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  ことわざ一覧

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敢把皇帝拉下马 gǎn bǎ huáng dì lā xià mǎ いかなる困難があろうとも生死をかけてやり遂げる。(舍得一身剐,敢把皇帝拉下马。わが身が八つ裂きになろうとも、あえて皇帝を権力の座から引きずり降ろす)
赶浪头 gǎn làng tou 時流に乗る。大勢についていく。(她赶浪头,追韩国的明星。彼女はブームに乗って、韓国のスターを追いかけている)
干了的葫芦 → 肚里空  gàn le de hú lu → dù lǐ kòng 乾いた瓢箪 →  腹の中は空っぽ。腹ペコ
感冒是百病之源 gǎn mào shì bǎi bìng zhī yuán 風邪は万病のもと。(六十五岁以上的老年人来说,感冒虽是小病却不能忽略,这是因为感冒是百病之源。六十五歳以上の高齢者にとって、風邪はちょっとした病気だが、油断は禁物である、風邪は万病のもとだからだ)
敢怒而不敢言 gǎn nù ér bù gǎn yán 敢へて怒れども敢へて言はず。じっと怒りを抑えて黙りこくる。内心不満ではあるが口に出すことがはばかられる。(官府为非作歹,百姓敢怒而不敢言。役人はほしいままに悪事を働き、人民は怒りを口に出せない)
赶鸭子上架 gǎn yā zi shàng jià できないことを無理にやらせる。(我不会唱歌,他们却硬要我唱,这不是赶鸭子上架吗? 私は歌が下手なのに、彼らはどうしても私に歌わせようとする、これは無理強いというものではなかろうか)
赶鸭子上架 → 有意作难  gǎn yā zi shàng jià → yǒu yì zuò nán アヒルを止まり木にとまらせる →  無理難題の意地悪
甘蔗没有两头甜 gān zhè méi yǒu liǎng tóu tián サトウキビに両端とも甘いものはない。物事は同時に各方面を立てることはできない。(顾了工作就顾不了家,精力放在家里就难以全身心地投入工作,简直是甘蔗没有两头甜。仕事が忙しいと家のことはかまっていられない、家庭に気を配っていると、今度は仕事がおろそかになる、あちら立てればこちら立たずというやつだ)
高不成低不就 gāo bù chéng dī bú jiù 高きは成らず、低きは就(つ)かず。高いものは望めないし、低いものは望まない。帯に短し襷に長し。(他的婚事总是高不成,低不就,所以到现在还没有对象。彼の縁談はいつも帯に短し襷に長しで、今になってもまだ相手がいない)
高粱杆做扁担 → 挑不起重担  gāo liang gǎn zuò biǎn dan → tiāo bù qǐ zhòng dàn 高粱の茎を天秤棒にする → 重責は担えない
高枕无忧 gāo zhěn wú yōu 枕を高くして眠る。(大家不要以为洪水过后就可以高枕无忧了。洪水が治まっても警戒を怠ってはならない)
隔岸观火 → 袖手旁观 gé àn guān huǒ → xiù shǒu páng guān 対岸の火事 → 他人の災難を見て喜ぶ
各吹各的号,各唱各的调 gè chuī gè de hào,gè chàng gè de diào めいめいがそれぞれのらっぱを吹き、めいめいがそれぞれの節回しで歌う。めいめいがてんでばらばらにやる。
隔行如隔山 gé háng rú gé shān 業を隔つは山を隔てるが如し。商売が違えば山を隔てるように事情は全くわからない。(真是隔行如隔山,医生哪里知道小麦品种。餅は餅屋と言うように、医者に小麦の品種のことなど分かりはしない)
割鸡焉用牛刀 gē jī yān yòng niú dāo 鶏を割くに焉んぞ牛刀を用いん。鶏を裂くのにどうして牛刀を用いることがあろうか。小事を処理するのに、大人物や大げさな方法を用いる必要はない。(論語陽貨篇)
隔墙有耳 gé qiáng yǒu ěr 壁に耳あり、障子に目あり。(他轻声地说:“嘘,小心隔墙有耳”。彼は「しっ、壁に耳ありだ」とささやいた)
各人自扫门前雪,莫管他人瓦上霜 gè rén zì sǎo mén qián xuě,mò guǎn tā rén wǎ shàng shuāng 自分の門前の雪を掃き、他人のかわらの霜に構うな。自分の頭の上のはえを追え。
隔山买老牛 gé shān mǎi lǎo niú 山を隔てて老いた牛を買う。状況を良く把握せず安易に決断する。軽率である事の喩え。(你不问她的尺码,就给她买戒指,这不是隔山买老牛吗?サイズを聞かずに指輪を買ってあげるなんて、浅はかと言うより愚かの極みだね)
胳膞拧不过大腿去 gē zhuān nìng bú guò dà tuǐ qù 腕は太ももをねじ曲げることはできない。強いものには勝てぬ、長いものには巻かれろ。
割自己的肉,知人家的疼 gē zì jǐ de ròu,zhī rén jiā de téng 自らの肉を割いて、人の痛さを知る。我が身をつねって人の痛さを知れ。
各走各的路,各投各的店 gè zǒu gè de lù,gè tóu gè de diàn めいめいがそれぞれの道を歩み、めいめいがそれぞれの宿屋に泊まる。各人が勝手に物事をやって互いに干渉しない。
更上一层楼 gèng shàng yì céng lóu もう一階上へ上がる。より高いところをめざす。(欲穷千里目,更上一层楼。千里の目を窮(きは)めんと欲して、更に上る一層の楼)(王之渙 登鸛鵲楼)
功到自然成 gōng dào zì rán chéng 功、到れば自然(おのづ)から成る。努力さえすれば何事も必ず成功する。石の上にも三年。
觥饭不及壶飧 gōng fàn bù jí hú sūn 觥飯(こうはん)も壺飧(こそん)に及ばず。用意ができぬ馳走より、湯漬けのほうが飢えを凌ぐ。質素でも手に入った物を食べるべきである。 (觥饭 山海の珍味、壶飧 雑炊)
恭敬不如从命 gōng jìng bù rú cóng mìng 恭(つつ)しみ敬(うやま)はんとすれば、命に従うに如かず。相手に恭順の意を示したければ、相手の言うとおりにしたほうがよい。(もてなしを受けたり、贈り物を受け取るように人に勧める言葉として用いる)
攻其一点,不及其余 gōng qí yì diǎn,bù jí qí yú 其の一点を攻めて、其の余に及ばず。枝葉末節だけを取り上げて攻撃し、全体を顧みない。(评论一部作品,一定要全面,准确地加以分析,而不能攻其一点,不及其余,抓住个别枝节问题大做文章。ある作品を論評するとき、全般的に正確に分析して評価すべきであり、枝葉末節だけをとらえて騒ぎ立ててはならない)
公说公有理,婆说婆有理 gōng shuō gōng yǒu lǐ,pó shuō pó yǒu lǐ 舅は自分に理があると言い、姑も自分に理があると言う。どちらにも言い分があるが、結局水掛け論で終わる。
功遂身退,天之道 gōng suì shēn tuì,tiān zhī dào 功成り名遂げて身退くは天の道なり。(惜しまれてやめるのが男の花道である)(老子)
攻无不克,战无不胜 gōng wú bú kè,zhàn wú bú shèng 攻めて克(か)たざるはなく、戦って勝たざるはなし。百戦百勝。
工欲善其事,必先利其器 gōng yù shàn qí shì,bì xiān lì qí qì 工(たくみ)、其の事を善(よ)くせんと欲せば、必ず先(ま)づ其の器(うつわ)を利(みが)くべし。職人がよい仕事をしようとするなら、まずその道具に磨きをかけておかねばならない。人もまた立派な人間を志すならば、賢者に近づいて学び、自らを磨き、研鑽を怠らない心掛けが必要である。(論語)
狗拿耗子 → 多管闲事 gǒu ná hào zi → duō guǎn xián shì 犬が鼠を捕まえる → 余計なことをする
狗咬吕洞宾 gǒu yǎo lǚ dòng bīn 善人か悪人かの見分けがつかない(不识好歹)没良心的,狗咬吕洞宾,不识好人心(紅楼夢 第二十五回)恥知らず!それこそ見境なしに呂洞賓様にも吠えつく犬のことよ。
狗嘴里吐不出象牙 gǒu zuǐ li tǔ bù chū xiàng yá 犬の口から象牙は出てこない。下品な人間からいい言葉は出ない。
古井里的蛤蟆 → 没见过大世面 gǔ jǐng lǐ de há ma → méi jiàn guò dà shì miàn 井の中の蛙 → 世間知らず。
顾前不顾后 gù qián bú gù hòu 前を顧(かへり)みて、後ろを顧(かへり)みず。目先のことだけを考えて、後のことを考えない。(好几次出门,都是雨天,雨后每次就丢失了伞都会觉得可惜,真是顾前不顾后。出かけるたびに雨にあい、雨がやむたびに傘を失くして惜しがっている、後先を考えずとはこのことだ)
古人之糟魄已 gǔ rén zhī zāo pò yǐ 古人は之(こ)れ糟粕(そうはく)のみ。書物に残された聖人の言葉は、古臭い死んだ知識であり、酒かすのようなものである。(聖人の道は言葉では伝え尽くせないものだ)(荘子)
顾头不顾尾、藏头不顾腚 gù tóu bú gù wěi、cáng tóu bú gù dìng 頭を顧(かへり)みて尾を顧(かへり)みず、頭を隠して尻を顧(かへり)みず。頭隠して尻隠さず。
故纸堆 gù zhǐ duī 古い書籍や資料の山。役に立たない時代遅れの知識。(不要让青年人钻在故纸堆里。若い人たちを古紙の山に埋没させてはならない)
顾左右而言他 gù zuǒ yòu ér yán tā 左右を顧(かへり)みて、他(よそごと)を言ふ。本題を避けて別のことを話す。(王顾左右而言他。王は左右の家来を見て、別の話をしてごまかした)(孟子 梁恵王下)
瓜田不纳履,李下不整冠 guā tián bù nà lǚ,lǐ xià bù zhěng guàn 瓜田(かでん)に履(くつ)を納(い)れず、李下(りか)に冠を正さず。瓜畑に入ると、瓜泥棒にまちがえられるので、足を踏み入れない、またスモモの木の下では、手を上げて冠をかぶり直すようなことはしない。人に疑われるような事はしない。
挂羊头,卖狗肉 guà yáng tóu,mài gǒu ròu 羊の頭を掛けて、犬の肉を売る。見せかけだけは立派。羊頭狗肉。(这些专制暴君也喊民主,不过是挂羊头,卖狗肉罢了。専制暴君までが民主を叫んでいるが、あれは見せかけだけに過ぎない)
关东出相,关西出将 guān dōng chū xiāng,guān xī chū jiāng 関の東より相(しゃう)出でて、関の西より将(しゃう)出づる。函谷関(かんこくかん)より東は人々が文芸を好み、多くの宰相が出ており、一方、函谷関より西は人々が武芸を好み、多くの将軍が出ている。(函谷関は、河南省に位置する中国最古の関所である。中原(華北五省)と関中(陝西省中部)との関門をなすため、古来、多くの攻防戦が行われた)(晋書 姚興載記)
关公不杀曹操 → 思念旧情 guān gōng bù shā cáo cāo → sī niàn jiù qíng 関羽、曹操を見逃す → 恩義を重んじる
关公面前耍大刀 → 自不量力 guān gōng miàn qián shuǎ dà dāo → zì bú liàng lì 関羽の前で大なたを振るう → 身の程知らず
关门养虎,虎大伤人 guān mén yǎng hǔ,hǔ dà shāng rén 門を関(と)ざして虎を養えば、虎の大(だい)なりて人を傷(あや)める。飼い犬に手をかまれる。
关上打狗 → 没泡 guān shàng dǎ gǒu → méi pào 戸をしめて犬を打つ → 袋のネズミ。 没泡(逃げようがない)
光棍不吃眼前亏 guāng gùn bù chī yǎn qián kuī 光棍(かしこきもの)は眼の前の損を食さず。利口な人は不利な状況に陥ってもしばらく我慢してみすみす損なことはしない。
光阴似箭,日月如梭 guāng yīn sì jiàn,rì yuè rú suō 光陰矢の如く、歳月梭(ひ)の如し。 如梭(機織りの横糸のようにめまぐるしく過ぎる)
贵其所长,忘其所短 guì qí suǒ zhǎng,wàng qí suǒ duǎn。 その長ずる所を貴び、その短なる所を忘る。部下の長所に目を向け、短所には目をつぶる。(三国志 孫権)
贵人多忘事 guì rén duō wàng shì 貴人は事を忘れることが多い。身分の高い人はよく物忘れをする。(贵人多忘,国士难期。貴人は忘れっぽく、天下人はあてにならない)(唐摭言 恚恨)
归师勿掩,穷寇莫追 guī shī wù yǎn,qióng kòu mò zhuī 帰師(きし)は掩(う)つなかれ、窮寇(きゅうこう)は追うなかれ。(窮地に立った敵は、必死に抵抗してきて、思わぬ損害をうけるので、追いつめてはいけない)(帰師 逃げる軍勢、窮寇 追い詰められた敵)(孫子)
过而不改,是谓过矣 guò ér bù gǎi,shì wèi guò yǐ 過ちて改めざる、是を過ちと謂う。(人間である限り、過ちの無い者はない。だが、本当の過ちとは、過ちと知りながら反省を怠り、なお改めないことだ)。(論語)
国破山河在 城春草木深 guó pò shān hé zài   chéng chūn cǎo mù shēn 国破れて山河在り 城春にして草木深し(国家は敗れ人民は離散したが、ただ自然の山河のみは依然として昔のままにある。城壁にも春が訪れて、草木が生い茂っている) 春望 (杜甫) 
国士無双 guó shì wú shuāng 国士無双。国中に並ぶもの無き人物。(漢の宰相、蕭何(しょうか)が韓信を讃えて言った言葉)(史記 淮阴侯列伝)
过屠门而大嚼 guò tú mén ér dà jué 肉屋の前を通って盛んに噛むまねをする。空想で自己満足する。(过屠门而大嚼,虽不得肉,贵且快意。肉屋の前で、肉を噛むしぐさをして、それでとりあえず、腹がふくれた気分になる)(曹植 与呉季重書)
过五关,斩六将 guò wǔ guān,zhǎn liù jiāng 五つの関門を過ぎ、六人の将を斬る。あまたの困難を克服して目的を達する。関羽が困難のもと劉備に駆けつけた故事から。(美髯公千里走单骑,汉寿侯五关斩六将。美髯公(びぜんこう)、千里を単騎で走り、漢寿侯、五関に六将を斬る)(三国演義 二十七回)
过犹不及 guò yóu bù jí 過ぎたるはなお及ばざるがごとし。賢さについて、二人の弟子に問われて、孔子は「ひとりは賢さに度が過ぎており、ひとりは賢さがまだ不足している」と答えた。賢さは美徳だが、過ぎれば「小賢しい」ということになり、かえって人間関係を損なってしまいがちだ。何事も、度が過ぎてしまうと、なお及ばない状態と変わらなくなってしまう。真の道は中庸にあるのである。(論語)