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51課 52課 53課 54課 55課
五十一課
五十一课
书的使用方法
书多,一直以来是受人夸奖的事。
事实上,书多,只说明他能收集,并不表示他好学。
以为书多,学问就一定大,这可不一定。
书的使用价值并不全在读,至少有这样几种人收集书并不是为了读的。
一种是好古的。
他们收集书,不是因为喜欢读,而是因为那些书年代久远。
书在他们眼里越古越好。
他们关心的是出版的年代、收藏的经历,至于书的内容,却不一定是读过的。
另一种是做生意的。
他们收集书只是为了卖,卖书就是为了赚钱。
书对于他们,只是一种商品。
他们的全部精力都用在买进便宜的好货,然后高价售出,
对于书籍的内容,他们并不十分关心。
还有一种人,他们肚子里没有几滴墨水,只是因为升了高官或当了老板
需要用书摆摆样子以显示自己有学问。
这类人选书的标准,就是“美观厚大”,往书柜里一放,看着神气。
客人走进书房一看,都会觉得主人学问高深。
书市上一套套大本精装礼品书,都是为这种人准备的。
但是,这种书又大又厚,分量不轻。
平时虽然不看它,搬家时却是沉重的负担,而且价格又高,一想,不合算。
因此,礼品书市场越来越不景气,大量的礼品书积压在书商手里,不得不减价处理。
不过,消费决定市场,既然你嫌书贵,既然你买书只是为了装饰,
那好办,大本礼品书,稍加改造,就有了全新的设计,只做一个硬盒子,
里面装进硬纸,放进书柜一锁,谁知其中有假!
样子装了,分量轻了,价格低了,“上帝”的愿望样样得到了满足—商品时代啊!
以为书多,学问就一定大。本が多いと、学力もきっと高い。
副詞「就」は、前節の条件・原因を受け、後節で判断・結論を導く。(そこで、すると、于是)
(用例)相信自己就一定会成功。自分を信じていれば必ず成功する。
(用例)猫一用爪子擦脸,第二天就要下雨。猫が顔を洗うと、次の日は雨。
(用例)那只狗特别胆小,见人就叫。あのイヌはすごく臆病で人を見るとすぐほえる。
他们收集书只是为了卖,卖书就是为了赚钱。彼らは売るためだけに本を集める。本を売ることは、まさに金儲けのためなのだ。
副詞「就是」は「まさに、ほかでもなく」の意味で、話し手の断定・強調の語気を表す。
(用例)他好像就是为了踢足球而生下来的。彼はまさにサッカーをするために生まれてきたようなものだ。
(用例)你看,那就是天安门。ほら、あれこそが、ほかならぬ天安門だ。
(用例)他就是我常提起的王先生。彼こそがまさしく、私がいつも言っている王さんだ。
这类人选书的标准,就是“美观厚大”。そういった連中の本選びの基準は、要するに「見栄えがよくて分厚い」ことなのだ。
副詞「就是」は「すなわち、要するに」の意味で、前文を受け、その内容説明を加えることを表す。
(用例)免费就是不要钱。無料とは、要するにタダの事だ。
(用例)就是说,你的意思是不想去。要するに、きみは行きたくないというんだね。
(用例)所谓美食家就是指那些口馋的人。いわゆるグルメというのは、要するに食べ物に卑しい人だ。
(五十一課 本の使用方法)
本をたくさん持っていることは、これまで賞賛されてきた。
実際、本が多いことは、本をよく集められることであり、彼らが読書家というわけではない。
また本が多いと、学力も高いかというと、必ずしもそうではない。
本の価値は読むことだけにあるわけではないが、少なくとも、こういった類の人たちは、
別に読むために本を収集しているのではない。
ひとつは「レトロ趣味」である。
彼らが本を集めるのは、読むのが好きだからではなく、その本が古いからだ。
古ければ古いほど、彼らの目には価値のある本に映る。
彼らの関心は、出版された年代や所蔵した経歴であり、本の内容については、
必ずしも読んだことがあるとは限らない。
もうひとつは「ビジネス」だ。
彼らは売るためだけに本を集める。本を売ることは、まさに金儲けのためである。
彼らにとって本は単なる商品なのだ。
彼らの全エネルギーは、安くて良い商品を買い、それを高く売ることに費やされる。
彼らは本の内容にはあまり関心がない。
またもうひとつは、教養や知識など全くないのに、高い官職に昇進したとか、
経営者になったとかいう理由だけで、本を利用する人たちがいる。
彼らは格好をつけて、自分に学があることを示すために本を使うのだ。
こういった類の人たちの本選びの基準といえば、すなわち「見栄えが良く、分厚い」であり、
本棚に入れたら、どれだけ立派に豪華に見えるかにある。
客がいったん書斎に入れば、一目で主人の学問の深さを実感することになる。
書籍市場にある、大きな贈答用豪華書籍セットは、全てこうした類の人たちのために用意されたものだ。
しかし、この手の本は大きくて分厚く、決して軽くはない。
普段は読むことはないものの、引っ越しの際には重い負担となる。
おまけに価格も高く、ちょっと考えてみれば、割に合わない。
したがって、贈答用書籍市場はますます不景気となり、大量の本が書籍商の手元に滞り、
値引き処分をせざるを得なくなる。
しかし、消費が市場を決めるので、例えばあなたが本が高いのを嫌う一方で、
飾りのためだけに本を買いたいのであれば、話は簡単だ。
大きな贈答用の書籍を、少し手を加えて、新しいデザインに変えてやればよい。
すなわち硬いケースだけを作り、中に硬い紙を詰め込んで、本棚に放り込んで
鍵をかけてしまえばよい。そうすれば、中に偽物が入っているとは誰が知ろうか。
体裁が整い、重量も軽くなり、価格も安くなり「消費者」の願いがすべて満たされた。
これこそまさに市場経済の時代到来といえよう。
五十二課
五十二课
收集
童年,女孩子的梦都是五彩斑斓的。
我的童年,比起现在那些孩子来说要“幸福“得多,
没那么多课内课外的作业,也不用去学那些琴棋书画。
加上父母工作繁忙,对我的学习抓得不紧,所以我只要不吵不闹不做坏事,就有绝对的自由。
有段时间,班里的女生最爱干的事就是收集“糖纸”!
有些甚至到了痴迷、痴狂的程度。
看见谁手里的糖包装好看,又不敢向他要就一直跟着他直到他吃了那颗糖把纸丢了为止。
糖纸花花绿绿的,每张都会有一个故事。
记得那时的糖都是两边一扭包装的,要得到一张漂亮的糖纸,
必须把糖纸洗干净,在玻璃板下铺平压两天才好看。
但要把一张糖纸完整地剥下来却不容易。
于是那些所谓的次品,也就是因为机械的误操作而没包进糖的糖纸,
就特别受我们的欢迎,那可是一张非常完整的糖纸啊!
那时我们班有个女孩子的妈妈在食品店工作,自然就容易得到这些,
于是她成了同学们羡慕的对象,甚至有人还故意去奉承她。
为了几张纸就这样,小女生们也不简单。
一段时间下来,我虽没她们那样痴迷,藏品却也丰富起来了。
当然比起她们的糖纸在质量、数量上要逊色得多,
但闲着的时候把夹着糖纸的本子拿出来翻翻看看,也还是有很多乐趣。
只可惜,后来我的这些“宝贝”还是失落掉了好大一部分,
可能是搬家时丢了,也可能是父母见我不那么热心了,就扔了。
无论如何,这说明我长大了,有了更新更美的追求了。
妈妈有时跟我讲起她小时候收集冰棍儿的棍儿卖钱的故事,
我就会想起我收集糖纸的事,再看看现在一些孩子们收集邮票、手表等“珍贵”的物品,
真是一代有一代的特色啊。
比起现在那些孩子来说要“幸福“得多。今の子供たちよりもずっと幸せだったと思う。
助動詞「要」は、比較文に用いて断定的な推測を表す。
(用例)比我想的要健康,所以放了心。思ったより元気なので安心した。
(用例)他看起来比他实际年龄要大。彼は実際の年齢より年上に見える。
(用例)明天可能比今天还要冷。明日は今日よりもっと寒くなりそうだ。
有段时间,班里的女生最爱干的事就是收集“糖纸”!
一時期、クラスの女生徒たちが熱中していたのは、なんといっても「飴の包み紙」を集めることであった。
副詞「就是」は「まさに、ほかでもなく」の意味で、話し手の断定・強調の語気を表す。
(用例)时间就是金钱。時は金なり。
(用例)你看,那就是天安门。ほら、あれこそが、ほかならぬ天安門だ。
(用例)他就是我常提起的王先生。彼こそがまさしく、私がいつも言っている王さんだ。
看见谁手里的糖包装好看,又不敢向他要。
誰かの手にきれいな飴の包み紙があっても、それを欲しいと言えない。
副詞「又」は「~であるが、その一方で」の意味で、対立または矛盾する二つの側面を表す。
(用例)想离婚,又不敢直说。離婚したいのに、はっきり言えない。
(用例)看着面熟,却又想不起来他的名字。顔は知ってるが、名前が思い出せない。
(用例)心里有话,又不好意思说出来。言いたいことがあるが、口に出して言うのはきまりが悪い。
又不敢向他要就一直跟着他。それを欲しいと言えずに、ずっとその人の後をついて行ったりする。
副詞「就」は、前節の条件・原因を受け、後節で判断・結論を導く。(そこで、すると、于是)
(用例)一见面就一直在想她。一目見た時からずっと彼女を思い続けている。
(用例)巨人队一输,爸爸就不高兴。ジャイアンツが負けると、父は機嫌が悪い。
(用例)那只狗特别胆小,见人就叫。あのイヌはすごく臆病で人を見るとすぐほえる。
每张都会有一个故事。一枚一枚それぞれに人を惹きつける物語的な要素があるものだ。
助動詞「会」は「はずだ、ちがいない」の意味で、確信的な推量・可能性を表す。
(用例)谁都会有些长处。誰でもなにかしら得意なことがあるものだ。
(用例)附近的超市会有卖的吧。近所のスーパーで売っているはずだ。
(用例)有了第二次就会有第三次。二度あることは三度あるに違いない。
于是那些所谓的次品,也就是因为机械的误操作而没包进糖的糖纸,就特别受我们的欢迎。
そこで、そうしたいわゆる「不合格品」つまり機械の誤操作で飴が包まれなかった包み紙は、とりわけ人気があった。
副詞「就是」は「つまり、すなわち」の意味で、前節で述べた事柄に対して、その内容説明を加える。
(用例)免费就是不要钱。無料とは、つまりタダの事だ。
(用例)就是说,你的意思是不想去。つまり、きみは行きたくないというんだね。
(用例)所谓美食家就是指那些口馋的人。いわゆるグルメというのは、要するに食べ物に卑しい人だ。
甚至有人还故意去奉承她。なかにはことさらにお世辞を言う者さえいた。
副詞「还」は、予想外の事態に対する語気を表す。(なんと)
(用例)明明知道不对,还故意去做坏事。悪いと分かっているくせに、わざと悪いことをするなんて。
(用例)没想到像你这样的人还会搞这种事。これはしたり、あなたのような人がそんなことをするなんて。
(用例)不仅不为自己的失败而感到羞耻,甚至还批评别人。自分の失敗を恥じるどころか、他人を批判さえするなんて。
后来我的这些“宝贝”还是失落掉了好大一部分。その後、これらの「宝物」の多くは紛失してしまった。
副詞「还是」は「結局、やはり」の意味で、事態の最終的な状況を説明する。(结果还是,最后还是)
(用例)最后还是钱的问题。結局は金の問題だ。
(用例)还是别人的是,不问也好。しょせん他人事だ、聞かなくてもよかろう。
(用例)他说了半天、还是没有把这个问题讲明白。彼は長いことしゃべったが、やはりこの問題をはっきり説明できなかった。
再看看现在一些孩子们收集邮票、手表等“珍贵”的物品。改めて今、切手や時計など貴重な物を集める最近の子供たちを見ると。
副詞「再」は、ある時間を経た後に、再び動作が繰り返されることを表す。(再び、引き続き、重新,继续)
(用例)明天早上再联系你。明日の朝、改めて連絡する。
(用例)先用油炸过后再煮。いったん油で揚げて再び煮込む。
(用例)毕业后,大家就没再见过。卒業後、みんなが再び会うことはなかった。
(五十二課 収集)
子供時代、女の子の夢はみな彩り豊かで美しいものだった。
私の子供時代は、今の子供たちよりもずっと幸せだったように思う。
授業も宿題もそれほど多くなかったし、琴や書画といった習い事も学ぶ必要はなかった。
加えて、両親は仕事で忙しく、私の勉強にきつく口を出すこともなかった。
だから私は、騒いだり悪さをしなければ、大いに自由を満喫できた。
同級生の女の子たちは「飴の包み紙」を集めるのがブームだった時期がある。
入れ込むというか、無我夢中になる子もいた。
誰かの手にきれいな飴の包み紙があり、それをもらう勇気がないと、その人が飴を食べ終わって
紙を捨てるまで、ずっと後をついて行ったりした。
飴紙は色鮮やかで美しく、一枚一枚になにかしら人を惹きつけるものがあった。
あの頃の飴はみな、両端にひねりを加えて包装されていたようだ。
きれいな飴紙を手に入れるには、まずよく洗って、ガラス板の下に平らに敷き、二日間押さえつけ、
それでようやくきれいになった。
しかし、飴の包み紙を完全に剥がすのは、なかなか容易なことではない。
そこでいわゆる「不合格品」、つまり機械の誤操作で飴が包まれなかった包み紙は、とりわけ人気があった。
それはもう極めて完璧な飴紙だった。
当時、同じクラスに母親が食品店で働いている女の子がいた。
容易にそれらの包み紙を手に入れることができることから、彼女は同級生の羨望の的となり、
媚びへつらって彼女におべっかを使う者さえいた。
何枚かの紙のために、このありさまだから、小さな女子生徒たちの苦労もハンパではない。
私は彼女たちほど夢中にはならなかったものの、時間が経ってみるとコレクションも豊富になった。
もちろん、彼女らの飴紙に比べれば質も量もかなり見劣りする。
しかし、暇にまかせて飴紙を挟んだ本をめくって、つらつら眺めるのは、やはり楽しいものだった。
ただ残念なことに、私のこれらの「宝物」の多くは、その後紛失してしまった。
引っ越しの時に失くしたのかも知れないし、私がそれほど熱心でなくなったのを見て、親が捨てたのかもしれない。
いずれにせよ、これは私が成長し、より新しく、より美しいものを追い求めるようになったことを物語っている。
私の母は時々、アイスキャンディーの棒を集めてお金に換えたという子供の頃の話を私にしてくれた。
私はその都度、飴紙を集めていたことを思い出すのだった。今こうしてまた切手や時計などの貴重な物を
集める最近の子供たちを見るにつけ、確かに年代ごとに、それぞれ特徴や傾向というものがあるようだ。
五十三課
五十三课
太阳和月亮
中秋的晚上,我们全家一起赏月。
看着深蓝色天空中银色的月亮,我好奇地问爸爸:
“爸爸,老师告诉我们,太阳和月亮差很大。
但为什么它们在天上看起来一样大?”
爸爸笑了,说:“你不是想当天文家吗?
你能不能研究一下这个问题?
你可以去图书馆或上网查找你需要的数据,答案就在那些数据中。”
哇,好奇心又给我找麻烦了,又得少玩儿好多电子游戏了!
我在网上查找了好多关于太阳和月亮的数据,反复研究,算出了许多结果,但就是找不到原因。
爸爸又告诉我说:“一个好的科学家不能只是算数字,而且要多动脑子,
要从一堆数字中找出和问题有关的东西来。”
在爸爸的帮助下,我选了几个重要数据:太阳和月亮的直径:太阳和月亮离地球的距离。
我又仔细研究了这几个数据,一下子跳了起来,对爸爸说:“我明白了!
太阳离地球的距离比月亮离地球的距离差不多大400倍,
而太阳的直径比月亮的直径也差不多大400倍,
所以它们在天上看起来就几乎一样大了,对吗?”
爸爸很高兴,大笑起来。
由此,我也懂得了一个很重要的道理:世界上,有很多谜,要仔细地观察、思考和研究才能把它们解开。
科学家就是这样做的。
比如从苹果掉在地上这个现象中,发现了万有引力,看到地球两个大陆海岸线的形状相似从而提出了大陆漂移理论。
要不是他们仔细观察,认真研究,又怎么能知道在这些简单现象后面隐藏着这么多科学道理呢?
但就是找不到原因。(却怎么也找不到理由) どうしても理由が見つからなかった。
副詞「就是」は「どうしても」の意味で、話し手の断定・強調の語気を表す。(怎么也)
(用例)他就是不同意。彼はどうしても賛成しない。
(用例)不管多痒,就是不笑。いくらくすぐっても、どうしても笑わない。
(用例)明明闹钟有三个,但就是起不来。目覚まし時計が三つもあるのに起きられない。
一个好的科学家不能只是算数字。優れた科学者は、ただ数字を計算するだけではいけない。
助動詞「不能」は「するべきではない」の意味で、望ましくない行動を咎めることを表す。(不应该)
(用例)不能只顾自己。自分のことばかり考えていてはいけない。
(用例)这事我们不能不管。この件は放っておくわけにはいかない。
(用例)不能只看事情的表面。物事のうわべだけを見てはいけない。
我又仔细研究了这几个数据。これらのデータを引き続きじっくり調べた。
副詞「又」は「今度はまた、引き続き」の意味で、続いて起こる事柄の前後関係を表す。(然后)
(用例)他画了画儿,又写字。彼は絵を描いてから字を書いた。
(用例)刚洗完衣服,她又去忙别的。洗濯を終えると、彼女は引き続き別の仕事をやり出した。
(用例)事件告一段落后,又出现了另一个问题。事件が一段落すると、今度はまた別の問題が発生した。
科学家就是这样做的。科学者たちは、まさしくそれを行っているのだ。
副詞「就是」は「まさに、ほかでもなく」の意味で、話し手の断定・強調の語気を表す。
(用例)时间就是金钱。時は金なり。
(用例)你看,那就是天安门。ほら、あれこそが、ほかならぬ天安門だ。
(用例)他就是我常提起的王先生。彼こそがまさしく、私がいつも言っている王さんだ。
又怎么能知道在这些简单现象后面隐藏着这么多科学道理呢? これらの単純な現象の背後に、
こんなにも多くの科学的真理が隠されていることをどうやって知ることができただろうか?
副詞「又」は、反語文の前に置き、反発の語気を表す。
(用例)不知道,又怎么不行呢。知らないからって何がいけないんだ。
(用例)你现在后悔,又有什么用。今さら後悔しても何にもならない。
(用例)跟外国人结婚,又有什么不好呢。外国人と結婚して、どこが悪いの。
(五十三課 太陽と月)
中秋節の夜、家族みんなで月見をした。
真っ青な空に白銀の月を眺めながら、僕は小首をかしげて父に尋ねた。
「お父さん、太陽と月の大きさは、とてもかけ離れていると先生が言ってた。
でも、どうして空では同じ大きさに見えるんだろう?」
父は笑って言った。「お前は天文学者になりたいんじゃないのか?
どうだい、この問題を自分で調べてみないか。
図書館に行ってもいいし、インターネットで必要なデータを調べてもいい。
答えはそれらのデータの中にあるんだ」
うわー、好奇心がまたしても面倒を招いてしまった!
またもやTVゲームの時間をかなり減らす破目になりそうだ。
僕はインターネットで太陽や月に関する多くのデータを繰り返し検索して、
あれこれ自分なりの答えを出してみたが、どうしても理由が見つからなかった。
父はまたアドバイスしてくれた。
「優れた科学者は、ただ数字を計算するだけではだめで、頭をたくさん使わないといけない。
たくさんの数字から、その問題に関連する何かを見つけ出すんだ」
父の助けを借りて、僕は太陽と月の直径、太陽と月の地球からの距離といった重要な
データをいくつか選び出した。
これらのデータを引き続きじっくり調べていたときに、僕は一気に飛び上がって父に言った。
「わかったよ! 太陽と地球の距離は、月と地球の距離のほぼ400倍。
そして太陽の直径も月の直径のほぼ400倍。
だから、空ではほとんど同じ大きさに見えるんだ。そうでしょう?」
父は大喜びで笑った。ここから、僕はとても重要な真理をひとつ理解した。
世の中には謎がたくさんあって、それらは注意深く観察し、考え、研究しなければ解明できない。
科学者はまさにそれを行っているんだ。
例えば、リンゴが地に落ちるという現象から、万有引力を発見し、地球の二つの大陸の
海岸線の形が似ているのを見て、大陸移動説が提唱された。
もし彼らが注意深く観察し、研究しなければ、これらの単純な現象の背後に、
こんなにも多くの科学的真理が隠されていることをどうやって知ることができただろうか?
五十四課
五十四课
关于京剧
京剧与西洋剧似乎没有什么本质的区别,但欣赏方式以及演员与观众的交流方式却不太一样。
听歌剧不允许在一首咏叹调尚未结束时叫好或鼓掌,要喝彩也要等到一曲终了。
京剧就不同了。
不论看表演还是听唱腔,只要是到了妙处,立刻就可以叫好。
听到台下有叫好声,演员会十分高兴,这说明他的表演得到了承认。
京剧的这个特点,大概与早期没有专门的戏曲园地有关,于是观众对演员的评论
就以当场叫好这种更直接、更及时的方式体现出来。
今天,尽管戏曲评论相当发达,但当场叫好仍作为演员与观众直接沟通的一种方式保留下来。
如果不了解这一点,恐怕就会认为是有人在故意捣乱。
京剧就不同了。(京剧却不同) だが京劇の場合は違う。
副詞「就」は、前節で述べた事柄と比べた結果、出て来た結論を提示する。
(用例)日本物价很贵,中国就便宜得多。日本の物価は高いが、中国ではずっと安い。
(用例)他三天来一次,你一天就来三次。彼は三日に一回来るが、君は一日に三回も来る。
(用例)他的汉语水平很高,英语就差一些。彼は中国語はよくできるのに、英語はやや劣る。
語気助詞「了」は、聞き手の注意を喚起して、情報を伝達したり、事実の念押しをする。
(用例)吃饭了! 食事の時間だ。
(用例)我刚才不是说过了吗! さっき言ったじゃないの。
(用例)跟那时比时代不同了。あのころとは時世が違うんだ。
当场叫好仍作为演员与观众直接沟通的一种方式保留下来。
その場で掛け声をかけることは、役者と観客との直接的な意思疎通の手段として受け継がれて来た。
結果補語「下来」は、過去から現在まで、安定的に継続・残存されて来たことを表す。
(用例)从古代流传下来的故事。昔から語り継がれて来た話。
(用例)历史文物完整地保存下来。歴史的文化財が無傷で保存されてきた。
(用例)繁忙而拖下来的问题得到解决。忙しくて伸び伸びになっていた問題が片付いた。
(五十四課 京劇について)
京劇と西洋のオペラに本質的な違いはないように思えるが、観劇のルールや役者と観客との
交流の仕方といった点で異なる部分がある。
オペラを聴く時に、アリアが終わる前に歓声を上げたり、拍手したりすることは許されない。
声援を送る時にも、曲が終わるまで待たなくてはならない。だが京劇の場合は違う。
演技を観ていても、歌を聴いても「ここぞ」という見せ場があれば、すぐに歓声を上げてよい。
客席で歓声が上がると、役者は自分の演技が認められたことになり、とても嬉しくなる。
京劇のこのような特徴は、おそらく初期に専門の舞台や劇場がなかったことと関係している。
そのため、観客が役者を評価する時には、その場で掛け声をかけるという、より直接的で
タイムリーな方法が用いられた。
演劇批評がかなり発達した今日でも、その場で掛け声をかけることは、役者と観客との直接的な
意思疎通の手段として受け継がれて来た。
これを理解しないと、おそらく誰かが、故意に野次を飛ばしていると思われるかも知れない。
五十五課
五十五课
月饼的历史
有人以为吃月饼与送月饼,自古以来就与中秋节有关。其实,情况并非如此。
原来,初唐时,农历八月只有初一是节日,而没有十五这个节日。
相传,后来唐明宗曾于八月十五夜游月宫,民间才把八月十五这一天作为中秋节。
到了中唐,人们开始在八月十五之夜登楼观月,而当时还没有月饼出现。
说到月饼的出现最早是在南宋的时候。
不过,当时的月饼与中秋节毫不相干,当时的月饼与现代的月饼亦大不相同,只是作为一种蒸的食品在饮食领域出现而已。
月饼真正与中秋节产生联系是在明代。
当时,北京城里出现了一种以果做馅的月饼,人们在中秋节这一天自己制作月饼,
用于食用和赠送亲朋好友,以表达团圆和祝贺之意。
民间才把八月十五这一天作为中秋节。民間ではそれに因んで8月15日を中秋節とした。
副詞「才」は、前節の条件が備わってはじめて、後節の情況が成立することを表す。(~してはじめて)
(用例)看报纸才知道。新聞を読んではじめて知った。
(用例)一个人生活之后,我才明白父母的可贵。一人暮らしをしてはじめて、親のありがたさがわかった。
(用例)几次留级后,念了八年才把大学念完。何回も落第したあげく、八年も大学に通ってやっと卒業した。
(五十五課 月餅の歴史)
月餅を食べたり、贈ったりすることは、古くから中秋節に関係があるとされるが、実はそうではない。
もともと唐の初期には、旧暦8月1日だけが祝日で、15日は祝日ではなかった。
その後、唐の明宗が8月15日の夜に「月の宮殿」を訪れたという伝説があり、それに因んで民間ではその日を中秋節とした。
中唐になると、人々は8月15日の夜、高楼で月を見るようになったが、当時はまだ月餅は登場していなかった。
月餅が最も早く登場したのは南宋の時代である。
しかし、当時の月餅は中秋節とは全く関係なく、現代の月餅とも異なるもので、蒸し物の一種として食の分野に登場したに過ぎない。
月餅が中秋節と密接な繋がりを持ったのは明代である。
当時、北京の街では果物を餡にした月餅が登場し、人々は中秋節に自分で月餅を作るようになった。
それを食用にしたり、一家団らんの祝いの席に相応しい食材として、親戚友人への贈答に用いられた。
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