12月4日 邦画の歴史
【邦画の黄金時代の到来】
黒澤明、溝口健二、衣笠貞之助らが次々と海外の賞をとった1950年(昭和25年)代、
日本の映画入場者数は11億2700万人(昭和33年)に達し、そのピークを迎えた。
さらに1960年(昭和35年)には、映画の製作本数、映画館の数もピークに達する。
当時娯楽の王様だった日本の映画は、質、量ともに絶頂期を迎えていた。
その興行的な余裕を背景に、巨匠たちは芸術的な作品をつくり続けることが可能になり、
黒澤明や溝口健二のつくる超大作が、豪華なスターの顔ぶれで十分商売になったのである。
一方、スターたちも巨匠の作品に出演して鍛えられ、磨きがかかり、単なるスターから大スター、大女優の
風格を身につけることになった。映画も充実し、スターもいっそう輝きを増す、そうした良き時代であった。
【各映画会社の状況】
【松竹】恋愛映画やホームドラマの分野で定評があった松竹は、「君の名は」「挽歌」「彼岸花」「秋日和」などの作品が
次々と公開された。男優では、松竹新三羽烏と呼ばれた佐田啓二、鶴田浩二、高橋貞二、女優では、高峰三枝子、淡島千景、
津島恵子、桂木洋子、岸恵子、有馬稲子、岡田茉莉子らが人気を博した。
【東宝】戦後の東宝は、黒澤明を看板監督として迎え、三船敏郎、志村喬主演の「七人の侍」「酔いどれ天使」などの黒澤作品、
原節子、高峰秀子主演の成瀬巳喜男作品、また森繁久彌、小林桂樹の喜劇シリーズなど諸作品によって隆盛を極めた。
【大映】大映は、戦前からの大スター長谷川一夫の「銭形平次」シリーズなどの時代物、「雨月物語」「祇園囃子」「夜の河」など
京マチ子 、若尾文子、山本富士子主演の女性映画が輝きを放っていた。
【東映】東映は戦後、1951年(昭和26年)に発足した映画会社で、片岡千恵蔵、市川右太衛門、月形龍之介、中村錦之助、東千代之介、
大川橋蔵らの時代劇名優を擁し「時代劇は東映」を看板に時代劇全盛時代が続いた。
【日活】日活は戦後、1954年(昭和29年)に映画制作を再開し、石原裕次郎、小林旭、浅丘ルリ子、芦川いづみなど、若い俳優を主役に
据えたアクション映画、青春映画で、時代劇は東映、現代劇は日活で人気を二分していた。
映画産業の斜陽化と正統派俳優時代の終焉
監督別主要作品
映画史 (出典: 日本映画人名事典 キネマ旬報社)
1889年(明治22年)10月、アメリカのトーマス・エジソンが映画(キネト・スコープ のぞき箱式シネマ)を発明。
1895年(明治28年)2月、フランスのリュミエール兄弟が「シネマト・グラフ」を開発。
エジソンの映画を改良したもので、スクリーンに映像を映して多くの人々が一度に鑑賞できる。
1896年(明治29年)10月、河浦謙一が東京・銀座に「吉沢商店」を設立。幻燈機の製造販売を始める。
1897年(明治30年)2月、実業家の稲畑勝太郎がシネマト・グラフ(活動大写真)を輸入し、大阪で公開した。
その後、興行は全国を巡回し、映画は瞬く間に代表的な娯楽産業へと成長していくことになった。
1900年(明治33年)3月、吉沢商店が、国産の映写機を発売する。
1903年(明治36年)6月、横田永之助が京都で輸入映画会社「横田商会」を設立。外国映画を公開する。
1903年(明治36年)7月、日本初の邦画「紅葉狩」(主演・九代目市川団十郎)が公開される。
監督・撮影は柴田常吉、配給は吉沢商店。上映時間は6分であった。
1903年(明治36年)10月、吉沢商店が日本初の映画館「浅草電気館」を開設。椅子席240席。入場料大人5銭。
映画は「活動写真」と呼ばれ、映画館は「活動小屋」と呼ばれた。
また、上映中の場面に合わせて解説を行う「活動弁士」と呼ばれる職業人が活躍していた。
1904年(明治37年)2月、日露戦争勃発。
1906年(明治38年)7月、梅屋庄吉が東京・京橋に輸入映画会社「M・パテー商会」を設立。
1909年(明治42年)10月、歌舞伎役者の尾上松之助が横田商会に入社。
1910年(明治43年)7月、田畑健造が東京・日本橋に輸入映画会社「福宝堂」を設立。
1910年(明治43年)7月、横田商会が京都・二条城付近に「二条城撮影所」を開設。
1910年(明治43年)12月、映画史上初の「忠臣蔵」(主演・尾上松之助 制作・横田商会)が公開される。
1911年(明治44年)5月、立川文庫(たつかわぶんこ 少年向け講談書 立川文明堂)が創刊。
立川文庫は、少年を対象に講談や戦記物を刊行し、人気を博した文庫本。定価は20〜30銭。
水戸黄門、真田幸村、猿飛佐助などを題材とし、大衆文学、時代劇に大きな影響を及ぼした。
1911年(明治44年)10月、(アメリカ)ロサンゼルスにハリウッド映画撮影所が建設される。
1912年(明治45年)1月、横田商会が京都・法華堂に「法華堂撮影所」を開設。二条城撮影所は閉鎖となった。
1912年(大正元年)9月、吉沢商店、横田商会、M・パテー商会、福宝堂の四社が合併して日活(日本活動写真株式会社)が発足。
撮影所は、横田商会の「法華堂撮影所」が「日活関西撮影所」として、また吉沢商店の「目黒撮影所」が「日活目黒撮影所」として引き継がれた。
1913年(大正2年)9月、中里介山の小説「大菩薩峠」の毎日新聞連載が始まる。
1913年(大正2年)10月、日活向島撮影所が開設。日活目黒撮影所は閉鎖となった。
1914年(大正3年)2月、(アメリカ)短編サイレント映画「成功争ひ」(主演:チャールズ・チャップリン)公開。
1914年(大正3年)7月、第一次世界大戦勃発。
1914年(大正3年)11月、少年倶楽部(講談社)が創刊。
1917年(大正6年)4月、沢田正二郎が新国劇を設立。
1918年(大正7年)3月、日活関西撮影所が閉鎖され、日活大将軍撮影所が開設。
1919年(大正8年)7月、キネマ旬報創刊。
1920年(大正9年)2月、松竹キネマが創立。撮影所は東京・蒲田。
1920年(大正9年)5月、帝国キネマが創立。撮影所は東大阪・小阪。
1920年(大正9年)6月、月形龍之介が日活(大将軍)に入社。
1921年(大正10年)2月、栗島すみ子が松竹キネマ(蒲田)に入社。
1921年(大正10年)6月、牧野省三がマキノ映画(マキノキネマ株式会社)を設立。撮影所は京都・等特院。
1921年(大正10年)6月、月形龍之介がマキノ映画に転社。
1923年(大正12年)2月、阪東妻三郎がマキノ映画に入社。
1923年(大正12年)5月、帝国キネマ大阪芦屋撮影所が開設。
1923年(大正12年)9月1日11時58分、関東大震災が発生。
死者・行方不明者は推定10万5,000人で、明治以降の日本の地震被害
としては最大規模の被害となった。
日活向島撮影所は壊滅、従業員と現代劇の製作機能を同年11月、
京都の日活大将軍撮影所へ移転させた。
松竹蒲田撮影所も損壊し、従業員と現代劇の製作機能を同年9月、
京都の松竹下加茂撮影所を開設し移転させた。
1923年(大正12年)12月、東亜キネマ株式会社が創立。撮影所は、兵庫県西宮市・甲陽。
1924年(大正13年)1月、松竹蒲田撮影所が復旧し、映画製作を再開。
1924年(大正13年)3月、谷崎潤一郎の小説「痴人の愛」の朝日新聞連載が始まる。
1924年(大正13年)6月、東亜キネマ等特院撮影所(京都)開設。
1924年(大正13年)6月、小山内薫が築地小劇場を開設。
1924年(大正13年)8月、田中絹代が松竹キネマ(下加茂)に入社。
1925年(大正14年)4月、帝国キネマ小阪撮影所が閉鎖。
1925年(大正14年)9月、阪東妻三郎がマキノ映画を退社し「阪妻プロ」を設立。本社は、京都・太秦。
1925年(大正14年)12月、歌舞伎役者の市川右太衛門がマキノ映画に入社。
1926年(大正15年)1月、川端康成の小説「伊豆の踊子」が文芸時代に掲載される。
1926年(大正15年)5月、阪妻プロ太秦撮影所(後の東映京都)開設。
1926年(大正15年)8月、大河内伝次郎が新国劇を退団し、日活(大将軍)に入社。
1927年(昭和2年)1月、歌舞伎役者の林長二郎(長谷川一夫)が松竹キネマ(下加茂)に入社。
1927年(昭和2年)2月、歌舞伎役者の片岡千恵蔵がマキノ映画に入社。
1927年(昭和2年)2月、歌舞伎役者の嵐寛寿郎がマキノ映画に入社。
1927年(昭和2年)2月、市川右太衛門がマキノ映画を退社し「右太プロ」を設立。
1927年(昭和2年)3月、大仏次郎の小説「鞍馬天狗」の少年倶楽部連載が始まる。
1927年(昭和2年)4月、杉村春子が築地小劇場に入団。
1927年(昭和2年)5月、東亜キネマ甲陽撮影所が閉鎖。
1927年(昭和2年)10月、(アメリカ)世界初のトーキー映画「ジャズ・シンガー」(主演:アル・ジョルソン)公開。
1928年(昭和3年)4月、日活大将軍撮影所が閉鎖され、日活太秦撮影所が開設。
1928年(昭和3年)4月、月形龍之介、嵐寛寿郎、片岡千恵蔵がマキノ映画を退社。
それぞれ「月形プロ」「嵐寛プロ」「千恵プロ」を設立。
1929年(昭和4年)4月、森雅之が築地小劇場に入団。
1929年(昭和4年)5月、(アメリカ)第1回アカデミー賞授賞式(5月6日 ロサンゼルス)
1929年(昭和4年)9月、小津安二郎の映画「大学は出たけれど」(松竹キネマ 主演・田中絹代)が就職難のおり、流行語になる。
1929年(昭和4年)10月、高峰秀子(5歳)が松竹キネマ(蒲田)に入社。
1930年(昭和5年)6月、阪妻プロ太秦撮影所が松竹に譲渡され「松竹太秦撮影所」と改称。
1930年(昭和5年)10月、松竹太秦撮影所を帝国キネマが借り受け「帝国キネマ太秦撮影所」と改称。
1930年(昭和5年)1月、山田五十鈴が日活(太秦)に入社。
1931年(昭和6年)3月、阪妻プロ関東撮影所(千葉・津田沼)開設。
1931年(昭和6年)4月、野村胡堂の小説「銭形平次捕物控」が文芸春秋に掲載される。
1931年(昭和6年)4月、PCL(写真化学研究所 後の東宝)が創立。本社は、東京・砧村。
1931年(昭和6年)8月、国内初のトーキー映画「マダムと女房」(松竹キネマ 主演・田中絹代)が公開される。
1931年(昭和6年)9月、満州事変勃発。
1931年(昭和6年)9月、帝国キネマが解散して新興キネマが設立。帝国キネマ太秦撮影所を「新興キネマ太秦撮影所」と改称。
1931年(昭和6年)10月、マキノ映画が解散。
1932年(昭和7年)1月、上海事変勃発。中国に傀儡国家「満州国」が成立。
1932年(昭和7年)4月、無声映画の弁士や楽士が解雇され、浅草で大ストライキが発生。
1932年(昭和7年)5月、五・一五事件発生。右翼が犬養首相を暗殺。
1932年(昭和7年)8月、東京宝塚劇場(社長小林十三)創立。
1932年(昭和7年)8月、(イタリア)第1回ベネチア国際映画祭開催(8月6日〜8月21日)
1932年(昭和7年)10月、東亜キネマ等特院撮影所を閉鎖、東亜キネマは解散。
1933年(昭和8年)11月、PCL映画製作所(後の東宝)開設。撮影所は、東京・砧村。
1933年(昭和8年)2月、日本、国際連盟を脱退。世界から孤立する。
1933年(昭和8年)6月、大都映画が創立。撮影所は、東京・巣鴨。
1933年(昭和8年)6月、谷崎潤一郎の小説「春琴抄」が中央公論に掲載される。
1933年(昭和7年)11月、伊藤大輔「丹下左膳 第一篇」(日活 主演・大河内伝次郎)がトーキーで公開される。
大河内伝次郎のあまりの訛りの強さに、観客は衝撃を受ける。
1934年(昭和9年)3月、日活多摩川撮影所が開設。
1934年(昭和9年)8月、永田雅一が日活を退社し、第一映画を設立。撮影所は、京都・嵯峨野。
1934年(昭和9年)8月、山田五十鈴が日活を退社し第一映画に入社。
1934年(昭和9年)9月、志村喬が新興キネマに入社。
1934年(昭和9年)10月、新興キネマ大泉撮影所が開設。
1935年(昭和10年)1月、川端康成の小説「雪国」が文芸春秋に掲載される。
1935年(昭和10年)4月、原節子、日活(多摩川)に入社。
1935年(昭和10年)4月、上原謙が松竹キネマ(蒲田)に入社。
1935年(昭和10年)8月、吉川英治の小説「宮本武蔵」の朝日新聞連載が始まる。
1936年(昭和11年)1月、森繁久彌が東京宝塚劇場に入社。
1936年(昭和11年)1月、松竹キネマ大船撮影所(神奈川県鎌倉市大船)開設。
これまで蒲田撮影所で撮影をしていたが、町工場の多い蒲田では騒音がトーキー
の撮影に差し障るという理由から蒲田を閉鎖し、大船に移転した。
1936年(昭和11年)2月、二・二六事件勃発。黒澤明、PCLに入社。
1936年(昭和11年)2月、市川右太衛門が右太プロを解散し、新興キネマに入社。
1936年(昭和11年)9月、第一映画が解散。永田雅一は、新興キネマに移籍。
1936年(昭和11年)9月、山田五十鈴が新興キネマに入社。
1936年(昭和11年)10月、大友柳太朗が新国劇を退団し、新興キネマに入社。
1937年(昭和12年)1月、高峰秀子が松竹キネマを退社し東宝に入社。
1937年(昭和12年)4月、松竹キネマが社名を「松竹株式会社」に改める。
1937年(昭和12年)4月、志村喬が新興キネマから日活(太秦)に移籍。
1937年(昭和12年)4月、片岡千恵蔵が千恵プロを解散し日活(太秦)に入社。
1937年(昭和12年)5月、宝塚歌劇の轟夕起子が日活(太秦)に引き抜かれる。
1937年(昭和12年)5月、阪東妻三郎が阪妻プロを解散し日活(太秦)に入社。
1937年(昭和12年)5月、月形龍之介が月形プロを解散し日活(太秦)に入社。
1937年(昭和12年)6月、大河内伝次郎が日活から東宝に移籍。
1937年(昭和12年)7月、盧溝橋事件勃発。
1937年(昭和12年)7月、日中戦争(支那事変)勃発。
1937年(昭和12年)8月、PCLが解散し、東宝株式会社が発足。
1937年(昭和12年)11月、林長二郎(長谷川一夫)が松竹から東宝に移籍。
これがもとでヤクザに顔を切られたが、芸名を本名の長谷川一夫に改め、再起する。
1937年(昭和12年)11月、原節子が日活から東宝に移籍。
1937年(昭和12年)12月、(アメリカ)ディズニー制作の世界初カラー長編アニメ「白雪姫」公開(日本公開は1950年)
1938年(昭和13年)3月、国家総動員法が成立する。
1938年(昭和13年)3月、嵐寛寿郎が嵐寛プロを解散して日活(太秦)に入社。
1938年(昭和13年)6月、東横映画株式会社(後の東映)が創立。撮影所は、京都・太秦。
1938年(昭和13年)6月、山田五十鈴が新興キネマを退社し東宝に入社。
1938年(昭和13年)9月、前年に召集された山中貞雄(映画監督)が中国で戦病死。
1938年(昭和13年)9月、野村浩将「愛染かつら」(松竹 主演・上原謙、田中絹代)が記録的大ヒット。
1938年(昭和13年)9月、李香蘭(山口淑子)満州映画でデビュー。
1938年(昭和13年)満州に渡る「大陸の花嫁」募集が実施される。
1939年(昭和14年)9月、第二次世界大戦勃発。
1939年(昭和14年)12月、(アメリカ)風と共に去りぬ(主演:ヴィヴィアン・リー、クラーク・ゲーブル)公開(日本公開は1952年)
1940年(昭和15年)4月、米・味噌などが配給制になる。
1940年(昭和15年)9月、日独伊三国同盟が成立。
1941年(昭和16年)2月、李香蘭(山口淑子)の日本劇場公演に観客が殺到し、消防車が出動。散水して観客を解散させる。
1941年(昭和16年)4月、映画法により、映画製作会社は松竹、東宝、日活の三社と決められる。
1941年(昭和16年)12月、太平洋戦争勃発。英米の映画は上映禁止となる。
1942年(昭和17年)2月、衣料品が点数制になる。
1942年(昭和17年)1月、新興キネマ、大都映画、日活の制作部門が合併して大映(大日本映画株式会社)が発足。
新興キネマ太秦撮影所は「大映京都第二撮影所」と改称。
新興キネマ大泉撮影所は「大映東京第一撮影所」と改称されたが、そのまま閉鎖となった。
大都映画巣鴨撮影所は、閉鎖となった。
日活太秦撮影所は「大映京都第一撮影所」と改称。
日活多摩川撮影所は「大映東京第二撮影所」と改称。
嵐寛寿郎、阪東妻三郎、市川右太衛門、月形龍之介、片岡千恵蔵、大友柳太朗が合併により大映に移籍。
1942年(昭和17年)3月、長谷川一夫(東宝)が劇団新演技座を設立。
1942年(昭和17年)1月、志村喬が日活の合併により松竹に入社。
1942年(昭和17年)6月、日本軍、ミッドウェー海戦で大敗する。
1943年(昭和18年)1月、谷崎潤一郎の小説「細雪」が中央公論に掲載される。
1943年(昭和18年)1月、志村喬が松竹から東宝に移籍。
1944年(昭和19年)7月、サイパン島の日本軍全滅。
1944年(昭和19年)10月、フィリピン沖海戦で、神風特攻隊が出撃する。
1945年(昭和20年)8月、広島・長崎に原爆が投下される。
1945年(昭和20年)8月、終戦。黒澤明「虎の尾を踏む男達」(東宝 主演・大河内伝次郎)が上映禁止となる。
1945年(昭和20年)10月、松竹歌劇の並木路子が松竹「そよかぜ」で歌った「リンゴの唄」が爆発的ヒット。
1945年(昭和21年)12月、GHQより「チャンバラ禁止令」が出され、時代劇が上映禁止となる。
1946年(昭和21年)4月、佐田啓二が松竹に入社。
1946年(昭和21年)7月、三船敏郎が東宝に入社。
1946年(昭和21年)9月、(フランス)第1回カンヌ国際映画祭開催(9月20日〜10月5日)
1947年(昭和22年)3月、新東宝株式会社が創立。本社は、東京・世田谷。
1947年(昭和22年)3月、大河内伝次郎、長谷川一夫、山田五十鈴、原節子、高峰秀子が東宝から新東宝へ移籍。
1947年(昭和22年)5月、日本国憲法が施行される。
1947年(昭和22年)6月、石坂洋次郎の小説「青い山脈」の朝日新聞連載が始まる。
1947年(昭和22年)9月、大映京都第二撮影所を東横映画が借り受け「東横映画撮影所」と改称。
1947年(昭和22年)10月、大泉映画が創立。撮影所は、東京・大泉。
撮影所は、大映が長らく閉鎖していた「大映東京第一撮影所」を買収し、大泉スタジオとして撮影を開始した。
1948年(昭和23年)2月、長谷川一夫、山田五十鈴が新東宝から新演技座に移籍。
1948年(昭和23年)8月、インフレから東宝で大ストライキが発生。スト破りに占領軍の戦車が出動する。
1949年(昭和24年)2月、松竹歌劇の京マチ子が大映に入社。
1949年(昭和24年)3月、美空ひばり(11歳)が東横映画「のど自慢狂時代」で映画デビュー。
1949年(昭和24年)4月、GHQの要請で、映倫(映画倫理規定管理委員会)が発足。
1949年(昭和24年)4月、阪東妻三郎が大映から松竹に移籍。
1949年(昭和24年)4月、市川右太衛門、片岡千恵蔵、大友柳太朗が大映から東横映画に移籍。
1949年(昭和24年)7月、今井正「青い山脈」(東宝 主演・原節子)が主題歌とともに大ヒット。
1949年(昭和24年)8月、美空ひばりがコロンビア「河童ブギウギ」で歌手デビュー。
1949年(昭和24年)10月、大河内伝次郎が新東宝から大映に移籍。
1949年(昭和24年)10月、中国(中華人民共和国)成立。
1950年(昭和25年)4月、山本富士子、ミス日本に選ばれる。
1950年(昭和25年)6月、朝鮮戦争が勃発。警察予備隊(後の自衛隊)発足。
1950年(昭和25年)11月、高峰秀子が新東宝を退社。
1951年(昭和26年)2月、岸恵子が松竹に入社。
1951年(昭和26年)4月、東横映画と大泉映画が合併し、東映株式会社が発足。撮影所は、京都(太秦)及び東京(大泉)
1951年(昭和26年)4月、月形龍之介が大映から東映に移籍。
1951年(昭和26年)6月、(ドイツ)第1回ベルリン国際映画祭開催(6月6日〜6月18日)
1951年(昭和26年)黒澤明「羅生門」(大映 主演・三船敏郎)がベネチア映画祭でグランプリを受賞。
1951年(昭和26年)黒澤明「羅生門」(大映 主演・三船敏郎)がアカデミー賞(最優秀外国映画賞)を受賞。
1952年(昭和27年)3月、新演技座が解散。長谷川一夫は、大映へ移籍。山田五十鈴はフリーとなる。
1952年(昭和27年)4月、萩原遼「赤穂城」(東映 主演・片岡千恵蔵)が公開。ただし討ち入りのシーンはなし。
1952年(昭和27年)溝口健二「西鶴一代女」(新東宝 主演・田中絹代)がベネチア映画祭で準グランプリを受賞。
1953年(昭和28年)1月、NHKで大相撲中継始まる。
1953年(昭和28年)3月、山本富士子が大映に入社。
1953年(昭和28年)8月、NTVでプロ野球中継始まる。
1953年(昭和28年)8月、(アメリカ)ローマの休日(主演:グレゴリー・ペック、オードリー・ヘプバーン)公開(日本公開は1954年)
1953年(昭和28年)9月、日活が映画製作再開を発表する。
1953年(昭和28年)9月、お互いに俳優の引き抜きをしない五社協定が極秘で結ばれる。
1953年(昭和28年)9月、大庭秀雄「君の名は」(松竹 主演・佐田啓二、岸恵子)が大ヒット。
ヒロイン真知子の纏ったマフラーの巻き方が「真知子巻き」と呼ばれて女性の間で大流行した。
1953年(昭和28年)溝口健二「雨月物語」(大映 主演・森雅之、京マチ子)がベネチア映画祭で準グランプリを受賞。
1954年(昭和29年)2月、NHK、NTVでプロレス中継始まる。
1954年(昭和29年)2月、歌舞伎役者の中村錦之助(萬屋錦之助)が東映に入社。
1954年(昭和29年)2月、日本舞踊家元の東千代之介が東映に入社。
1954年(昭和29年)4月、東映が二本立て興行を始める。
1954年(昭和29年)4月、萩原遼「新諸国物語 笛吹童子」(東映 主演・東千代之介、中村錦之助)が大ヒット。
1954年(昭和29年)6月、日活が映画製作を再開する。撮影所は、東京・調布。
1954年(昭和29年)6月、勝新太郎が大映に入社。
1954年(昭和29年)黒澤明「七人の侍」(東宝 主演・志村喬、三船敏郎)がベネチア映画祭で準グランプリを受賞。
1954年(昭和29年)溝口健二「山椒大夫」(大映 主演・田中絹代)がベネチア映画祭で準グランプリを受賞。
1954年(昭和29年)衣笠貞之助「地獄門」(大映 主演・長谷川一夫)がカンヌ映画祭でグランプリ受賞。
1954年(昭和29年)衣笠貞之助「地獄門」(大映 主演・長谷川一夫)がアカデミー賞(最優秀外国映画賞)を受賞。
1955年(昭和30年)2月、歌舞伎役者の大川橋蔵が東映に入社。
1955年(昭和30年)7月、高倉健が東映に入社。
1955年(昭和30年)石原慎太郎の小説「太陽の季節」が芥川賞を受賞。太陽族映画ブームとなる。
1955年(昭和30年)稲垣浩「宮本武蔵」(東宝 主演・三船敏郎)がアカデミー賞(最優秀外国映画賞)を受賞。
1956年(昭和31年)4月、石原裕次郎が日活に入社。
1956年(昭和31年)映画各社が毎週二本立て興行となり、映画の大量生産時代となる。
1957年(昭和32年)1月、美空ひばりが浅草国際劇場で公演中、ファンから塩酸をかけられ火傷を負った。
1957年(昭和32年)4月、嵐寛寿郎が大映から新東宝に移籍。
1957年(昭和32年)5月、大河内伝次郎が大映から東映に移籍。
1958年(昭和33年)稲垣浩「無法松の一生」(東宝 主演・三船敏郎)がベネチア映画祭でグランプリを受賞。
1958年(昭和33年)年間入場者数11億2700万人、映画史上日本最高記録となる。
1959年(昭和34年)3月、週間少年マガジン、4月、週間少年サンデー創刊。
1959年(昭和34年)4月、皇太子結婚の報道でテレビが爆発的に普及。
1960年(昭和35年)4月、吉永小百合が日活に入社。
1960年(昭和35年)映画館数7457館、年間製作本数547本、映画史上世界最高記録となる。