)他又高又大。彼は背が高くて大きい。
また主語が異なる場合は「不但~也」が用いられる。
(用例)不但他去了,我也去了。彼が行っただけでなく、私も行った。
如果人们的生活水平还像以前那样低。もし人々の生活水準が今もなお、以前のように低いままであったなら。
副詞「还」は、動作や状態の持続・未変化を表す。(まだ、引き続き、なお、仍然)
(用例)六十岁了,还像小伙子一样精神。60歳になった今もなお、若者のように元気だ。
(用例)为什么很多日本人六十岁还不肯退休。なぜ多くの日本人は60歳でも引退しないのか。
(用例)她六十岁了,还那么年轻漂亮。彼女は60歳になったが、相変わらず若々しく美しい。
(二十四課 流行語)
最近、日常会話のやり取りを通じて多くの流行語が出現した。
流行語の中には、もともと専門用語、いわゆる学術用語だったものもある。
学術用語は一般に専門分野で使用されるが、使用の過程で語義が様々に変化した。
また使用される範囲も大幅に拡大した。例えば「休閑」という言葉は、もとは農業生産の学術用語だった。
これは「耕地を休ませて、一季あるいは一年作物を植えないこと」を意味する言葉だ。
最近では「休閑」をカジュアル(大衆的)の意味に捉えた使い方が人々の日常生活の中で一般に用いられるようになった。
たとえば「カジュアルな服装」、「大衆的な文化」などがその例だ。
一、二年前までは「休閑」という言葉は一般的ではなかった。1995年5月1日から週休二日制が実施され、休みの時間が増えた。
加えて、人々の生活水準が全般的に向上し、休みの取り方や質に対して、より高い要求が出されるようになった。
休息はもはや「仕事を一時休止して疲れをとる」だけではなく、さらに多くの豊富な内容を含むようになった。
たとえば旅行やショッピング、娯楽、フィットネス、社交などがあげられる。
より質の高い休息は、いまや人々が生活をする上でのひと時の癒しとなり、また追い求める対象となった。
そして単に「休息」という言葉だけでは、このように変化した概念をすべて言い表すことが出来なくなってしまった。
そのため人々は農業生産の学術用語である「休閑」を借用し、この言葉が多くの場面で用いられるようになったのだ。
この「休閑」は通常の休息とは異なり、日常生活において多くの条件を必要とする。
まず第一に「暇」が必要であり、さらに金銭上の「余裕」と気持ちの上での「余裕」も欠かせない。
ちょっと考えてみても、たとえば人々の生活水準が以前のように低く、休み時間も少なく、
毎日の食事に追われているとしたら「休閑」どころの話になるはずがない。
この「休閑」ひとつをとってみても、流行語というものは社会の需要の産物であり、時代の特徴を示すものだと言える。
二十五課
二十五课
误解
每天上下班,我都坐3109号公共汽车。
车上的女售票员热情、认真、服务周到。
但美中不足的是“您”字用得太多,而且总要放在一句话的最后,
比如“上车的乘客往里走啦您”,“请买票了您”,……。
乘客们的目光是惊奇、尊重的,但是他们仍然忍不住想要笑。
大概又怕伤害了她的热情,有的人假装不笑,有的人偷偷地笑。
我新婚的妻子也是售票员,所以我对这一点很敏感。
我有点儿为这位售票员难受,也觉得有点儿遗憾。
怎么就没人告诉她呢?
终于我忍不住了,花了一个晚上,写了厚厚的一封信,表示感谢她的劳动,还讲了一点儿我的遗憾和建议。
第二天,我又上了3109号车。
她还是那样。到站了,我把信放在她面前,信封正面向上,正对着她:“3109号车售票员同志收。”
下车后,我回头向她看了一眼,出了一口气。
“唉,您的信!”她脸红红的,手里拿着那封信,探出身子递给我。
那目光里,好像还含着愤怒。
我的脸突然红了,我明白我被误会了。
“拿着呀。”这回她第一次没有说:“拿着吧您。”
“这……”我说什么好呢?
车开了。信却留在了我的脚下。
请买票了您。切符をお買い求めください、貴方様。
語気助詞「了」は、忠告や催促、婉曲な依頼のニュアンスを表す。
(用例)这么晚了,你别去了。こんなに遅いから、君は行かないで。
(用例)你别忙了,我自己做。どうぞおかまいなく、自分でやります。
(用例)该回家了,别再喝了。もう飲むのは止めて、家へ帰りなさい。
(用例)喝了,喝了。今天我很高兴! 飲んで、飲んで。今日は嬉しくて堪らないんだから。
他们仍然忍不住想要笑。(他们还是忍不住笑了出来)彼らはやはり笑いたい気持ちを抑えることができなかった。
助動詞「要」 は、自分の意志をもってある行動を行うことを表す。
(用例)我要学好汉语。中国語を習得したい。否定は「不想学」(習いたくない)
(用例)他想要说什么。彼は何か話そうとした。
(用例)想要买票的人请排队。切符を買おうとする人は並んでください。
大概又怕伤害了她的热情。たぶん一方で彼女の熱意を傷つけることを恐れたのだろう。
副詞「又」は「~であるが、その一方で」の意味で、対立または矛盾する二つの側面を表す。
(用例)想要离婚,但又舍不得孩子。離婚したいのだが、子供のことが気がかりだ。
(用例)想要说什么,又怕不适当。ちょっと話そうとしたが、具合が悪いのでやめた。
(用例)心里有话,又不好意思说出来。言いたいことがあるが、口に出して言うのはきまりが悪い。
怎么就没人告诉她呢?どうして誰も伝えてやらないのだろうか。
疑問代詞「怎么就」(怎么居然 どうしてまた)は、話し手の期待や予想に反して発生した出来事の原因を問う。
(用例)你怎么就不明白呢?どうしてお前はわかってくれないんだ?
(用例)收音机刚买回来怎么就坏了?ラジオは買って来たばかりなのにどうして壊れたのか?
(用例)刚才他还露了一面,怎么就不见了。いましがた彼は一度姿を見せたのに、何故かすぐにいなくなってしまった。
那目光里,好像还含着愤怒。その目には、怒りさえ滲んでいるように感じられた。
副詞「还」は、範囲・項目の追加・拡大を表す。(そのほか、さらに、さえ、すら、まだ、另外,而且,加上,甚至,还有)
(用例)除牙疼之外,还觉得肚子疼。歯が痛いうえに腹痛さえ感じた。
(用例)不仅风很大,而且还下起雨来了。風が強いばかりでなく,雨さえ降り始めた。
(用例)他学会了做饭、洗衣,甚至还学会了种菜。彼は炊事洗濯ができるようになり、その上野菜の栽培さえできるようになった。
车开了。信却留在了我的脚下。バスは発車したが、私の手紙は足元にそのまま残っていた。
語気副詞 「却」 は、期待・予想・道理に反する事実の発生に直面した時のもどかしさや戸惑いの心情を表現する。
(用例)刚才明明吃过饭了,却已经肚子饿了。さっきごはんを食べたのに、もうお腹が空いた。
(用例)明天就要搬家了,却还没有做完准备工作。明日引っ越しなのに、準備がまだ終わっていない。
(用例)我有许多话要说,一时却说不出来。話したいことがたくさんあるのに、すぐには口に出てこない。
結果補語「在」は、ある動作・状況の結果、事物がある場所に残存することを表す。
(用例)我把书放在了桌子上。本を机の上に置いた。
(用例)我没把邮票贴在信封上。切手を封筒の上に貼らなかった。
(用例)请你把名字写在纸上。名前を紙の上に書いてください。
(二十五課 誤解)
毎日通勤する時、私はいつも3109番のバスに乗る。車掌の女性は親切で、真面目で、サービスが行き届いている。
だが玉に瑕なのは、「貴方様」の言葉を多用しすぎることだ。いつも一言言った最後に「貴方様」を必ず付ける。
たとえば、「どうぞ中にお詰めください、貴方様」、「切符をお買い求めください、貴方様」などなど。
乗客たちはいぶかしげな視線を投げかけ、恐縮しているものの、やはり笑いを禁じえないようだ。
だが彼女の熱意を傷つけることを恐れたのか、笑わないふりをする者もいれば、一方でこっそり笑う者もいた。
私の新妻も車掌だったので、この件はいささか気になっていた。
その車掌さんのことを思うといたたまれない気持ちになり、また少々残念でもあった。
どうして誰も伝えてやらないのだろうか。ついに私は我慢できなくなり、一晩かけて、彼女に厚い手紙を書いた。
彼女の労働に感謝するとともに、私が残念に思う点と、いくつかの提案も書いた。
翌日、また3109番のバスに乗った。彼女は相変わらずだった。停留所に着いて、私は手紙を彼女の前に差し出した。
封筒の表面を上にして、「3109番車の車掌様へ」という文字を彼女の正面に向けた。
車を降りて彼女を振り返り、私は一息ついた。
「ちょっと、お手紙!」彼女は顔を真っ赤にして、手に例の手紙を持ったまま、身を乗り出して私に差し出した。
その目には、怒りさえ滲んでいるように感じられた。私は急に顔が赤くなり、誤解されていることがわかった。
「持って行ってよ」と、彼女は言った。「持って行って、貴方様」とは初めて言わなかった。
「それは……」私は何と言えばいいのかわからなかった。バスは発車したが、私の手紙は足元にそのまま残っていた。
二十六課
二十六课 不该要的东西
我上小学四年级的时候,一天放学回家,在路上我的视线突然被地上的一件东西吸引住了。
啊,一个钱包!打开一看里边有二十块钱。
二十块钱,这在一块钱就能买一只鸡的年代,对一个每月只有几毛零用钱的小学生,是怎样一笔巨款呀!
我看四周没有人,赶紧把钱包装进了书包里。
回到家里,我装着没事的样子,和妈妈说了几句话,就缩到屋角拿起一本书,可是怎么都读不进去。
钱包像个小怪物似的爬在身上,很不舒服。终于我混乱的头脑,慢慢清楚了。拉开门就往外跑。
在派出所里,警察叔叔微笑着问了我的姓名。
登记了钱包里的东西,还说谢谢我。
回家的路上我一下子轻松了很多,几乎是一路唱着歌走回了家。
为这件事我高兴了好几天,心理暗暗地等待着学校表扬我。
有一天,我又把这件事告诉了一位大哥哥,他读过很多书,已经上高中了。
我没想到他会说出这样的话来:“那是你应该做的,我已经从别人那里听到这件事了,
我不想表扬你什么,只是想告诉你,有些做过的好事,如果自己不去说,会更好些。”
这件事,已经过去了许多年,我一直在心理感谢那位大哥哥。
他使我明白了:在送回别人钱包的同时,千万不要又捡回一个不该要的“钱包”-虚荣。
我的视线突然被地上的一件东西吸引住了。ふと地面に落ちていたものに目を奪われた。
結果補語「住」は、外部からの働きかけにより、体や心の動きが動揺または停止することを表す。
(用例)小说把他吸引住了。小説は彼を惹きつけた。
(用例)那个姑娘被他迷住了。あの娘は彼に首っ丈だ。
(用例)消息把他呆住了。知らせは彼をがく然とさせた。
(用例)这个问题把他问住了。この質問で彼は返答に詰まった。
怎样一笔巨款呀! どんなに大金であることか。
疑問代詞「怎样」は、事柄の性質・状態の程度の高さを問う。(いかに、どれだけ)
(用例)洗澡水温度怎样?湯加減はいかがですか。
(用例)他说这部电影怎样好。彼はこの映画がどんなによいか語った。
(用例)描写他怎样刻苦学习。彼がいかに骨身を惜しまず勉強したかを描く。
(用例)怎样高度评价也不会过高。どんなに高く評価してもし過ぎるということはない。
和妈妈说了几句话,就缩到屋角拿起一本书。母と二言三言話してすぐに部屋の隅に引っ込んで一冊の本を手に取った。
副詞「就」は、前節の出来事を起点として短時間内にある動作・情況が現れることを表す。(すぐに、ただちに、马上,立刻)
(用例)一完成就发送给您。完成でき次第お送りします。
(用例)她吃完饭就走了。食事を済ませるとすぐに出かけた。
(用例)她结婚后,就不工作了。彼女は結婚後ただちに仕事をやめた。
我又把这件事告诉了一位大哥哥。私は兄さんにもこの話をした。
副詞「又」は「今度はまた、引き続き」の意味で、続いて起こる事柄の前後関係を表す。(然后)
(用例)他又考上了另一个大学。彼はまた別の大学にも合格した。
(用例)刚要张嘴,又把话咽下去了。何か言おうとしたが、すぐまた口をつぐんでしまった。
(用例)事件告一段落后,又出现了另一个问题。事件が一段落すると、今度はまた別の問題が発生した。
有些做过的好事,如果自己不去说,会更好些。(你做了什么好事,如果自己不去说,就会更好一些)
何か良いことをしたら、自分から言わないほうが理想的だ。
不定量詞「些」は、それとはっきり指示できない事柄を表す。(何かしら、不知什么)
(用例)早上身体有些不舒服。けさは何か気分がすぐれない。
(用例)去了一定会有些收获。行けば必ず何かしら得るものがある。
(用例)我也是会有些可以做到的。私にも何かできることがあるはずだ。
またここでは、更好(ずっとよい)に不定量詞「些」を付加することによって、断定的な口調を和らげている。
(用例)这个比那个更好。これはあれよりもずっとよい。
(用例)这个比那个更好些。これはあれよりも理想に近い。
(用例)我觉得你可以演得更好。君ならもっと上手く演じられると思った。
(用例)我觉得你可以演得更好些。君ならより理想に近い演技ができると思う。
千万不要又捡回一个不该要的“钱包”-虚荣。
くれぐれも「虚栄」という名の要らざる「財布」も一緒に拾って帰ってはならない。
副詞「又」は「さらに、その上」の意味で、新たな情況が加わるという累加関係を表す。(加上)
(用例)除了工资以外,又发了交通补助。給与のほかに、さらに交通手当も支給した。
(用例)这个剧内容好,又加上表演得也不错。この芝居は内容がよく、またその上に演技もよい。
(用例)天很冷,又没有穿厚衣服,所以感冒了。寒いし、その上厚い服も着ていないので風邪をひいた。
(二十六課 貰ってはいけないもの)
小学校四年生のとき、学校からの帰り道に、ふと地面に落ちていたものに目を奪われた。
それは財布で中を開けてみると二十元入っていた。
当時は一元で鶏が一羽買えた時代、月々の小遣いがわずかしかない小学生にとって、二十元はかなりの大金だ。
誰もいないのを見計らって、急いで鞄にその財布を入れた。家に帰ってから、何事もなかったふりをして、母と二言三言話した。
それから、部屋の隅に引っ込んで一冊の本を手に取った。読み始めたが、なかなかはかどらない。
財布がまるで小さな怪物のように体を這いまわるので、どうも居心地が悪い。
混乱した頭が、ようやくはっきりしてきたので、ドアを開け、外に飛び出した。
派出所で、警察のおじさんがにこやかに私の名前を尋ねた。財布の中身の登録が終わると、私はありがとうと言われた。
帰り道は、気がずっと楽になって、ほとんど歌いながら家に帰った。
それ以来、私は何日間もごきげんだった。心の中で密かに、学校が自分を表彰してくれることを待ち望んだりした。
ある日、私は兄さんにこの話をした。高校に通っている兄さんは、多くの本を読んでいる。
だが彼がこんなことを言うとは思いもよらなかった。「それは当然のことだよ。この件については、私は他の人からすでに聞いていた。
別に君を褒めてあげるつもりはない。ただ言いたいのは、何か良いことをしたら、自分から言わないほうが理想的だということだよ」
それから何年も経った今、私は心の中で、あの兄さんに感謝している。兄さんは私に大切なことを分からせてくれた。
それは他人の財布を返すときには、くれぐれも「虚栄」という名の要らざる「財布」も一緒に拾って帰ってはならない、ということだ。
二十七課
二十七课 孩子与风
很久很久以前,有一个孩子。
他很小就没有了父母。
他一个人住在荒野的一个小草屋里,没有人同他玩儿也没有人同他谈话,只有一个朋友和他要好,那就是风。
春天,孩子病了,躺在床上十几天不能起来。
有一天,风又来了,知道他生病了,就坐在床边陪着他,
把路上看到的许多新鲜的事情讲给他听,随后还告诉他春天来了。
孩子说:“是吗? 我记得春天的野外是很好玩儿的。
我真想出去玩玩儿。这屋子太黑,一点儿也不好玩儿。”
风说:“你想出去玩儿玩儿是很好的,不过,你在害病,走不动啊!”
孩子点了点头说:“对,我两条腿太没有力气了,不然我早就跑出去玩儿了。”
他问风:“野外的花开了没有?”
风回答:“开了,开了很多。我还听见了各种各样的小鸟的歌唱。”
孩子小声说:“我也想听见小鸟的歌唱。但是不能出去……。”
风就安慰他说:“好孩子,不要难受!我可以替你想办法,让你在屋里也一样可以享受春天的快乐。“
于是风转身就出去了。过了一会儿,风又转回屋里来,
带来了各种各样的花儿的香味、青草的气味、以及各种各样的小鸟歌唱的声音。
随后还告诉他春天来了。(随后又告诉他春天来了)そして春が来たことも告げた。
副詞「还」は、範囲・項目の追加・拡大を表す。(そのほか、まだ、さらに、另外,还有)
(用例)你明天还来吗? 明日も来ますか。
(用例)此外,还买了一张邮票。そのほかに切手も一枚買った。
(用例)他家里还有年老的父母。彼の家には年老いた両親もいる。
让你在屋里也一样可以享受春天的快乐。(即使你在屋里,我也要让你在外面一样享受春天的快乐)
君が家に居ても外と同じように春を楽しめるようにしてやろう。
使役動詞「让」は、目的語に使役や許可の対象(させる相手)を導く。
この目的語はあとに続く動詞(句)の動作主あるいは行為者となる。
このように目的語兼動作主となる語は「兼語」と呼ばれる。
(用例)让枯树开花。枯れ木に花を咲かせる。(ある状態を生じさせる)
(用例)让我再想想。もう少し考えさせてくれ。(ある行為の許可を求める)
(用例)上司让我们加班。上司は我々に残業させた。(ある行為をさせる)
(用例)爸爸不让我看漫画。父は私に漫画を読ませない。(ある行為を許可しない)
(二十七課 子供と風)
むかし、ひとりの子供がいた。彼は幼くして両親を失い、荒れ野の小さな草葺の家に一人で住んでいた。
誰も彼と游んだり話をする者はいなかった。ただ一人だけ友だちがいた。それは風だった。
春になって、その子は病気になり、十数日間、床から起きあがれなかった。
ある日、風がやって来て、その子が病気だとわかった。
風は床のそばに座って付き添い、その子に道端で見た目新しいことを話して聞かせた。
そして春が来たことも告げた。その子は言った。
「そうかい? 春の野原は楽しかったなあ。僕も遊びに行きたいよ。この部屋は暗くて、ちっとも面白くないんだ」
風は言った。「游びに行くのはいいけど、君は病気だから歩けないじゃないか」
子供はうなずいて言った。「そうだよ。足に全然力が入らないんだ。でなければ、とっくに遊びに出かけているのに」
彼は風に尋ねた。「野の花は咲いたかい?」
風は答えた。「花はもう咲いた。たくさん咲いている。いろんな鳥のさえずりも聞こえたよ」
「僕も鳥のさえずりが聞きたいな。でも外には出られないし……」
風は彼を慰めて言った。「よしよし、悲しんではいけないよ。家の中でも春を楽しめるよう、私が何とかしてあげよう」
風は踵を返して出て行った。しばらくすると、風はまた部屋に戻ってきた。
さまざまな花の香り、草の匂いを携え、そしてさまざまな鳥の歌声も運んできた。
二十八課
二十八课
幽默的效用
笑声是人类最动听的声音,人人都需要,人人都喜爱。
一个家庭如果没有笑声,即使物质生活条件再好,也没有什么幸福可言。
美满的家庭必然是和谐的、幸福的、充满欢声笑语的。
笑能消除沉闷的情绪,减少人与人之间的各种摩擦和矛盾,这是一种很好的感情润滑剂和生活的调味剂。
中国有句古话:“和为贵”。商人常说:“和气生财“。
这和气的主要外在表现之一就是笑。
在经济活动中,人与人之间的交往需要笑容。
一些企业甚至规定对顾客“开口即笑”,“不笑不说话”。
企业有了这样的态度,顾客就会产生好感,相信这家企业关心顾客,重视顾客,货真价实。
他们就会多买东西。这当然就增加了营业额和利润。
从顾客方面说,把自己的意见和要求用幽默的态度提出来也是需要的,这样可以减少许多麻烦。
据说有一次有个人买一杯牛奶,售货员只给了他半杯。他说:“请给我一把锯子!”
“干什么?”“我要把这杯子上面空的地方锯掉,这才是一杯啊!”
售货员笑了,给他又加了半杯,成为真正的一杯了。
以笑和幽默来代替不满和埋怨,会使人易于接受,乐于改进,在态度上由否定转为肯定,由消极变为积极。
一个家庭如果没有笑声,即使物质生活条件再好,也没有什么幸福可言。(没有笑声的家庭,不管物质上怎么富足,也不能说是幸福的)
笑いのない家庭では、いくら物質的に恵まれていても、幸せであるとは言えない。
副詞「再」は、接続詞と呼応して、譲歩の複文を構成する。
どんな条件でも結果は同じことを示す。(たとえどんなに、不管怎么)
(用例)即使天再冷,我们也不怕。たとえどんなに寒くても、我々は平気だ。(即使~再)
(用例)不管我再请求,她也不答应。私がいくら頼んでも、彼女は承知しない。(不管~再)
(用例)就是再累,我也要坚持干完。どんなに疲れても、頑張ってやり終えねばならない。(就是~再)
疑問代詞「什么」は、動詞「有」の目的語となり、兼語文を構成し、強調の語気を表す。
(用例)他的话没有什么新鲜的。彼の話は何ら新鮮味がない。
(用例)吸烟对身体没有什么好处。喫煙は体にとって何の利点もない。
(用例)周围找不到有什么奇特的景观。周囲にはこれといった珍しい景観は見当たらない。
(二十八課 ユーモアの効用)
笑い声は人々の耳にこの上なく心地よい響きを与える。人はそれに喜びを感じ、またそれを必要とする。
笑いのない家庭では、いくら物質的に恵まれていても、幸せであるとは言えないだろう。
円満な家庭はおのずと調和のとれた、賑やかで、楽し気な笑い声に満ちている。
笑いは重苦しい気持ちを解消し、人と人との間の様々な軋轢や確執を減らすことができる。
それは人間関係における一種の潤滑油であり、生活におけるスパイスのようなものだ。
中国には「和は貴しとなす」という古い言葉がある。商人はよく「和気あいあいは財をなす」などと言う。
その和気あいあいの主な現れの一つが笑いである。
経済活動における人と人とのつきあいには笑顔は必須だ。
顧客に対して「口を開けば先ず笑顔」「笑顔なくして話をするな」などと規定している企業すらある。
こうした姿勢を示せば、顧客は好感を抱き、この企業は客を大切にし、品質も良く価格も安いと思うに違いない。
顧客はもっと多めに品物を買うであろうし、そうなれば当然、売上も利益も増えることになる。
客の側から言えば、自分の意見や要望をユーモアを交えて示すことも必要であり、またそのほうが面倒を省く場合が多い。
あるとき、ある客が一杯の牛乳を注文したところ、店員はコップに半分しか注がなかった。
そこで客は「ノコギリをくれ」と言った。店員は「ノコギリで何をするんだ」と聞いた。
「コップの上半分の空のところを切り落とすのだ。それではじめてコップ一杯と言えるじゃないか」
店員は笑いながら、さらにもう半分注いだ。これでようやく本当のコップ一杯になったという。
不満や愚痴の代わりに、笑いやユーモアで対応すれば、人は受け入れやすく、改善しやすくなるだろう。
態度面でも、否定から肯定へ、消極的なものから積極的なものへと変わってくるに違いない。
二十九課
二十九课
两张旧电影票
我保存着两张旧电影票,一张是1985年7月7日的,另一张是7月9日的。
那时我上初中二年级。
一天班主任拿着一些电影票,笑着说:“同学们,明天上午学校组织看电影,现在发票。”
我一听,高兴得就像过年一样。
我是一个农村孩子,当时,农村看电影的机会很少,一年也很难看上一两次。
可是我一回家,父亲就对我说:“这几天庄稼地里闹虫灾,明天我和你妈妈要去打农药,你在家替妈妈照顾一天生病的奶奶吧。”
我呆呆地站在那里“嗯“了一声,好久没回过神来。
晚上,我饭也吃不下,早早地就钻进了被窝・・・・・・。
星期一,我一进教室,就听同学们在议论着那场电影。
一个同学问我:“哎!你怎么没去呀?是不是不想看?”我难过地垂下头,把没能去的理由告诉了他。
没想到,第二天班主任把我叫到办公室,又给我一张当天晚上的电影票。
她说:“你的情况我都知道了,这是我的票,你去看吧。”
我不知道怎么感谢她才好,眼泪不由得流了出来。
十几年过去了。如今,那场电影的内容我已经记不清了。
可是这两张旧电影票却一直保存在我的日记本里。
一年也很难看上一两次。(连一年也很难看上一两次)(甚至连一年看上一两次电影都很难)
なんと年に一、二回見ることすら難しい。
「也」「连」「甚至」「都」は、いずれも強調(なんと)を表す。
動量詞「一两次」は、動詞の目的語として動詞の後に置かれる。
一部の動量詞、時量詞は名詞を修飾することができる。
(用例)看了两次电影。二回映画を見た。
(用例)降了第一场雪。初雪が降った。
(用例)住了半个月旅馆。ホテルに半月泊まった。
(二十九課 昔の映画チケット二枚)
私は昔の映画のチケットを二枚持っている。一枚は1985年7月7日、もう一枚は7月9日のものだ。
私は当時中学二年生だった。ある日、映画のチケットを手にした担任の先生が、にこやかに言った。
「皆さん、明日午前の授業は映画観賞です。今からチケットを配布します」
私はそれを聞いて、正月が来たように嬉しくなった。
田舎っ子の私は当時、映画を見る機会が極端に少なかった。田舎では、年に一、二回見ることすら難しいのだ。
でも家に帰ると、父が言った。「ここ数日、畑の害虫が増えた。明日、母さんと一緒に農薬を撒きに行くから、
お前は家で一日、病気のおばあさんの世話をしなさい」
私は一言「うん」と言ったまま、しばらくの間、茫然と立ち尽くすばかりだった。
夜、食事も喉を通らず、早々と布団にもぐり込んだ。
月曜日、教室に入ると、皆はあの映画の話をしていた。
同級生の一人が私に聞いた。「君はどうして映画を見に行かなかったのだ。見たくなかったのかい」
私は首をうなだれて、行けなかった理由を彼に告げた。
翌日、担任の先生が私を職員室に呼び出し、その日の夜のチケットをもう一枚くれた。
彼女は言った。「君の事情はよく分かった。これは私のチケットだ。これで映画を見に行きなさい」
私はどう感謝してよいか分からず、思わず涙が出てしまった。
あれから十数年が経った今となっては、その映画の内容はよく覚えていない。
だが、この二枚の昔の映画チケットは、ずっと私の日記帳に挟んで大切に保管してあるのだった。
三十課
三十课
关于友情
最近跟一个好朋友谈心,她问我分别后会不会天天想她。
我老老实实地回答说不会,即使想她,也不会是天天。
朋友有些失望,说友谊真是太脆弱,经不起时间和空间的考验。
我没再说什么,不想给她什么善意地谎言,因为我们是最真诚的朋友。
我想我会真诚地对待她的友谊的。
我曾经有一位知心朋友,刚分别时我们常常通信。
后来她结了婚,有了孩子,便不再来信。
我觉得很失望,就特意找了一个时间去看她。
她笑着对我说:忙啊,为孩子忙,为丈夫忙,忙得没时间写信,不过还是常常想起你的呀。
那天晚上,她陪我说了很多很多。
人生本来就是这样的:告别老朋友,认识新朋友。
只要付出了真情,你总会感觉到友谊的温暖。
远方的,身边的,都会让你感动。
但是,你怎么也不可能每星期给每一个朋友写信,给每一个朋友打电话,也不可能每天都去思念你的每位朋友。
毕竟长到这么大,认识了那么多的人,你只能在特定的日子、特定的环境里,想起朋友中的一个或几个。
但我想这已经够了。友谊不应该是一种负担。一位朋友曾说过这样一句话:关心别人,有时是问,有时是不问。
我没再说什么。私はそれ以上何も語らなかった。
副詞「再」は、ある時間を経た後に、再び動作が繰り返されることを表す。(再び、引き続き、重新,继续)
(用例)明天再说吧! また明日にしよう。
(用例)以后没再见过。あれから全然会ってない。
(用例)今晚不再喝酒了。今宵はもう飲まないことにした。
不想给她什么善意地谎言。安易な気休めなど語るつもりはない。
疑問代詞「什么」は、実体把握ができていない事物を提示する。(とか、など、何か)
(用例)他的名子叫什么小青。彼の名は小青とか言う。
(用例)他不会说什么漂亮话。彼はきれい事などは言わない。
(用例)是不是做了什么坏事? 何か悪いことでもしたのか。
我想我会真诚地对待她的友谊的。私は彼女との友情に真摯に向き合うことができると思っている。
構造助詞「的」は、断定の語気を表す。
(用例) 是的。そうです。
(用例) 好的。いいですよ。
(用例) 他不会知道的。彼は知らないはずだ。
(用例) 我永远不会忘记你的。君のことはいつまでも忘れないよ。
有了孩子,便不再来信。子供ができてから、手紙をくれなくなってしまった。
副詞「不再」は、動作・状況を再び繰り返さないことを表す。(再也不继续)
(用例)不再抽烟。二度とタバコは吸わない。
(用例)不再下蛋的鸡。もはや卵を産まなくなった鶏。
(用例)以后,他不再跟同学们打架了。これ以後は、彼はもう同級生とけんかしなくなった。
毕竟长到这么大,认识了那么多的人。これほど年を重ね、多くの人と知り合えば。
副詞「毕竟」は、ある事実を自ら深く納得したことを表す。
(用例)毕竟是老工人,经验丰富。さすがに古参労働者だけあって経験豊富だ。
(用例)他游得真好,毕竟是在海边上长大的。なるほど海辺で育っただけあって見事な泳ぎっぷりだ。
(用例)夫妻毕竟是夫妻,吵几句,一会儿就好了。夫婦はやはり夫婦で、口論してもすぐに仲直りする。
(三十課 友情について)
最近、親しい友人と話す機会があった。その中で、別れてからも毎日、彼女のことを思い出すかと聞かれた。
私は正直に「いいえ」と答え、たとえ思っても、毎日ではないと告げた。
彼女は少し失望したように、友情とは実にもろいものだと言い、時間の経過や距離が二人の間柄を
疎遠なものにしているのだとつけ加えた。
私はそれ以上何も語らなかった。安易な慰めも気休めも言うつもりはない。
何故なら私たちは強い信頼関係で結ばれた友人同士だからだ。
私は彼女との友情に真摯に向き合うことができると思っている。
昔、気心の知れた友人がいて、別れた後、頻繁に文通をしたものだ。
だが彼女は結婚して子供ができてから、手紙をくれなくなってしまった。
私はがっかりしてしまい、何とか時間を見つけて彼女に会いに行った。
彼女は笑って、子供や亭主のために、忙しくて手紙を書く暇もないけれど、
ときどきあなたのことを思い出しますよ、と言ってくれた。
またその夜は、いろいろと話し相手になってくれた。
古い友人と別れ、新しい友人と出会う。そのような繰り返しが人生というものだ。
まごころをもって接すれば、あなたはきっと友情の深まりを感じることができるだろう。
たとえその友人が遠方にいても、あるいは身近にいたとしても、場所にかかわらず、あなたは感動を味わうに違いない。
とはいえ、毎週一人一人の友人に手紙を書いたり、電話をかけたり、
あるいは毎日一人一人の友人のことを思い起こすことはとてもできない。
これほど年を重ね、多くの人と知り合えば、特定の日、特定の状況で、友人の一人あるいは数人を思い出すだけで精一杯だろう。
私はそれで十分だと思う。友情が心の重荷になってはならないからだ。
ある友人が以前こんなことを言っていた。
「人のことを気に掛けるとは、時には声をかけてやり、時には放っておいてやることだ」
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