40年代後半の歌謡曲
「赤いリンゴにくちびる寄せて..」
作詞、サトウハチロー、作曲、万条目正、歌手、並木路子、霧島昇によるこの「リンゴの唄」(1946年)によって、戦後日本の流行歌(歌謡曲)の幕が上がった。
戦争で中断していたレコード制作は、1946年以降に復活し、二葉あき子、菊池章子、笠置シヅ子、奈良光枝、美空ひばり、藤山一郎、霧島昇、近江俊郎、岡晴夫、ディック・ミネらが活躍した。
この時期は、ジャズ、タンゴ、ルンバ、ブギ・ウギ、ハワイアンなど、ワールドミュージック的な要素をもった曲も多く作られた。
作曲家としては、「三百六十五夜」「湯の町エレジー」(1948年)の古賀政男、「東京ブギウギ」(1947年)「青い山脈」「銀座カンカン娘」(1949年)の服部良一、
「長崎の鐘」(1949年)の古関裕而らが活躍した。
50年代の歌謡曲
1950年代には在日米軍の撤退がはじまり、米軍キャンプで歌っていたジャズ・ミュージシャンが街に進出した。
江利チエミの「テネシー・ワルツ」(1952年)や雪村いづみの「思い出のワルツ」(1953年)など、英語ではなく日本語の歌詞を歌って大衆の支持を得ていく。
歌手としては、後の歌謡界でも活躍するペギー葉山、高峰三枝子、山口淑子、渡辺はま子、越路吹雪、フランク永井、岡本敦郎、伊藤久男、灰田勝彦などがいた。
1950年代半ばのアメリカでは、ビル・ヘイリー&ヒズ・コメッツ「ロック・アラウンド・ザ・クロック」が大ヒット(1955年)、翌56年にはプレスリーが登場するなど、
ロックンロール・ロカビリーの時代を迎えていた。
これを受けて、折からのカントリー&ウエスタンブームで、すでに人気のあった小坂一也がプレスリー「ハートブレイク・ホテル」のカバー・ヒット(1956年)を放ち、
時代は一気にロカビリーへと突入した。
プレスリーのカバーで若者を熱狂させる小坂を見て、他のC&Wバンドも続々とロカビリー化、58年になると、平尾昌章、ミッキー・カーチス、
山下敬二郎の「ロカビリー三人男」がそろってレコード・デビュー。
1958年2月には渡辺プロの肝煎りで、ロカビリーの祭典「第1回日劇ウエスタン・カーニバル」が開かれ、ロカビリー・ブームは本格化した。
また、1950年代後期には高田浩吉などの浪曲が大ブームを呼んだ。
他には真木不二夫、三橋美智也、春日八郎、島倉千代子、松尾和子が活躍した。
そしてこの時期、「悲しき口笛」「越後獅子の唄」「リンゴ追分」「お祭りマンボ」「奴さん」など、ジャズやラテンから民謡調まで多様なレパートリーをこなして、
だれよりも人気があったのが美空ひばりだった。彼女と江利チエミと雪村いづみは三人娘とよばれた。
60年代の歌謡曲
テレビが普及を始めた1959年、「可愛い花」でザ・ピーナッツがデビューすると、歌謡番組「ザ・ヒットパレード」「シャボン玉ホリデー」のレギュラーとして活躍しはじめ、
森山加代子、弘田三枝子、中尾ミエ、木の実ナナ、園まり、伊東ゆかり、梓みちよ、九重祐三子などのポップス歌手が活躍した。
カヴァー全盛期となり、コニー・フランシス、シルビー・バルタン、ペギー・マーチ、フランス・ギャルといった世界のヒット曲を子供でも歌えることができた。
洋楽の影響をうけたオリジナルも次々につくられ、その中から坂本九の「上を向いて歩こう」(1961年)が大ヒットした。
こうした都会志向の音楽と一線を画したところで、橋幸夫と吉永小百合の「いつでも夢を」、舟木一夫の「高校三年生」などのヒット曲が次々に生まれ、これらは青春歌謡とよばれた。
青春歌謡の歌手の中でも、橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦の3人は御三家とよばれ、今でいうアイドルのような人気をあつめた。
若者向けの音楽がのびるにつれて、都会調、日本調、浪曲調などとよばれてきたそれまでの歌謡曲は、60年代後半には、しだいにジャンルのひとつのようにみなされ、演歌とよばれはじめた。
その分野で活躍した歌手は、三波春夫、村田英雄、都はるみ、水前寺清子、森進一、青江三奈、内山田洋とクール・ファイブなど。
1962年には、ベンチャーズが来日、軽やかなエレキ・サウンドは、日本全国にエレキ・ブームを巻き起こした。
寺内タケシとブルー・ジーンズ、加山雄三のランチャーズを筆頭に、ベンチャーズのスタイルに触発されて誕生したグループは枚挙にいとまがない。
東宝の若手映画俳優でもあった加山雄三は、のちにベンチャーズ・サウンドを応用して、「湘南サウンド」と呼ばれる爽やかな和製ポップスを生み出した。
ベンチャーズを聴いて養われた日本人のエレキ・ギター感覚は「グループ・サウンズ(GS)」に受け継がれていく。
この台頭の背景には、ビートルズに代表されるリヴァプール・サウンドの影響も大きい。
グループ・サウンズの基本的なスタイルを最初に示したのは「フリフリ(1965年)」のヒットで知られるスパイダースと、ロカビリーから転身したブルー・コメッツだったが、
グループ・サウンズの黄金時代を支えていくグループは、タイガース、そしてテンプターズという二大グループであった。
看板スターのジュリー(沢田研二)を擁するタイガースは「シーサイド・バウンド(1967年)」「君だけに愛を(1968年)」などの大ヒットを放ち、
人気の面でもヒット曲の数でも他を引き離していた。
テンプターズはショーケン(萩原健一)を抱え、「神様おねがい(1968年)」「エメラルドの伝説(1968年)」のヒット曲で知られている。
グループ・サウンズの最盛期は、1967年から1968年にあり、1966年のビートルズ来日と前後して、100近いグループが人気を競い合っていた。
70年代の歌謡曲
70年代前半には、郷ひろみ、天地真理、南沙織ら若いアイドル歌手が次々に登場した。
テレビの「スター誕生」というタレント・スカウト番組が、その登竜門として大きな役割をはたした。
70年代後半、テレビの歌番組などで、山口百恵、石川さゆり、五木ひろし、キャンディーズ、ピンク・レディーが活躍した。
日本のロックンロール黎明期に先鞭をつけたのは、1970年代以降の音楽シーンをリードしていく細野晴臣、松本隆、大滝詠一、鈴木茂の4人が1969年に結成した「はっぴいえんど」である。
日本初のインディーズレコード、URCからリリースされたセルフ・タイトルのファースト・アルバム (1970年/昭和45年8月) 、続くセカンド・アルバム
「風街ろまん」 (1971年/昭和46年11月)は、
サウンドとビートに日本語を融合させた「日本語によるロック」の試みである。
彼らは、日本語で歌うロックにこだわり続け、日本人独自の視点によるロックの形成を試みた。いわば、日本語ロックの原点でもある。
結成当時から「10年早いグループ」と言われ、惜しくも1972年に解散した。
しかし「はっぴいえんど」が、その後の日本のミュージックシーンに与えた影響は計り知れない程大きく「はっぴいえんど」に影響を受けたミュージシャン
(荒井由美、佐野元春、山下達郎、大貫妙子、ラッツ&スター、松田聖子、南佳孝ら)も数知れない。
1972年にデビューしたのが、矢沢永吉を中心とした「キャロル」というグループである。
ビートルズ初期のロックンロールに目を向けた「キャロル」のシンプルさは、日本語と英語を混用した巻き舌唱法、リーゼント、革ジャンというスタイルを介してロックの大衆化に貢献を果たした。
その後、矢沢永吉は日本人ロッカー初の武道館公演、「時間よ止まれ」でチャート1位を獲得、名実共にビッグスターとなった。
ロックンロールが次第に大衆に受けいられてゆく過程で見られたのは、やはり繰り返されてきた歌謡曲との接近であった。
「カタカナ演歌」を標榜した「ダウンタウン・ブギウギ・バンド」の「スモーキン・ブギ」 (1974年/昭和49)、「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」
(1975年/昭和50年) がチャートの上位を占め、
矢沢永吉の「時間よ止まれ」 (1978年/昭和53) はCMとのタイアップ曲である。
1977(昭和52)年にグループを結成し、翌78年には「勝手にシンドバット」をヒットさせた「サザンオールスターズ」ともなると、ロックという枠ではとらえられなくなるほどである。
80年代の歌謡曲
1980(昭和55)年、山口百恵の引退をうけて、松田聖子デビュー。同年は田原俊彦、近藤真彦も相次いでデビューし、新しいアイドル時代の幕開けを飾った。
他にアイドル歌手としては、女優兼業の薬師丸ひろ子などがいる。
ポップスでは、松任谷由実、中島みゆきの両巨頭に、フォーク調のさだまさし、松山千春、独特のカリスマの地位を築いた矢沢永吉などが活躍、また、長渕剛のデビューもこの時期である。
1982(昭和57)年、中森明菜デビュー。松田聖子と共に80年代を引っ張った売れっ子歌手の誕生である。
聖子と明菜は、お互いにヒットナンバーを切れ目なく発売し、歌謡曲の二大歌姫として君臨した。
山口百恵が宇崎竜童と阿木耀子の夫婦コンビ、さだまさし、谷村新司らのソングライターを起用して成功したように、松田聖子や中森明菜の曲には、呉田軽穂(松任谷由実のペンネーム)、
細野晴臣、井上陽水らニュー・ミュージック系のソングライターが多数起用された。
また、この時期、アルバムセールスはサザンオールスターズの独壇場でもあった。
1985(昭和60)年に入ると、フジテレビ主導の軽薄時代の大型花火ともいうべき、おニャン子クラブがデビュー。秋元康プロデュースによるアイドル量産時代に突入した。
また、この頃より旧来のレコードセールスが次第に低落傾向を見せはじめる。
アイドル勢では、おニャン子クラブからのソロ歌手や切り売りグループなどが次々にヒットを連発、まさに一世を風靡した。
1987(昭和62)年、光GENJIデビュー。田原俊彦、近藤真彦の後続として、ジャニーズ黄金時代の先駆けである。
さらにこの昭和最後の時期は長渕剛の独壇場でもあった。
また、アイドル量産時代の終焉、本格的なポップス、ロック全盛時代の到来、石原裕次郎、美空ひばりの死去、都はるみ引退、CDの登場などによる演歌壊滅の予兆もこの時期の話である。
「時の流れに身をまかせ」のテレサ・テン、「ラブ・イズ・オーバー」の欧陽菲菲など、外国人歌手の活躍もめだった。
李成愛(イ・ソンエ)の1970年代の成功をうけて、チョー・ヨンピル、キム・ヨンジャ、桂銀淑(ケイ・ウンスク)ら、韓国の歌手が紹介された。
ポップス、ロックは新旧交代の時期でもあった。従来のアイドル中心のラインナップから、TMネットワーク、米米CLUB、爆風スランプ、Wink、ザ・ブルーハーツ、
ユニコーン、X、工藤静香、酒井法子、森高千里などが台頭して来る。こうして昭和歌謡曲史は幕を閉じる。
平成に入ると、ポップス、ロック一辺倒となり、各人の好みの分化によって、すべての世代に支持される曲といったものが消滅してしまうようになった。
歌謡曲の時代の終焉である。