オーケストラという言葉はギリシア語のオルケストラ(Orchestra)に由来する。
古代ギリシアで音楽劇の上演が盛んだった頃、舞台と客席との間に半円形のスペースが設けられ、そこではコロス(Choros)と
呼ばれる合唱隊が歌ったり踊ったりしていた。
その歌や踊りを演じるスペース、つまり客席前方の平土間を「オルケストラ」と呼んでいた。
時は流れ、16世紀から17世紀へと移りゆく頃、フィレンツェの貴族や文化人たちはギリシア古典劇の復活上演に熱中し、オペラを生んだ。
その歌詞を伴奏するために用いられたのが器楽合奏で、合奏団はギリシア古典劇の「オルケストラ」の場所に配置されていた。
やがてこの場所で演奏するようになった楽器奏者の集団自体が「オルケストラ」の名称で呼ばれるようになり、
このオルケストラが「オーケストラ」の語源だと言われている。
初期のオーケストラは、弦楽器を中心にフルート、オーボエ、トランペット、トロンボーンが加えられたものだった。
17世紀のバロック音楽の時代には、バッハやヘンデルたちによってオラトリオやカンタータの伴奏としてオーケストラが用いられるようになり、
オーケストラ独自のための音楽として合奏協奏曲や管弦楽組曲が生まれた。
18世紀の古典派時代には、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンらによって交響曲や協奏曲、オペラの伴奏として大いに発展し、
コンサートホールでの演奏に適応して弦楽器の数を増やし、またこの時期に誕生したクラリネットのような新楽器も加わって、ほぼ現在のような形となった。
1.チャイコフスキー「ピアノ協奏曲第1番」(Piano Concerto No.1) 第1楽章 変ロ短調
ホルンによる力強く踏み鳴らすような印象的な出だしで始まる主題が、ピアノとオーケストラによって3〜4分にわたり繰り広げられる。
壮麗でシンフォニックなオーケストレーションと絢欄たるソロ・ピアノの華やかさで、チャイコフスキーの出世作ともいえる作品。
2.チャイコフスキー バレエ組曲「白鳥の湖〜情景」(Swan Lake〜Scene)
1877年2月にモスクワ、ポリショイ劇場で初演されたチャイコフスキー(1840−1893)の「白鳥の湖」は悪要因が重なって不評に終わったが、
彼の没後ペテルブルクのマリインスキー劇場で上演されて大成功を収めた。
魔法使いによって白鳥にされたオデット姫と、姫に求婚して魔法を解こうとする王子ジークフリートの愛を描いたこのバレエの中でも、
オーボエが物悲しい白鳥の主題を奏する情景の音楽はあまりにも有名である。
3.ベートーヴェン「エグモント」序曲 (Egmont Ouverture)へ短調 Op.84
敬愛するゲーテの同名戯曲にべートーヴェン(1770−1827)はこの序曲とそのほか9曲の劇付随音楽を作曲した。
戯曲は16世紀オランダの実在の英雄をもとに書かれている。
スペインの圧政から祖国を救おうとしたフランドルの領主エグモントは故に捕らえられ、愛人クレールヒェンは彼の奪還に失敗して自害、幻影となって彼を勇気づける。
序曲はドラマティックな序奏から始まり、主部では悲劇的なエグモントの主題が奏される。
4.ベートーヴェン 交響曲 第5番 (Symphony No.5)「運命」 ハ短調
ベートーヴェンの交響曲の中でも最も緻密に設計された作品であり、その主題展開の技法や「暗から明へ」というドラマチックな楽曲構成は後世の作曲家に模範とされた。
なお「運命」という通称は、弟子アントン・シントラーの「冒頭の4つの音は何を示すのか」という質問に対し「このように運命は扉をたたく」
とベートーヴェンが答えたことに由来する。
5.ベートーヴェン 交響曲 第9番 (Symphony No.9)「合唱」(Choral) ニ短調
ベートーヴェンは、人類愛を歌い上げたシラーの詩「歓喜に寄す」に、21歳で出会い、いつかはこの詩に曲をつけたいと心に誓った。
それから30年あまりを経て、聴力を完全に失うという試練も乗り越え、最後の交響曲 「第九」 が誕生する。
初演の時、指揮をしていたベートーヴェンは、曲が終わったことがわからず、観客の拍手も聞こえなかった。
彼は歌手に教えられて、やっと振り向き、聴衆の拍手喝采に気づいたという。
過酷な運命にさらされたベートーヴェンが、絶望から立ち直って生み出した 「歓喜の調べ」は、私たちの心に圧倒的な力強さで訴えかけてくる。
6.ヴェルディ 歌劇「椿姫」(La Traviata)
17世紀前半、華やかなパリ社交界を舞台に、高級娼婦ヴィオレッタの純愛と哀しい運命を描いた歌劇。
作品は全3幕からなり、アレクサンドル・デュマの原作小説から、主要なエピソードを取り上げて、聴きどころに富んだ構成となっている。
悲劇でも音楽的には明るさ、華やかさ、力強さを失わないヴェルディの特質がもっとも良く発揮されており、人気の源泉となっている。
7.プッチーニ 歌劇「トゥーランドット」(Turandot)
古代中国の北京を舞台とする3幕物の歌劇で、1926年にイタリア・ミラノで初演された。
プッチーニ最後のオペラであり、オーケストラの充実した扱いとスペクタクル的な響きが特徴的で、ヴェルディの「アイーダ」に次いで屋外での上演が多いことで知られる。
「トゥーランドット」とは、フランソワ・ドラクロワ(Francois de la Croix)が、1710年に出版した作品「カラフ王子と中国の王女の物語」に登場する姫の名前である。
8.シューベルト 歌曲集「冬の旅」(Winterreise) 第5曲(菩提樹 Der Lindenbaum)
1827年、シューベルトは死の前年に、彼の最も重要な作品のひとつである「冬の旅」を作曲した。
彼はこの歌曲集で、抒情詩人ヴィルヘルム・ミュラー(Wilhelm Muller)の24編の詩を題材とした。
歌曲集には、恋に破れた若者の孤独な放浪の旅が綴られており、全曲を通して、疎外感や悲しみが強く表現されている。
「菩提樹」は「冬の旅」の5番目の作品。思い出の菩提樹のそばを通りかかった若者の郷愁が描かれている。
日本語歌詞は、明治時代の歌人・近藤朔風による「泉に添いて 茂る菩提樹」がよく知られている。
9.シューベルト 歌曲集「白鳥の歌」(Schwanengesang) 第4曲(セレナーデ Standchen)
「白鳥の歌」は、シューベルトの死の年(1828年)に書かれた曲を、ウィーンの出版社がまとめたもの。
ハイネ(Heinrich Heine)、レルシュターブ(Ludwig Rellstab)らの歌詞による14曲からなる。
なお、白鳥は死に臨んで美しい声で鳴くといわれ「白鳥の歌」は「遺作」の意である。
セレナーデ(Standchen)は、レルシュタープの詩による夜の静けさの中で恋人を呼び覚ます情景を
描いたもので、恋人に対する切ない想いが歌われている。
ルネサンス時代(1500年頃)から、夕べに恋人の窓の下で歌う曲は「セレナーデ」と呼ばれていた。
10.スメタナ 交響詩「わが祖国」(Ma vlast) 第2曲(モルダウ Moldau)
オーストリア圧政下のチェコで国民音楽運動の先駆者として苦難の人生を歩んだスメタナ(1824−1884)は、失聴した晩年に祖国の歴史や風物への愛をこめて
6曲からなる連作交響詩「我が祖国」を書いた。
その第2曲「モルダウ」はチェコの人々の親しむヴァルタヴァ川(ドイツ名モルダウ)がテーマ。
曲は山奥のふたつの水源をあらわすフルートの調べに始まり、川岸の狩りや祭りのにぎわい、月夜の川の光景、逆巻く急流などを描いていく。
11.モーツァルト「セレナード 第13番」(Eine kleine Nacht Musik) 第1楽章 ト長調
「小さな夜の音楽」という愛称のあるこの曲は、モーツァルト(1756−1791)の多くのセレナード中もっとも有名なものである。
セレナードは本来戸外で演奏されたために音量の大きな管楽器を含むが、この曲はなぜか管楽器ぬきの弦5部4声で書かれている。
完成日付は、ウィーン時代1787年8月10日。
全部で4つの楽章から構成され、ヴァイオリンの溌刺とした応答主題に始まるこの第1楽章はとりわけよく知られている。
12.グリーグ 「ペール・ギュント〜朝」(Peer Gynt〜Morning)第1組曲 作品46 ホ長調
ノルウェーのグリーグ(1843−1907)は母国の自然主義作家イプセンの戯曲をもとに30数曲からなる劇音楽「ペール・ギュント」を作曲した。
劇のストーリーは、放蕩者ペール・ギュントが冒険の旅の末故郷へ帰り、婚約者の膝を枕に死んでいくというもの。
2つの組曲のうち第1組曲の第1曲がこの「朝」で、劇中では、ペールがモロッコの海岸に立ってすがすがしい朝を満喫する場面の音楽。
フルートとオーケストラが互いに呼応しあう。
13.バッハ「G線上のアリア」(Air on the G String)管弦楽組曲 第3番 ニ長調 BWV1068
バッハ(Johann Sebastian Bach 1685−1750年)の曲の大半はルター派教会のための作品だった。
G線上のアリアは、イエスの受難の物語を扱った曲であり、ルター派の教会音楽の頂点とされている。
バッハ40歳の頃の作品で、管弦楽組曲第3番二長調の第2楽章(Air)として書かれた原曲を、ヴァイオリン奏者の
アウグスト・ヴィルヘルミ(August Wilhelmj)がヴァイオリンとピアノのために編曲したもの。
ヴァイオリンの四本の弦のうち一番低いG線だけで演奏できることから、後に「G線上のアリア」というタイトルがつけられた。
14.ドヴォルザーク「スラヴ舞曲」(Slavonic Dances)第10番 ホ短調
ドヴォルザーク(1841−1904)が世に出るきっかけとなったのは貧しく無名だった30代にオーストリア政府の奨学金に応募して審査員だったブラームスの目に留まったことだった。
民族色の濃厚な舞曲集を書いてみたら、というブラームスの勧めによって、2集全16曲からなる「スラヴ舞曲集」を書いた彼は爆発的ヒットを飛ばす。
全曲中もっとも有名なこの第10番はポーランドの民族舞曲によるもので、切なく甘美な旋律を持つ。
15.ブラームス「ハンガリー舞曲」(Hangarian Dance) 第5番
ブラームス(1833−1897)は20歳のときハンガリー出身のヴァイオリニストの伴奏者として各地を演奏旅行して回り、このとき聴き覚えたハンガリー・ジプシーの旋律をもととして
のちに21曲からなる「ハンガリー舞曲集」を編作した。
これらは最初、当時の家庭音楽の花形、ピアノ連弾譜として出版され、のちにオーケストラ版にも編曲された。
この有名な第5番は民族色の濃厚な旋律がまず急テンポで奏され、途中でテンポが変化する。
16.J.シュトラウス 円舞曲「美しく青きドナウ」(An Der Schonen Blauen Donau)
「ワルツ王」J・シュトラウスU(1825−1899)は、「ワルツの父」と呼ばれる同名の父上シュトラウスTの長男。
作曲家志望を父に反対され母親の後押しで音楽を学んだ彼は、19歳でデビュー、瞬くうちに父親を凌駕した。
彼の代名詞のようなこの曲は1867年、その前年プロイセンとの戦いに破れ、意気消沈してしまったウィーン市民を鼓舞するために書かれたもの。
ウィーンの母なるドナウへの賛美に託し、祖国への愛が表現されている。
17.ジュール・マスネ 「タイスの瞑想曲」(Meditation from Thais)
「タイス」は、文豪アナトール・フランス(Anatole France)の同名の小説に基づいたオペラであり、第2幕で流れる間奏曲「タイスの瞑想曲」は、
ヴァイオリン独奏曲としても広く知られている。
切々と訴えかける独奏ヴァイオリンと印象的なハープが織りなす音色は、聴く者の心を浄化するような美しさがある。
18.パガニーニ 「ヴァイオリン協奏曲 第1番」(Violin Concerto No.1)ニ長調 第1楽章
ヴァイオリンには、弓を使わず弦を指ではじく「ピチカート」という奏法があるが、普通は左手で弦を押さえて右手ではじく。
しかしパガニーニは本来弦を押さえる左手の方で弦をはじく「左手ピチカート」の奏法を生み出している。
「ヴァイオリンの鬼神」とまで言われたパガニーニの華やかな技巧はこの作品の聴きどころである。
19.ラフマニノフ 「ピアノ協奏曲第2番」(Piano Concerto No.2)ハ短調 第1楽章
ラフマニノフは、最初の交響曲を酷評され、すっかり自信を喪失したが、精神科医ダール博士の「協奏曲を書けば傑作になる」という暗示で、この曲を書き、大成功を収めた。
第1楽章は、なにかを予感させるような、ゆっくり重々しい冒頭の和音の後、緩やかに高揚して緊迫にみちびく管と弦の悲愴なまでの旋律が繰り返される。
ロシアの批評家は、これをロシア革命前夜のパトスから生まれた「高ぶった情感」と表現した。
20.ワーグナー 楽劇「ヴァルキュリー」 第三幕 前奏曲「ヴァルキュリーの騎行」
ワーグナは、北欧やゲルマンの神話をもとにした「ニーベルンゲンの指輪」(Der Ring des Nibelungen)を、1876年に初演し、
ドイツ人の心を揺さぶり、ドイツ・ナショナリズムの高揚に貢献した。
のち、ワーグナーの音楽を愛好するヒトラーは、ワーグナーが自分の音楽を演奏するために建てたバイロイト祝祭劇場(Bayreuth Festspielhaus)を保護している。
「ヴァルキュリーの騎行」(Ride of the Valkyries)は、楽劇 「ニーベルンゲンの指輪」の第一夜 楽劇「ワルキューレ」の第三幕の前奏曲である。
「ヴァルキュリー」とは、北欧神話に登場する複数の半神を指し「戦死者を選ぶ者」という意味をもつ。
結婚式で用いられる「婚礼の合唱」と並び、ワーグナー作曲の中でも最もポピュラーな作品として知られている。